10

 テーブルの上でミルクティーが冷めていく。下敷きにしたナプキンが風に力なく揺れる度、カップの中が波打って揺れた。潮は頬杖をついたままカップを見下ろし、ぼんやりとただ過ぎていく時間の中に腰を下ろしている。
 あざみへの答えが出ないまま数日が経った。曖昧な気持ちにイラつくことすら飽きると、その先にあったのは虚無と気だるさで、彼はとうとう何一つとしてまともに取り合うこともできなくなってしまった。
 あざみにはしばらく会っていない。愛美や瀬賀を含め、数少ない知人友人とは顔を合わせていたが、何を話していたのかも、どんな生活をしていたのかもよく覚えていなかった。淡々とこなされたノートと提出課題の認印がなければ、時間の経過すらも忘れていたかもしれない。
「君、愛美ちゃんとあざみちゃんとよくいる人だね」
 顔を上げると、眼鏡の男性が潮の前に座っていた。知っている顔だ。カフェの隣にある花屋の店長。名前までは知らないが、愛美やあざみが店長と慕っているところからそれなりにまともな人なのだろう。
「ああ、悪いね声かけちゃって」
「いえ、二人からよく話は聞いてます」
「そうなの? あの二人から……少し恥ずかしいな。どんな話されてるんだろう」
 そう言ってはにかむ彼の表情や仕草はとても柔和で、人当たりの良さがにじみ出ている。
 フラワーショップアヤはこの町でもそれなりにリピーターの多い花屋で、学校や役所、業者などから評判が良い。なんでも店長のセッティングが絶妙だという。
 しかしそんな人が自分に一体何の用だろうか。表情に出ないよう気をつけながら彼を観察しているが、意図は全く読めない。
「潮くんさ、二人って何かあった?」
 切り出された言葉に潮は眉をひそめる。
「どうして、俺に?」
「最近二人とも様子が少し変でね。愛美ちゃんとあざみちゃん、なんだかギクシャクしてる感じがして」
「二人の様子が変、ですか」
 店長は頷く。
「そうなんだ、入りたての頃からあざみちゃん、愛美ちゃんの面倒をかなり親身になって見てくれていたんだけど、最近はすっかり会話も弾まなくて、仕事に没頭するようになっちゃって……」
 別に、仕事に支障はないんだけれど。ため息混じりに肩を落とす店長を見て、潮はその原因をなんとなく悟っていた。恐らく、愛美だろう。愛美は潮に迫っている。潮はあざみを追っている。
 その関係の中で潮は、とうとうあざみに辿り着き、デートまで漕ぎ着けた。それが愛美にとって面白くないことであるのは当然だ。初対面で刃物を突きつけてきた女なのだから。
 そこで、潮は疑問を感じた。何かがおかしくないだろうか。
 もし仮に、潮が手の届かない存在となったとしたら、愛美はあの時と同じように刃物に手を出すのではないか。何よりデートだ。潮の気持ちがこちらに向いていないと暗に伝えている状況にも関わらず、それを心の内に収めるだろうか。
 デートは気付かれていない。潮とあざみの関係が進展したこともまだ知らない。
 だとすれば、愛美とあざみは何故そうなったのだろう。
「潮くんも大変だね」
 思案に耽っていると店長がぽつりと言った。
「あざみちゃんのことすごく見てたの、僕は知ってるからさ。ほら、いっつもこの席にいたでしょ、君」
 潮は目を見開く。ああ、いや、と店長は両手を振る。
「誰にでもあるから、好きな人の近くになんとなく行きたくなることってさ。僕も昔は偶然を装ってたりしたよ。何かきっかけでも起きてお近づきになれないかな、とかさ。でも結局一歩も踏み出せなくて終わっちゃったんだけどね」
「そう、ですか」
「ストーカーになっちゃうのかな、こういうのって。参ったな」
 照れ臭そうに笑う彼にすっかり毒気が抜かれて、潮も思わず笑ってしまう。不思議な人だ。この花屋が長く続いている理由に納得がいった気がする。
「店長さんって、ずっと花一筋なんですか」
「え、僕かい?」
「ええ、花屋ってなんだか、不思議な仕事だと思ったので。どれだけ好きだったらできるんだろうって」
 店長は目を閉じて唸っている。昔を思い出しているらしい。二、三十秒ほど唸った後、諦めたように目を開けるとカップコーヒーを一口飲み、多分、とだけ答えた。
「もうあんまり思い出せないかな」
「花はいいですよね。ずっと綺麗で」
 店先で揺れる花たちに目を向けながら潮は、その美しさを羨ましいと思う。あれほど完璧だと思っていたものでさえ欠点がある。自分はいつになれば、理想的な髪に巡り合うことができるのだろうか。
 あざみが完璧でいてくれたなら良かったのに。美しさの中に垣間見えた小さな醜さが、潮の心を強く締め付ける。
「花だって、最初から綺麗なわけじゃないよ」
 店長はカップコーヒーを飲み干すと席を立ち、潮に手招きするとそのまま店に向かっていく。彼の突然の行動に戸惑いながらも潮はその後をついていく。
 店内に入ると植物の青っぽい匂いが強くなる。ガラスケースの中に差し並べられた花や、中央の円卓を飾り立てるブーケたちが店を彩っている。そのどれもが艶やかで、繊細で、目を引く美しさだった。
「ここにあるものは、愛された花たちなんだよ」
「愛された、花たち」
 潮が繰り返すと、店長は頷いた。
「種から丁寧に育てて、愛情と栄養と水を注いで、いい形のものを選別して、徹底的に愛された花だけがここに並ぶ。その中には勿論かたちの悪い花や、品質の良くない花も混じってる」
 店長は花を一輪手にとると潮に渡した。花弁が多く、中央にいくにつれて細やかに連なっていく黄色い花だった。小さなヒマワリのようにも見えて、明るい印象を受ける。
「これは?」
「ガーベラ。綺麗でしょ。それも丹精込めて育てられた中の美しいものを僕が選んだんだ」
 けれど、と彼は一方向に目を向ける。店長の視線の先を見ると、価格の下がった花たちが弱々しく首をもたげているのが見えた。
「僕たちができるのは、そこまでなんだよ。そこから美しくあり続けられるかは、受け取り手にかかってる。更に言えば、ここで選ばなければあとは弱っていくだけ。いっその事、選ばれず植わっていたほうが良かったかもしれない、なんて結末もある」
 あの枝毛は、大切にされなかった証。
 潮の中で、胸が高鳴るのを感じた。
 あざみはいつだって、沢山の男に裏切られてきた。大事にされてこなかった。あれだけ美しい髪があるのに、誰もその美しさを守ろうとは思わなかった。僕たちにできるのは、そこまでなんだよ。店長の言葉を頭の中で反芻する。
 自分だけなのだ。
 あの美しさを守れるのは。
 弱りゆくあの髪を、美しさに影を落とす枝毛を取り除いてあげられるのは、自分しかいない。
 あざみの背中に流れる淋しげなあの黒髪を抱き締めたい。美しくあれ、美しくあれと。
 この想いは、妥協なんかでは決してなかったのだ。潮は手にしたガーベラをじっと見つめる。
「良かったら、それ、包んであげるよ」
「いいんですか」
「話を聞いてくれたお礼だよ。あざみちゃんにでも渡してあげるといいよ。彼女も最近ちょっと落ち込み気味だから」
 笑いかけてくれた店長に、潮も笑みを浮かべた。丁寧にラッピングされていく黄色いガーベラを眺めながら、明日、久しぶりにあざみたちに会いに行こうと思った。このガーベラを贈ったら、彼女はどんな顔をするだろう。
 この間のデートは悪いことをしてしまったから、ついでに仕切り直しをさせてもらってもいいかもしれない。
 自分はもう、枝毛を見ても気にすることなく接することができる。潮の中でほんの少しだけ美しさの基準が変わったのを感じた。
 完璧な美しさは、それに相応しいだけの愛情を注がれている。なら、自分があざみの愛になってやればいい。そうすればきっと、あざみの痛みは取り除かれるに違いない。
「なんだか、花を見る目が変わった気がします」
 そう言うと、店長は声を上げて笑った。
「そう言ってもらえると嬉しいよ。またカフェのついでに遊びにおいで」
 綺麗に整えられた一輪のガーベラは、凛々しく潮へとその顔を向けていた。花に負けるわけにはいかないと、潮も背筋を正してその花を受け取った。

   ●

 正門を越えると、学生たちからの視線を潮は感じた。潮は手にしたガーベラをチラリと見てから、好きなだけネタにすればいいと振り切る。彼らは知らないだろう。この花の美しさを。自分が救われ、新たな一歩を踏み出せたことを。
 潮は恥ずかしがることもなく誇らしげに花を手にキャンパスを歩いていく。
「あれ、小波くんどうしたの、その花!」
 声の先に瀬賀がいた。思えば彼とも久しぶりに会う。相変わらず人当たりの良さそうな笑を浮かべている。潮はにっこりと笑うとおう、と瀬賀を迎える。
「昨日そこの花屋で貰ったんだ。俺、花とか分からないし、せっかくなら誰か貰ってくれないかって思ってさ」
「へえ、小波くんが花なんて珍しい」
「悪いか、俺が持ってたら」
「うん」
「否定しろよな」
 からかわれながらも潮は笑って対応する。そんな潮に瀬賀は少し戸惑っていたが、顔に出ても良くないので苦笑交じりでどうにか誤魔化した。しばらく来ない間に潮の顔色が随分と良くなった。なんとなく姿勢も良い。
 どうやら花屋で何か機転になることでもあったようだった。
「そういうことなら愛美ちゃんとはどうかな。ガーベラでしょ、それ。彼女の家に飾ってあったの見たことあるんだよね」
「そうだな……。ちなみに今日あざみさんは見た?」
「え、糸杉さん? いや、見てないけど」
「潮くん!」
 愛美がこちらに向かって駆けてくる。まずい、このままだとせっかく用意したこの花を勘違いされる可能性がある。瀬賀もなんとなく愛美に傾けたがっている節があるから、そうなると厄介だ。潮は手にしたガーベラを守るように引き寄せながら愛美と距離を置くように歩く。
 だが、愛美は構わずずんずんと潮に向かって駆けてくる。
「なんだ愛美か、悪いが少し忙しいんだ。後にしてくれないか?」
「潮くん、あざみちゃんに会わないほうがいいよ」
 あざみという言葉に潮は眉を顰める愛美は怒ったような、心配しているような得体の知れない表情で潮を見ている。
「どうして?」
「どうしても、潮くんの為なの。とにかく、あざみちゃんには近寄らないほうがいい」
 普段から潮以外は眼中に入れない愛美が珍しい。そういえば、店長も二人の関係がどこか上手くいっていない話をしていた気がする。
「お前、もしかしてあざみさんのこと追ってたんじゃないか?」
 愛美の反応を見て潮は確信した。ここ最近見ないと思っていたが、愛美はあざみのことをつけていたらしい。ならば、あのデートの時も彼女はいたのかもしれない。ハッキリと分かってしまったのだ。潮の視線の先にいるのが誰なのかを。
 愛美は何かを決意したように鞄からノートを一冊取り出す。瀬賀はそれを見て不愉快そうに顔を歪めたが、愛美の目には入らないようだった。
「これを見て」
「ああ、分かった分かった。後でいくらでも聞いてやるから」
 愛美を押しのけるようにして潮は先を急ぐ。全く面倒なのに絡まれてしまった。
 後ろからとやかく言う愛美と宥める瀬賀を無視しながら潮は校舎へと入る。愛美の口ぶりからして、あざみはキャンパス内にいるのだろう。ならどこかで必ず会うはずだ。
 手元のガーベラを持ち直し、そのからりと晴れた黄色をした花を見て微笑むと、潮は足早にあざみの姿を探す。
 デートぶりのあざみだ。あの美しい髪にまた会える。あの髪に愛を注ぎ続けられるのは自分しかいない。この花と共にもう一度彼女とやり直そう。まだスタートラインで、チャンスはあるはずだ。
 中庭に出たところで、ようやく潮は念願の彼女の姿を見つけた。彼女も久しぶりに見る潮に、その端正な表情に上品な笑みを載せる。
「あら、潮くん、久しぶりね」
「あざみ、さん?」
「あの日から全然会えなかったから心配しちゃった。何か気に障ることでもしちゃったかなって思ってたの。でも元気そうで良かったわ」
「いや、そんな、違う」
 潮はその現実を受け止められないでいた。
 それまでよくできた笑顔を浮かべていたあざみは不思議そうに潮の反応を見ていた。
 愛美は、彼の異変に動揺しながら、たじろぐ彼の背に手を回す。
 最後に辿り着いた瀬賀は、楽しみにしていた光景を見て、唇を噛み締めながら心を踊らせていた。
「だって、その髪は……あざみさん、その髪は?」
「髪? ああ、どうかしら、イメチェンしてみたの」
 手元から零れ落ちたガーベラがくしゃりと潮の足元でひしゃげ、花弁が乱れて散る。
 だが、彼にそんなことを気にできる余裕はなかった。
 店長の言葉が脳裏をよぎる。
 美しくあり続けられるかは、受け取り手にかかってる。
 選ばなければあとは弱っていくだけ。

 あざみの髪はバッサリと切り落とされていた。腰まであった長い黒髪はショートボブで切り揃えられ、そのせいか以前よりもあざみの表情はあどけなく、幼気に感じられた。
 もしも、彼女が髪を切ってしまっただけだったなら、もしかすると今の潮なら許容できたのかもしれない。また伸ばせばいいと、むしろあの枝毛が消え、ここから自分の愛で彼女の髪が育っていくことを喜びすらしたかもしれない。
 あざみの髪は、綺麗に染まっていた。
 赤みがかった髪の奥で、あざみは穏やかに笑みを浮かべている。
 その屈託のない笑顔の前で、潮はただ立ち尽くすことしかできなかった。
sage