Neetel Inside 文芸新都
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先輩の家を出て、花火が焦げた匂いのする夏の夜の住宅地を歩く。
換気扇の回る音や網戸をすり抜けたテレビ番組の音が、見知らぬ家族の幸せな姿を思い起こさせた。
五分ほど歩いて住宅地を抜けると、線路沿いの大きな通りに出た。
帰り道が分かるか不安だったけれど、線路が見えたことで安心した。
迷わずにB駅までたどり着けそうだ。
先輩が駅まで案内すると言ってくれたけれど、大量のAを吸引した先輩は足元がふらついていて、外を歩かせるには不安だった。
結局、ボールペンで紙に駅までの簡易的な地図を書いてもらい、先輩の家を一人で出た。
線路沿いを西に向かって歩くと、長い上り坂の頂点にB駅の灯りが小さく見えた。
この辺りは十年ほど前に開発されたニュータウンで、丘の上のB駅を中心に新興住宅地が密集している。
駅周辺には映画館、公立大学、大型スーパー、財閥資本のアウトレットが立ち並び、休日には多くの人で賑わっていた。
二駅離れた街に住んでいる僕も、頻繁に駅周辺の施設を利用していて、今歩いている通りの風景にも見覚えがあった。
重い頭と微熱を帯びた気だるい身体で、ぜいぜいと息を吐きながら坂道を上る。
駅に到着する頃には、Tシャツはじんわりと汗で濡れていた。
会社帰りのサラリーマンや大学生で賑わうB駅の改札を抜け、電車に乗りながら今日の出来事を思い出す。

先輩と会うのは八年振りだった。
昨日の夜、部屋でビールを飲みながら携帯電話をいじっていると、アルバイト派遣会社から
『人手が足りないから明日どうしても手伝いに行ってくれないか』と電話でお願いをされた。
特に用事も無かったから快く承諾し、翌朝に派遣先の冷凍食品工場に行くと、そこには先輩がいた。
「久しぶりだな」
古びた工場の玄関で僕に無表情で挨拶をした先輩は、高校生の頃とは別人のように思えた。
一学年上の高校の先輩で、テニス部の部長だった。
試合では部員の誰よりも大声を出して応援するような人で、退部しようとした僕を泣きながら説得したのも先輩だった。
夏の県大会の団体戦、主将として出場した先輩はあと一歩の所で負けた。
「みんなの夢を終わらせてごめん」
と泣いて部員に謝る先輩を見て、この人のようになりたいと思った。
憧れだった。
卒業後は有名私立のK大学に進学、大学卒業後は大手製薬会社の営業として働いていると風の噂で聞いた。
大企業に勤めているはずの先輩が、なぜ田舎町の冷凍食品工場で働いているか疑問だった。
もしかしたら、製薬会社で働いている噂が間違いだったかもしれないし、噂を聞き間違えたのかもしれない。
ただ、真相を聞く勇気はなかった。

先輩はバイト担当の指導員で、僕を含めた派遣アルバイト五名の出席を取った。
注意事項を軽く説明された後、厚手の防寒着を配られ、仕事場まで後をついてくるよう言われた。
仕事場までの狭い廊下を歩いていると、蛍光灯の青白い光に照らされた白い壁にこびりついた無数の汚れが気になった。
汚れがいつ、誰に、どのようにつけられたのか気になったけれど、それはきっと遠い昔の話で誰も覚えていないし、誰も知らないのではないかと思う。
自分にとって大事でないものが汚れていくことに、誰も興味を持たない。

狭い更衣室は作業員でごった返していた。
一人一台ずつ割り振られたダイヤル式のロッカーに、脱いだTシャツとリーバイスのジーンズをしまい、防寒着に着替える。
更衣室に隣接した作業場の入口で、扉の横に置いてある透明のヘアーキャップと白いマスクを装着して、ペット容器に入った殺菌用アルコールで入念に手を擦る。
作業場のドアを開けると、気圧差で押し出されたひやっとした空気が流れ込んできた。
作業場は防寒着を着ていても肌寒く、まるで冷蔵庫の中にいるようだった。
部屋の窓からは、作業員が大型の機械を使って鶏肉を切り刻んでいる様子が見える。
アルバイトを含めた作業員十数名は、中央に置かれた大型のテーブルを囲むように立ち、運ばれてくる鶏のもも肉をひたすら白いトレーの上に乗せるよう言われた。
スーパーに並んでいる精肉商品が、このように人力でトレーに置かれていたことを考えると、世界は見えない人の歯車で回っているように思える。
退屈な作業は、十分間が一時間にも二時間にも引き延ばされているようだった。
先輩は何度か鶏肉が入った大型のトレーを作業場に運んできたが、話しかけるタイミングは無かった。

八時間の作業後、私服に着替えて工場の外に出て、駐輪場横の喫煙所の白いベンチに座り、タバコに火を点けた。
煙に含まれたニコチンが、単調な作業で疲れた脳にひと時に安息を与える。
マルボロの青白い煙がゆらりと空に吸い込まれていく様子をぼんやりと眺めていると、作業場の入口から先輩が出てきた。
軽く挨拶をした後、吸っているタバコの銘柄や、仕事の感想など当たり障りのない話をした。
バイト後の予定を聞かれ、用事がないことを伝えると、先輩は太い眉を少し上げて

「面白いものがあるんだけど」

と小さな声で言った。

       

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