おまけ

 「いいか、君は今、二階級特進して少佐になったんだ……」

 今なお穹窿きゅうりゅうへと突き抜けていく赫奕かくえきたる煙焔えんえんとした逸本の光をひとみに宿しながら、チトフはマイクに向かい、光の主に向かって、ただ至って謐謐ひつひつにそう告げた。
 私が発した、このことばうら には事実と、そしてもう一つのくらい意味を内包している。彼の往く晦渋かいじゅうとしたみちは、何奈いかにこの大地へと帰還せしめぬものであるかということを……。
 是迄これまでにこの無窮の暗闇へと飛び立った者達は、宇宙を撫でる風にあまねく命をほしいままにされて来た。今回も彼が地球へと還る勝算は低かった。わずかにでもあのそらを生きて揺蕩えば、ユーリがもし、旻を支配する神の威光にあたわなかったとしても、其れは就中なかんずく共産党の勝利なのだから、彼の死は決して無駄ではない。
 やや在って、明晰でないふるえた機内の音と共に「それはサイコーだな」というユーリの泰然としたことばかえった。
 ユーリはもとより落ち着きを払っていた。だが、彼に指示を出すべき私の心は決して面映ゆくはない。そもそも、ユーリが飛ばなければ、予備飛行士の私が替わりにその座を務めることになっていたからである。
 人類初の無重力空間での有人飛行……。
 ユーリが……。
 彼ではなく、若しも私が飛んでいたならば、必ず生還せしめて見せたという、斯様かような思いを抱くのは果たして傲慢であろうか? やがて、一つの悪魔的考えをおもい泛べ冷やりとした。もし彼が歸って来なければ、次は私があの無窮の中へ飛びだつ番が廻るやもしれぬ……。その時は必ず……。
 いや、それは違う……。私は彼が星屑となることを願うわけではない。だが、首肯はできない。玉粒の汗を浮かべ、私はしばしば、彼がつことを祈願しているかのような、じりじりとした背徳感を覚え始めていた。
 体軀、學習能力、無重力への耐久度、身分。驕慢ではないが、私はどれを取ってもユーリに負けたことはない。この競争は私の圧倒的勝利に終わるかにおもえた。
 数あった候補生達は脱落していき、ユーリと私、いずれかが選べる段になって、ユーリに在って私に無いものが、顕在し始めた。
 ひとつは、ユーリが労働者階級であったことである。私の父が教師であり、ユーリの父は平民の、鍛冶工であった。共産党の幹部連は、万国民に夢を見せようとした。ユーリをこの快挙に抜擢することが、党の宣伝におあつらえ向きであるとその眼鏡に適えたのだった。
 たしかに私の家系では、彼には勝てないかもしれない。だが私には、研鑽と忍耐の才覚が在った。諦めることを怠ったことは一度としてなかった。幹部は私の事を昏いくら、昼行灯な奴だとそしったが、夢の為になら雑音は気にはならなかった。
 「もう充分だろ、チトフ。問題はない、準備万端さ」
 離陸する一時間前でさえ、一縷の可能性を脱ぎ捨てられず、ユーリの宇宙服を仔細に精査した。何か缺陥けっかんが見つかりさえすれば、代わりに私が飛べるからだ。もはや、思考は分裂を極めていた。隠し持った工具で宇宙服に孔を穿つことは容易ではあったが、それだけはし得なかった。
 「実はな……、本当に俺は、君に感謝してるんだ」
 さもしくも、濃鼠のように憐れな私の姿にも、ユーリは持ち前のみを崩さなかった。
 斯拉烏スラブ人の模範とでも云うような調った相貌に、柔和な相好が張り付いている。
 ああ! なんという英雄色だろう! 彼は生まれながらにして、人の心を熔かしてしまう力を持っているに違いなかった。党幹部もきっと彼に絆されたに違いない。寤寐しょうごや食事を共にした仲間として、凡てが莫迦らしくなって、彼を赦してしまいそうになったのだ。
 しかし、私は屈辱を撤回出来なかった。
 一ヶ月前――、飛行士達の意思と、決意を諮る最終面談に於いて、私は幹部達に対して終始明るく取り繕った筈だった。辞去し、ドアを締めた後中から聞こえてきたのは――
 「チトフの方が四キロ軽い? ならば、その分だけ機体から装置を取り外せ!」
 ユーリをシンパとする幹部の声であった。私は突然の失意と、喫驚が綯交ないまぜになりながら、ユーリと入れ違った。
 後にりたる所では、彼は、持ち前の破顔を湛えながら、こう云ったのだという。
 「ユーリ、君は、宇宙で死んでも構わないか?」
 「ダース!もちろんであります!
 これが全幅という訳ではないが、彼の心根の耀あかるさが、春の雪解けで増した河の流れが村々を浸していくように、決定打を与えたのは言うまでもない。
 然るに、私は、出自や、性格又は雰囲気と云った、計測できない要素に完敗した。
 

 それでも私は、彼に対して祈りを捧げ続けなくては成らないのだろうか。