Neetel Inside 文芸新都
表紙

相応しき死を探して
第一話 路地裏の遭遇

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 五年前、伍堂翔の胸には大きな穴が空いた。
 それはもちろん比喩であって、本当に胸部を貫かれて空洞が出来たわけではない。
 だが、彼は未だにその埋まらない胸の痛みに時折顔を顰める。
 思えば、あの時に生きる意味の大半を失ったとさえ言える。
 最愛の妻を亡くした、あの時から。




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 探し物は見つからない。
 望み通りの死を迎える為に必要な要素ピースが見つからない。そもそもが、その要素すらが何なのかが分かっていないのだから見つからないのも当然だった。
(…今の俺に、必要なもの)
 余命三ヵ月の、滅びゆく身が望むことは唯一つ。笑って逝くこと。それがせめてもの世の理不尽に対する抵抗。避けられない死への反発。
 だが翔はもう笑えなかった。
 愛想笑いは出来る。だが本心から笑うことは出来ない。
 感情が欠落しているわけではない。ただ、顔が笑みを形作る域にまで感情が動かなくなった。
 泣くことならいつでも、なんならこの場でだってやれる。憤り怒り狂うことだって容易い。
 大切なものを失い、この身を侵す病魔に苦しめられる翔にとって、喜怒哀楽における『怒』と『哀』などは日常茶飯事として腹の奥底で渦巻き吐き出す先を求めて純度を高め続けている。
 そのせいかもしれない。物事を楽しいと思えなくなり、喜ぶことが出来なくなった。
 ひたすら負の感情に満たされた身体で、世界をモノクロに捉える。
 このままでは、自分は最悪の死を最低の状態で迎えてしまうのは必定。
(…そんなのは、嫌だ)
 太陽の光が厚い雲に遮られる真昼の街は、活気の中でも少し翳って見えた。おそらく翳っているのは、昏く淀んだ翔の瞳にも一因があるはずだが。
 行き先を定めた両足が、脇道に冒険することもなく歩き慣れた大通りの端を突っ切る。考えることも不要とばかりに機械の如く向かう先には大きな看板の中いっぱいに種々様々な魚の絵が描かれた店。
 誰しもが一目で魚屋であることが断定できるわかりやすい横長の板が掛けられたその下で、活きのいい生魚がお世辞にも良いとは口にできない臭いを放っていた。
 より新鮮な身を求めて間近で吟味を重ねる人々の合間を縫って、翔は小皺の目立つ恰幅のいい女性へ声を掛ける。
「ちょっと、いいか」
「はい?…あなんだ伍堂さんかい。うんうんそろそろ来るかもって思ってたさ」
 忙しそうに客商売をしていた店の人らしき女性が、人好きのする笑みを浮かべて一度奥へ引っ込み、すぐさま片手に小さな発泡スチロールの箱を持って出て来る。
 突き出されたその箱を受け取り、空いた手の平に小銭を乗せる。発泡スチロールの箱には、鮮魚が一尾だけ入っていた。
「いつも悪い」
「『一尾の常連』なんて呼ばれてる自覚があるなら、たまにはもっと買い込んでってほしいもんだわね。こんなんでも一応常連は常連、礼なんていらないさ」
 言動の所々に刺々しい含みがあるにも関わらず、それを冗談として笑い飛ばせてしまう話術は客商売で培われたものか。翔は無言で一礼を返して魚屋を離れる。
 素早く大通りから細い横道へ潜り込み、進んでいく。その足に迷いはなく、これが気まぐれの寄り道でないことが窺える。
 これもまた思考を介さず行われる能動的な日々の順路。
 細道の先に目的地はある。少し開けた、使い道のない土地の切れっ端のような空間。
 そこで、翔を待ち構えていたそれは小さく『なー』と鳴いた。
「よう、大将」
 丸っこい耳に、長い尻尾。
 白地に黒ぶちの野良猫を、翔は『大将』と勝手に名付けていた。
 大した意味はない。ただ、右目の視力を奪ったと思しき縦に刻まれた裂傷の痕が妙にその猫の貫禄を示していたから、そう呼ぶことにしただけ。
 隻眼では食料も満足に確保できないのか、衰弱していたところを立ち寄って餌を与えてしまったのが半年前のこと。以来、この餌付けが日課になってしまっていた。
 発泡スチロールの箱を開けて中の鮮魚をちらつかせると、食欲に負けて大将は前足を上げて翔の足元に爪を立てて引っ付いた。早く寄越せと、みゃーみゃー声を上げて急かす。
 焦らすのも意地が悪いと、箱ごと魚を地面に置いて大将の前に差し出すや、すぐさま腹に喰らい付いて食事を始めた。
 がつがつと無我夢中に魚を食す大将を、翔は捨てられていたプラスチックの青バケツを逆さまにしたそこへ腰を下ろしながら眺める。
 死を間近に感じるようになってから、逆に生を意識し始めるようになったのを自覚する。眼前の猫など、まさにそれだ。
 生きる為に必死に食事をしている。全力で命を繋ぐというのは素晴らしいことだと思う。
 果たしてこの猫は、死ぬ時に笑って…いや猫にそれは無茶な話か。
 ではこの猫は、死ぬ時に幸せを感じて逝けるのだろうか。
 野良とはいえ、食事に困っているわけではない。それは翔が魚を持ってきているからでもあり、また周囲に転がっている開けられた空の猫缶を見てもわかる。翔以外に誰かがこの大将に餌を持ってきていることは明白だ。
 充分とはいえないが、衣食住にそれほど不便がある生活ではなかろう。この生活を死ぬまで続けた時、召される直前にこの猫は何を思うのか。
 あるいはそこに、翔の求めているものがあるのか。
「なあ。お前は、それを持ってるのか…?」
 知らず翔の口は、探し物を求めて大将の耳をいじっていた。だが食事に夢中の大将は頭を僅かに傾げるだけで、彼の言葉や動作には応じる様子を見せない。
(せっかくこうして甲斐甲斐しく魚を献上してきてやっているんだ。せめてお前は幸せにわらって死ねるといいな)
 一心不乱にがっつく大将を見ていると、笑うまではいかなくとも心が穏やかになる。
 どれだけの間そうして猫の食事風景を眺めていたのか。一尾をたいらげるまでそう時間は掛かっていなかったように思う。
 ふと顔を上げて、背後に感じる人の気配に振り返る。
 こんな路地の奥の奥で人と会うとなれば、それは屋外での喫煙にスリルを覚える学生か、そうでなければカツアゲかイジメで気弱な少年を連れ込んだ下衆な狩人か。
 風紀は乱れ秩序という言葉からかけ離れていた自らの母校のせいで刷り込まれた先入観を、背後の気配は一目で打ち砕いてくれた。
「…」
「…」
 共に視線を交わし、示し合わせたように沈黙を返す。唯一『みゃーお』と黒ブチの鳴き声だけが無音の空間に満ち、時が止まったわけではないことを教えてくれる。
 分厚いコートを着込み、胸の前で猫缶を両手で握り締めている少女。おそらくは翔と同じくして、大将から重宝されているであろう食料調達のアテ。
 少女は翔の顔をじっと見、それから骨を残して綺麗に身をたいらげた大将の満足そうな顔を見、そうしてもう一度翔へ視線を戻して、
「…おじさん、も?」
 翔と同様に状況を悟った少女が、不必要となった猫缶の表面を指でなぞりながら、予想外に発生した猫好き同士の遭遇という事態に質問か確認か判別のつかない呟きを溢した。

       

表紙

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