第十話 絶望の開幕


「囲まれてやがる」

 顎をしゃくって外を指す妖精王の言葉に首肯を返す。共に苦虫を噛み潰したような表情で、いきなり現れた魔性の気配に意識を向ける。
 まともに触れれば正気を失いそうになるほど強大な禍々しい威容。それが東西南北のそれぞれに四つ。
「なんだこりゃ」
 グリトリニルハイムでも一際高い場所に建てられた王城から見える遠方の光景に、守羽はかつてないほどの絶望を覚える。
「まったく。ひっでぇ……悪夢だな」
 瞬間で悟った。
 この国はもう終わりだと。



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「…………」
 北。
 巨大な蹄で地を叩く、四足の下半身に人の上半身という怪物。外見からはケンタウロスを連想させるのが一般的か。
 淡く仄かに輝く肌が生み出す影は地表を広く覆い、深淵の闇から這い出るは無数の異形と草木を腐らせる紫煙。
 湧き出る異形、黒い津波。
 悪魔の軍勢は留まることを知らない。



(ブエルは初めから全開。まぁ、奴ならそう来るだろう)
 南。
 真逆の方位から大軍が発生するのを遠目に確認して、長大な両刃剣を背負う銀鎧の戦士が赤いマントをたなびかせて腰を降ろしている。
(あれならオレは最低限でいい。面倒事はマルティムに全投げだな…)
 彼は小高い丘の上にいた。戦士の意思を汲んだか、静かに震える大地はゆっくりとその身を持ち上げる。
 それは丘でも地面でもなかった。
 常識を超える巨大な鰐の化物。それの咆哮を引き金としてか、戦士の周囲からは地中を突き破り有翼の悪魔が姿を現し始める。



「おむかえ」
 東。
 妖精界の気象天候はこの世界の重鎮によって操作されていた。だというのに何故か、今はその掌握下を離れ黒雲が東の空を覆っている。
 作物を育てる為に雨を降らせることはある。だが雷など必要としたことはなかった。
 暴風が吹き荒れ、落雷から召喚される魔獣の勢力がけたたましい悲鳴に似た音で吼える。
 その中心。
 ろくに束ねてもいない茶色の長髪を暴風に投げ放って、強烈な風に当てられても絶えることない焦熱の翼と紅蓮の尾を振る少女は王城を真っ直ぐ見据える。
「おむかえ、きたよ。はる」



 
 西
 



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「どうなってんだ。…八賢」
 王の間、その中央で妖精王イクスエキナが呟きを漏らす。
 すると王座の正面床に円陣が浮かび上がり、円周上に八つの光の柱が出現した。
 王城地下で常時妖精界全土の感知を行っている八名の高位妖精達の情報伝達手段の一つとして成立している光柱がそれぞれ微振動して音を放つ。
『不明。…不明』
『いやマジで意味わかりません。侵入した形跡も痕跡も無し』
『自然な流れで入界された。「魔族」が、魔性が、…あろうことか、魔神が!』
「―――魔神」
 聞き逃せない単語に守羽も眉根を寄せる。
 人外の大別にある一つ。極めて強大な力を持った神格の魔族、魔神種。
 その実力は神話クラスともされ、まず滅多に目の当たりにすることもなければ、まともな一生で見えることもないはずの存在。
 そんなものが、一度に四体も。
『ついでに連中は眷属の悪魔共も呼び寄せてる真っ最中。問題はその、数と規模』
「どれほどだ」
 出来れば聞きたくはなかった。遠く見える黒色は大地を瞬く間に浸食し広がり続けている。さらに守羽が捉えた退魔師由来の感覚を信じれば、おそらくその数は。
『現状、南に八千体』
『東、この会話の間に五万から九万へ』
 イクスエキナの溜息には同意する。ただ彼も察しているはずだ。南と東なぞ、まだ軽い方だと。
 守羽は光柱が伝える情報を耳に留めながら部屋の中を移動し、大窓の一つを開け放った。
「…俺は仲間と合流する。急げよ妖精王。もしかしたら、もう」

『北方……腰を抜かすな我らが王よ。三百万の軍勢が迫っておりまする。それも、未だ増え続けながら』

 窓を蹴って地上へ降りる。黒雲と瘴気に侵された寒色の空に怯える国民の声に焦りが滲む。
 平静をこそ保っている風を装いつつも、守羽はおそらく誰よりも恐れていた。
 同時に出現した恐るべき四つの気配。その一つ。
 西にあった魔神の存在感が、綺麗さっぱりに消え失せていたことが何よりも気掛かりでならない。
 そう。
 もしかしたら、奴は、もう。



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「やあ、どうも。こんにちは」

 何もかもが瞬きの内だった。
 虚空から姿を現した、黒い肌の屈強な男。その男が跨る巨大な蒼白の馬が、嘶きと共に眼下に立っていた妖精の子供達を踏み潰さんと脚を落とす。
「ッ!」
 幼い女児の小さな頭部が破壊される数ミリ手前まで来て、かろうじて反応に間に合った由音の右ストレートが化物馬の爪先を弾いた。
 何者か。
 どうやって現れたか。
 目的は。狙いは。
「セラウさん、静音センパイ!!こいつら連れて早く遠くへ!!」
 そんなものを考えるよりずっと先に、まず子妖精の安全を確保するべくして放った由音の怒声は間違いなく端的に最善を示したものだった。
「ほほう、人間かね。なるほど迅速確実な判断。相応の経験を積んでいると見た」
 顔の上半分を覆い隠す仮面の内で、魔神は薄気味悪く口元を引き伸ばして瞳を細める。
 〝憑依〟解放。この世界では万全に振るえる力ではないが、やるしかない。
 見上げる騎馬の敵を目掛けて跳び上がる。分かっていた、相手は自分の遥か格上。まともに打ち合って勝てる見込みは皆無。
 だが東雲由音であれば話は別。これまでもその半不死性を利用した大物喰らいっぷりを発揮してきた由音なら、あるいは。
 少なくとも静音はそう考えていた。それと共に子供達を連れての退避を行おうとして、その時。
「…な」
 無骨な剣を振り被る骸の兵が、虚ろな瞳を定めて武器の切っ先を向けていた。
「シズ姉っ」
 あわや首を両断されかけたところを、割り込んできたシェリアの一撃が骸兵を吹き飛ばすことで阻止する。
「だいじょうぶ!?」
「う、ん。ありがとうシェリア。でも一体この兵隊、どこから…」
 困惑はすぐに解ける。
 騎乗する魔神の影から広がる闇が、洞のように奥底から死屍と腐肉を纏う骸骨の兵団を彼方から呼び寄せている。
「驕らない方がいい。君達人間如きが積み上げた経験で、私達を括れると思わないことだ」
 淡々と事実だけを告げるように言い放ち、魔神は右手を払う。その手には、いつの間にやら捻じくれた斧剣を備えた槍が握られている。
 なんの装飾も施されていない質実剛健なハルバードから払われる血肉の主は、右腕を潰し切られた状態で荒く息を吐いていた。
「ユイ!」
「俺はいい!!コイツはここで止めるから、お前らは守羽達に…ッ!」
 失くした腕を〝再生〟させながら叫ぶ由音が、その途中であることに気付き歯噛みする。
「テッメェ……!?」
「同じ性質に寄ってるからか?悪霊憑きの人間、君には状況が分かっているようだね」
 悪霊による一心同体の人外化。それによって由音には飛び抜けた感知能力が発現する。
 特に、同系統の死霊や魔性の気配には敏感に。
 多くは選べない。
「…………城へ、急げ皆」
 絞り出すように由音が指示する。
「俺が、なんとかする。このクソ野郎も、も!」
 多くを選べなくても、なんとかするしかない。
 だって守羽ならきっとそうするから。
 静音やシェリア達にはまだ届いていないだろう、国土全体から響く数多の悲鳴の元。
 どういう手段を以てしてか、この魔神。
「なに考えてんだ、この国の妖精になんの恨みがあるってんだよ!」
「我らは『魔族』、奴等は『聖族』。それ以上の理由が無いと人間はこんなことも容認できないのかい?」
 グリトニルハイム全域から無造作に湧かせ続ける骸兵に脅かされる民の命が、東雲由音という人間にとってはどうあっても我慢ならなかった。

 騒乱は拡大する。
 この国、この世界、その全てを呑み込んで。