草野
 寝起きのためか、急性の健忘症のせいか分からないが、頭が痛い。
 田原が殺された事を、すんなり受け入れてしまうのは何故だろうか。
 俺は知っていたのか?
 慢性的に続いていた頭痛が更に強くなる。
「椎名が発見したってこと?」
「そう。でも、犯人とか、そういうのはまだ何とも」
「そうなんだ」
「草野は?何してるの?」
「俺は」
 言葉が続かない。俺は何をしているのだろう?
 沈黙に堪え切れず、椎名は「ごめん。一度切るね」と言い、返事をする間もなく通話を切った。
 俺は知っていたんだろう、田原が死んだことを。
 つまり、俺は冷たくなった田原を目撃して、そのショックで俺は健忘症に至った。そう考えるのが妥当だろう。

 翌朝、呼び鈴の音で目を覚まし、玄関先へ出ると制服を着た大柄の警官が立っていた。まだ春先で暖かくなってきたばかりなのに警官は汗ばんだ額をハンカチでぬぐっている。
 俺が事件に関わっていたことを椎名が伝えていたため、今回訪ねてきたそうだ。おかげで警察署へ出向く手間が省けたわけである。
 まず、昨日姿を暗ました理由を尋ねられ、自分の病気の事を告白すると、「君もなのか」と言われた。どうやら田原と椎名の病気に関しても知っていたようだ。
 未だに、何一つ思い出せていない状態であるため、警官も俺の言葉を話半分に受け取っている様子だった。俺の言葉を深く追及することもなく、最後に指紋を取られた。
 結局、捜査の進捗状況については何も明かされることはなかった。そして精神科病棟で出会った俺達三人のつながりを警察もいま一つ解せないといった様子だ。
 俺達は世間的には奇妙な関係なんだろう。
 警官が去っていたのを見送ると、制服の背中まで汗が染みていた。それ程に過酷な業務なのか、それとも体質のせいなのかはよく分からない。
 ぼんやりと、彼方の山へ目を向ける。
 いけない。こんな他人事のような気分でいる場合ではない。やはり俺の記憶もこのままではまずい。久しぶりにかかりつけの精神科へ行かなければ。

 病院玄関で受付を済まして、椅子に座って待っていると、平日の精神科というのは繁盛しないのか、わずか5分程度で案内された。
 見慣れた廊下を進んで、診察室の扉を開くと、椅子に座った氷川先生が既にこちらへ身体を向け、笑顔をつくっていた。
 相変わらず、パソコンと机に椅子以外は何も置かれていないシンプルな部屋である。これは患者に落ち着いてもらうための配慮らしい。他にも、先生はいつも決まってスーツを着込んでいて、どうやらどこかの医者が、スーツ姿は心身に虚弱をきたす症例に安心感を与えるという研究論文を発表したそうで、その影響らしい。
 しかし、先生のスーツ姿には威圧感を受けてしまう。これは40代の割に白髪が多く、皺も入り貫禄のある風貌が影響しているのだろう。
「久しぶりだね」先生は眼鏡を外して言った。
「本当ですね」
「また、なんだね」
「はい」
 先生は、疾患の名前は口に出さないようにする。これも先生のこだわりである。いや、もしかすると精神科医の間ではそれがセオリーなのかもしれない。
「やっぱり、田原君の件と関係しているのかな」
「そうみたいです。という事は先生の所にも警察が来たんですね」
「私も、念入りに調査されたよ、何せ、あの家には往診で何度と通っているからね。あちこちから私の指紋が出てきたみたいで、今も疑われてるんだよ」
「そうでしたか」
「お互い大変だったね。草野君と椎名君は特に気が滅入る時期だと思う。とにかく今は体を休ませると良い。それが精神に、記憶を司る中枢神経系にも優位な効果が働くよ」
 俺は先生の言葉に頷く。何となく救われた気がした。
 その後は些細な問診が続き、最後に一応と微量の抗不安薬が処方された。
「そうだ、一つ思い付きなんだけど。何かを見ただけではないのかもしれないね」
「見ただけではないか」その可能性もあるか。
 すると先生は、「ここまで」といって立ち上がり、部屋の奥の扉を開き、扉の先へと行ってしまった。毎回、先生は奥の部屋へ患者より先にいなくなる。これが診察終了の合図で、背後の扉が開き、看護師が迎えにくる。これが診察のルーティンになっていた。
 何かを見たのではないとすれば、自分自身の行動が健忘症につながった、ということになるだろう。俺は、何を?
 分からない事ばかりだ。俺は、大丈夫なのだろうか?今の俺はまともなのだろうか?