Neetel Inside 文芸新都
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草野
 先生の診察室は、部屋全体を切り取りそのまま持ってきたのではないかと思うほど、5年前と変わらなかった。
「私はね、草野君は社会を生き抜くことが出来るのか、心配だったんだよ」
「それ、就職前にも言ってましたね」
「そうだったかな」先生は咳払いをする。
 部屋と比べて、先生は随分と変わった。眼鏡の度も大分強くなったようだし、頭髪は全白髪になっている。もう50代であるが、遠目で見ると70代にも映るだろう。
「それも杞憂に終わったみたいだ。特に症状も出ず。しかし、田原君の事件は、もう10年前かな?その記憶はまだ思い出せないのだろう?」
「ええ」
「今となっては、それもいいのかもしれないな」
「どうしてですか」
 先生は「そうだねえ」と呟き、パソコンのマウスに手を伸ばす。
「ジョハリの窓と言うんだけど」
 モニターには白い背景の中央に、四等分された四角形が表示されている。
「これは様々な用途で使われるんだが、精神医学では、この四角形を、自らの心理状態を分析するために使うんだ。ここまでは分かるね?」
「はい」
「例えばね」と言って、先生は図形の左上を指差す。
「ここは、開放の窓といって、自分と他者のお互いが知っている心理面の事を言うんだ。次に隣にある盲点の窓は、自分は知らず、他者は知っている心理面。左下の秘密の窓は自分だけが知っていて、他者は知らない心理面。そして右下、未知の窓、今回はココが重要だ、これは自分も他者も、誰も知らない、心理面のことだ」
「田原の事件に関する俺の心理は未知の窓に属するってことですね」しかし、それが何なのだろうか。
「そういうことだ。そしてだね、人の心理状態というのは、これら4つの側面が共存することで平静を保つことができるんだ。つまり、知らないでいる事も、今の草野君の心が保たれている、一つの要因かもしれないんだ」
「なるほど」
 自分の事を自分で知らない、そういうことも、あるのか。
「じゃあ、今日はここまで」そういって先生は奥の扉を開き、扉の先へ行ってしまった。
 久しぶりに先生の診察を受けたが、やはり、気が楽になる。
 そう思った時、違和感が生じる。これは、何だろうか。そうか、看護師が迎えに来ないのだ。以前は、先生と入れ替わるように、間髪入れず、迎えが来たのだが。
 この場合、どうすればいいのだろうか。一先ず立ち上がり、俺は先生が入った部屋の扉を開いた。
 その先には、殺風景な診察室とは打って変わって、壁一面の本棚と、部屋の中央に一脚のリクライニングチェアが置かれていた。部屋の一番奥には、外へ続く出窓があり、その手前に先生が立っていた。
「すみません」と声をかけると、外を眺めていた先生が振り返る。
「どうした?」
「看護師さんが迎えに来なくて」
「そうか。大丈夫だよ、一人で退室して構わない」
「そうですか。失礼しました」
 すると先生は再び、外へ視線を戻した。
 機嫌を損ねてしまったかと思い、慌てて扉を閉め、診察室を出ると看護師が待ち構えていた。
「もしかして、先生の個室に入ったんですか」
「入ったというか、扉を開けただけです」
「駄目ですよ。私達職員だって基本的に入れないんですから」
「何かあるんですか?」
「何かっていう程でもないけど。先生が休憩される部屋だから、あまり邪魔されたくないんじゃないですかね」
「なるほど」
 先生と初めて出会ってから、随分と経つが初めて知った。これだけ長い付き合いでも知らない事があるのだから、自分の事を自分で知らないというのも十分ありえるのだろうか。

       

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