Neetel Inside 文芸新都
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「ちょっと、あなたたち近寄らないで」
 そんな女性の声で、我に返った。
 しかし、それとほぼ同時に「邪魔するな」と声がする。そして私は右肩の辺りを押され、後方によろけた。
 目の前に立つ田原が「何するんだ」と声を上げる。
 田原の前には二人の男が睨み、掴みあっている。何らかの理由で喧嘩になったのだろう。私たちはその空間に入り込んでしまったようだ。喧嘩など駅のホームでは頻繁に見る光景だが、巻き込まれるのは初めてである。
 どちらかが私を突き飛ばしたのだろう。そう思った時、片方の男が田原へ向かって手を振るった。
 何か、擦れるような音がする。
 すると、田原が右の上腕を抑え、「うっ」と唸り腰を落とす。
 ワイシャツの右腕の部分が徐々に赤く染まっていく。
 事態をスムーズに理解できず、男の方へ目を向けると、一人の男がナイフを手にしている。田原が斬られたのだ。
 もう一人の男は、その様子を見て驚き、腰を抜かしたように逃げていく。
 ナイフの男は、逃げる男を無視して私達を睨む。
 原因不明の怒りに震える男の標的が私たちに切り替わったのだろう。何と理不尽な暴力なのか。
 叫び声が上がり、周りの人々が一斉に逃げ惑う。これでは駅員が来ても事態を収拾できない。
 どうすればいいのか。恐怖で思考力が鈍くなっている。
 私も腰が抜けて、動けない。すがる思いで目の前にうずくまる田原に手を伸ばす。
 じりじりと歩み寄る男が目の前まで迫った時、視界に大きな黒い塊が飛び込んでくる。
 鈍い音がして、黒い塊と、男が地面に崩れた。
「大丈夫かよ?」
 張りの無い声がして、横を見ると、草野が立っていた。
 彼は、地面に落ちた塊を拾い上げる。それはギターケースだった。
 地面に倒れた男は、ギターケースが顔面に命中した様で、顔を抑え、混乱した様子でキョロキョロしている。
 そして間もなくして、駅員達に取り押さえられた。
「草野、助けてくれたの?」
「そこの階段を下りてる時に二人の姿が見えて、怪しく思って駆けてきたんだよ。間に合うか微妙だったから、ギターを投げつけたんだ。無事に命中してよかった」
「もし、男が応戦してきたらどうするつもりだったの?」
「そのときは、どうしたかな?」
 何それ。私たちの為に、捨て身で突っ込んできたという事なのか。
 草野にこんな一面があるなんて思いもしなかった。
「まあ、助かったから良かったじゃないか。本当に感謝するよ」
 田原はいつの間にか、調子を取り戻して言った。しかし、右腕の鮮血が痛々しい。
 私も田原に続いて感謝を告げた。
「それにしても、ギターで人を痛めつけるなんて、シドヴィシャスみたいだな」
「シドが使うのはベースだけどね」
 よく分からない話で二人が盛り上がっていると、駅員が私達を救護室へ案内してくれた。
「草野が思いの外、早かったのは、怒った椎名の事が気になったからなのか?」
 救護室への道中、田原が言った。
 そんな事、わざわざ掘り下げる事でもないだろう。彼は意地悪でもするつもりで訊ねたのだろうけど。
 しかし、草野は理解できない様子で眉をひそめ、首を傾げる。
「そこは、嘘でも頷くところだよ」田原が言う。
 確かに、そうかもしれない。
 私は小さく溜息をついて、鞄から、お気に入りの便箋を一枚取り出し、字を綴る。
 それを草野に渡した。
 草野は「なんだこれ」と再び首を傾げて、便箋を開く。
「華?」
 そして、彼はもう一度首を傾げた。

       

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