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初対面の人間を計略にかけるとは、見た目と裏腹に強かな男だ。俺は冷静に振る舞うが、この状況を打開する魔法の様な手段は何も思い浮かばない。
少しずつ積み上げてきたものが崩れ落ちていく、絶望的な感覚につつまれる。
「もう一人の新人警備員は、ここの元社員だね、君達が何を企んでいるのかは分からないけど、彼の顔も覚えていたよ。僕は、人の顔を覚えるのが得意な方でね。」
佐藤は尚も容赦ない追及を続ける。本当に、顔の記憶が得意らしい。
「それと、君の顔は、以前、別のどこかで見た気がするんだけど」
まさか、俺と東京で会ったことまで、覚えているのか?ここまでくると、混乱してしまう。
「呑気に話していて、大丈夫なんですか?俺は会社に侵入している、いわば強盗みたいなものじゃないですか。通報とか、何か行動しなくていいんですか?」
俺は開き直ったような気持ちで言った。
「その言い方は、君が襲ってこない事を伝えているようなものだよ。まあ、少し理由があってね」
「理由、ですか?」そんなものがあるのか。
「世間話だと思ってほしいんだけど。私には一人、娘が居てね、今は別々に生活しているんだ。といっても、一人暮らしを始めたとかではなくて、ちょっとした理由で妻と別れて娘もついていってしまったんだ。それで今は別々の生活ってわけさ。それでね、最近、娘と同じ年の女の子と関わる機会ができて、つい、情が移ってしまったんだ。とは言っても別に、下心とかではないよ」
佐藤は耽々と話し続ける。
「娘と、その女の子、そして君、三人とも全く同じ年だと思うんだよ。だからさ、つい優しく当たりたくなるんだ」
「なんですか、それは」
嫌な予感がする。
俺と同じ年の女性と知り合ったのが、もし、会社外だとすれば、ほぼ決まっているじゃないか。
椎名だ。
しかし、そうなると、おかしい。本当に佐藤と椎名が関わったのならば、なぜ椎名は何の連絡もくれないのか。
分からない事の次に、分からない事が続く。何がどうなっているのだ。
また、頭が痛くなる。
再び健忘が始まってしまうのではないか。そんな気さえする。
「という訳だから、その盗んだ荷物を渡してもらえば、今回の事は水に流してあげようと思うんだ」
佐藤はあっけらかんと言う。黙認。また、黙認か。俺は。
結局、大人しく荷物を渡した。
「じゃあ、裏口から出ようか」そう言って、佐藤は俺に背を向け、歩き始める。
不用心な物だ。だが、この男の事である。仮に、俺が襲い掛かってきたところで、対抗できる何らかの手段があるのだろう。
俺は完全に諦め、佐藤についていく。
都合よく、浜崎さんが現れて、この場を収束するなんてことはなく、あっという間に裏口へ到着した。
気になることは一つある。
俺が佐藤の娘と同年だという理由で罪を見逃そうとする人間が、10年前に田原を殺めることなどしないのではないか。
だとすれば、娘の話か、田原を殺めた容疑者である事のどちらかが、間違っているのだろう。せめて、娘の話が真実なのか、それ位は明らかにできそうだ。
佐藤が裏口の扉を開けて外へ案内し、俺はそれに従う。
「どうせ、俺の事を見逃すなんて嘘で、すぐ通報するつもりなんだろう」
俺は試すように言う。
しかし、佐藤は答えずに扉を閉めた。
そして、彼は「その通りだ。世の中、そんなに甘くないよ」と裏口のすりガラス越しに言った。
やはり娘の話は偽りだったのだろうか。
少なくとも、俺に同情し、見逃すつもりなどなく、彼が事件に関与している可能性が残っていることは分かった。
だが、心の内から沸々と込み上げてくるものがある。
何度も罠へ嵌められている事に対する怒りではない。
事件の真相に少しずつ近づけていた期待感を瓦解させられた事への怒りだろう。
「田原の事は、絶対に諦めないからな」
気づくと、俺は挑戦状を叩きつけるかのように、何の役にも立たない言葉を吐いた。
返事は、何もなかった。