Neetel Inside 文芸新都
表紙

魔女旅に出る
過去②

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草野
 目を明けた。それとも、瞼が自然に開いたというべきだろうか。
 視界に入った時計の短針は7時を指している。準備を始めるには丁度いい時間だ。
 いや、丁度いいって何だ?
 何故か、引っかかりを感じてしまう。

 頭の中にかかった靄が少しずつ晴れていく。
 俺はいつ眠ったんだ?
 一先ず体を起こす。身体が地に着いていないような、居心地の悪い浮遊感を受ける。
 昨日の昼、田原の家に招待されたため、大濠公園へ集合した。しかし、田原が現れないため、わずかな情報を基に家を探しに行って。それから?
 傷ついたビデオテープの様に記憶が乱れて再生される。これは駄目だ。また、始まってしまったようだ。約3年ぶりだろうか。
 解離性健忘とは、突発的に起こる健忘症、記憶喪失で、症状の範囲や程度は異なるが、そのほとんどの症例は部分的に記憶が障害される。誰しも起こりうる精神障害であるが、稀に症状を繰り返し何度も起こす症例がいるらしい。
 それが俺だった。
 そして、症状を示すときは、決まって何かのストレス。つまり外因性の原因があるのだが。
 その原因は?
 思い出せない。
 俺は溜息をついて、部屋のカーテンを開ける。外には暗闇が広がっていた。
 そうか。夜の19時なのか。携帯を開き、日付を確認する。成程、大濠公園は昨日じゃない、今日の昼過ぎだ。これが引っかかる原因みたいだ。
 改めて携帯を覗くと、椎名から着信が入っていた事に気が付き、掛けなおす。
「もしもし」
 椎名はすぐに電話に応じる。
「どうした?」
「どうしたって。草野は何してるのよ。突然いなくなって」
 俺は別れも告げずにいなくなったのか。しかし、椎名らしくない調子の悪い声のせいで、なんとなく不吉な予感がする。
「俺は、分からない」そう答えざるを得ない。
「なにそれ」椎名は抑揚なく言った後、「落ち着いて聞いてほしいんだけど」と前置きをする。
「田原がね、死んだよ。殺された」と続けた。
「本当?」
 ても信じられる言葉ではない。それなのに、疑うことができない。それは何故だろうか。
 椎名からの返事は一向に届かない。代わりに、彼女の呻き声がしばらく響いた。
「本当だよ。田原が魔法陣の上に倒れてたんだ」

     

椎名
 田原が死んでいる。一目で、そう認識したと思う。
 眠るにしてはあまりにも場違いな所で田原が横になっていたからだろうか。
 それとも、田原が気に入っていた白のシャツが赤く染まっていたからだろうか。
 違う、そんな理由ではなかった。
 私が確信したのは。生贄にでもなったみたいに、田原が魔法陣の上に倒れていたからだ。

     

草野
 寝起きのためか、急性の健忘症のせいか分からないが、頭が痛い。
 田原が殺された事を、すんなり受け入れてしまうのは何故だろうか。
 俺は知っていたのか?
 慢性的に続いていた頭痛が更に強くなる。
「椎名が発見したってこと?」
「そう。でも、犯人とか、そういうのはまだ何とも」
「そうなんだ」
「草野は?何してるの?」
「俺は」
 言葉が続かない。俺は何をしているのだろう?
 沈黙に堪え切れず、椎名は「ごめん。一度切るね」と言い、返事をする間もなく通話を切った。
 俺は知っていたんだろう、田原が死んだことを。
 つまり、俺は冷たくなった田原を目撃して、そのショックで俺は健忘症に至った。そう考えるのが妥当だろう。

 翌朝、呼び鈴の音で目を覚まし、玄関先へ出ると制服を着た大柄の警官が立っていた。まだ春先で暖かくなってきたばかりなのに警官は汗ばんだ額をハンカチでぬぐっている。
 俺が事件に関わっていたことを椎名が伝えていたため、今回訪ねてきたそうだ。おかげで警察署へ出向く手間が省けたわけである。
 まず、昨日姿を暗ました理由を尋ねられ、自分の病気の事を告白すると、「君もなのか」と言われた。どうやら田原と椎名の病気に関しても知っていたようだ。
 未だに、何一つ思い出せていない状態であるため、警官も俺の言葉を話半分に受け取っている様子だった。俺の言葉を深く追及することもなく、最後に指紋を取られた。
 結局、捜査の進捗状況については何も明かされることはなかった。そして精神科病棟で出会った俺達三人のつながりを警察もいま一つ解せないといった様子だ。
 俺達は世間的には奇妙な関係なんだろう。
 警官が去っていたのを見送ると、制服の背中まで汗が染みていた。それ程に過酷な業務なのか、それとも体質のせいなのかはよく分からない。
 ぼんやりと、彼方の山へ目を向ける。
 いけない。こんな他人事のような気分でいる場合ではない。やはり俺の記憶もこのままではまずい。久しぶりにかかりつけの精神科へ行かなければ。

 病院玄関で受付を済まして、椅子に座って待っていると、平日の精神科というのは繁盛しないのか、わずか5分程度で案内された。
 見慣れた廊下を進んで、診察室の扉を開くと、椅子に座った氷川先生が既にこちらへ身体を向け、笑顔をつくっていた。
 相変わらず、パソコンと机に椅子以外は何も置かれていないシンプルな部屋である。これは患者に落ち着いてもらうための配慮らしい。他にも、先生はいつも決まってスーツを着込んでいて、どうやらどこかの医者が、スーツ姿は心身に虚弱をきたす症例に安心感を与えるという研究論文を発表したそうで、その影響らしい。
 しかし、先生のスーツ姿には威圧感を受けてしまう。これは40代の割に白髪が多く、皺も入り貫禄のある風貌が影響しているのだろう。
「久しぶりだね」先生は眼鏡を外して言った。
「本当ですね」
「また、なんだね」
「はい」
 先生は、疾患の名前は口に出さないようにする。これも先生のこだわりである。いや、もしかすると精神科医の間ではそれがセオリーなのかもしれない。
「やっぱり、田原君の件と関係しているのかな」
「そうみたいです。という事は先生の所にも警察が来たんですね」
「私も、念入りに調査されたよ、何せ、あの家には往診で何度と通っているからね。あちこちから私の指紋が出てきたみたいで、今も疑われてるんだよ」
「そうでしたか」
「お互い大変だったね。草野君と椎名君は特に気が滅入る時期だと思う。とにかく今は体を休ませると良い。それが精神に、記憶を司る中枢神経系にも優位な効果が働くよ」
 俺は先生の言葉に頷く。何となく救われた気がした。
 その後は些細な問診が続き、最後に一応と微量の抗不安薬が処方された。
「そうだ、一つ思い付きなんだけど。何かを見ただけではないのかもしれないね」
「見ただけではないか」その可能性もあるか。
 すると先生は、「ここまで」といって立ち上がり、部屋の奥の扉を開き、扉の先へと行ってしまった。毎回、先生は奥の部屋へ患者より先にいなくなる。これが診察終了の合図で、背後の扉が開き、看護師が迎えにくる。これが診察のルーティンになっていた。
 何かを見たのではないとすれば、自分自身の行動が健忘症につながった、ということになるだろう。俺は、何を?
 分からない事ばかりだ。俺は、大丈夫なのだろうか?今の俺はまともなのだろうか?

     


 2日が経ち、夕方には田原のお通夜が行われる事になった。
 電車に揺られ、吊るされたポスターを眺めると、見覚えのある芸能人が怪しむようにこちらへ目を向けている。俺が、犯罪者だとでも言うのか?
 先生の言う通り、俺は殺害現場を目撃しただけではなく、何かをしたのかもしれない。
 悪い想像ばかりが浮かび、何が現実なのか分からなくなる錯覚が反復される。
 会場の外には田原と同じ制服を着た学生が多い。田原は両親がいないため、親戚が受付係をしているようで、どことなく田原に似ていた。
 現実味のないまま、俺は会場に踏み込んだ時、声をかけられた。
 振り返った先に居たのは先日、自宅に聞き込みへ訪れた警官だった。
「どうも」と言って会釈をする。
「こんな時に、申し訳ありません。実は、先日採取した貴方の指紋が、室内のドアノブや窓の桟に付着していたんです」
 想定内の、一番恐れていた事態だ。
「では、俺も容疑者と言うことでしょうか」
「いえ。凶器に残されていた指紋に貴方の物はありませんでしたし。貴方は記憶を無くしているようですし詳細は分かりませんが」
「凶器に犯人の指紋が残っていたということですか?」
「それが、なんとも言えないんですよ。包丁の柄、持ち手のところですね。途切れ途切れの指紋が沢山あってですね。貴方のご友人の田原君と、家政婦の指紋は確かに鑑別できたようです。これらは、普段使用した際に付着した指紋だと考えるのが普通ですよね。しかし、問題の途切れ途切れになっている点。これは、真犯人が中途半端にふき取ったため。若しくは手袋をはめていたために、このような状態になったと考えられるんですね」
「なるほど」
「もう一つ、他殺の場合は防御創といって、刺される際に刃先を掴んで掌に傷が残る場合が多いんですけど、それが見られない事から、自殺という線もありますが。まあ、なんとも」
「それは」どうだろうか、田原は軽度の躁鬱病に罹患していたので、可能性はあるのだろうが最近の彼を見ている上では、その可能性は低いと思う。
「捜査状況はどうなっているんですか?」
「そうですねえ、怪しい痕跡は他にもあるのですが。如何せん、普段から来客されることが多い御宅のようですから」
「なるほど」
 何もつかめていないというわけか。
 つまり、俺が犯人の可能性も残る訳だ。
「そういう訳で、まず親戚や、同僚、同級生、知人を訪ね回ってるわけです。とくに貴方は重要参考人ですから」彼は妙な笑みを浮かべ、「何か思い出したら頼みますよ」と言った。

     


 列が進み、焼香を済ませると、右側に並んでいた親族の若い女性に手招きをされる。
「ねえ、君、草野君?」
「そうですが、どうして?」
「彼が、家に来たとき、話してたんですよ。別の高校に通ってる仲の良い男友達がいるって。違う制服の男子学生は君だけだからね」
 なるほど。
「良ければ、顔を見ていってもらえないかな」
「分かりました」
 俺は女性に連れられ、棺へ向かい顔を覗く。
 瞳を閉じた田原の顔は、普段電車の中で見せる寝顔と変わらなかった。今にも目を醒まし、電車で寝過ごしたことを悔やみ始めそうな気さえする。
 いつもと違う事と言えば、日に焼けていた田原の肌はすっかり青白く変わっていることと、田原の周りに花が詰められている事だ。
 また、別の感情が生まれた。いや、今度はこれまで俺を支配していた悩みをすべて消してしまう。そんな感情だ。


 公道に出ると、制服姿の椎名が立っていた。
「来たんだ」
「当たり前でしょ」
「今から入るの?」
「違う。会場から出た時に、中に入る草野を見かけて、待ってたの」
「そうなんだ」
「さっき警官から聞いたんだけど、田原は自殺したのかな?」
「それはないと思う」
「やっぱり」椎名は俯き、「まだ犯人は全く分からないんだって」
「そうみたいだね」
 俺が言葉を返すと、椎名が俺の懐へ飛び込んできた。
「もし、犯人が捕まらなかったら、私達で犯人を探そう」
「ああ」
「そして、復讐しよう。約束だよ」
「分かった、約束する」
 すると椎名は嗚咽を漏らし始めた。
 そんな彼女の姿を見て、先程、生まれた感情が更に強くなる。
 悔しい。ただ、強い悔しさを感じるのだ。
 俺は何を悩んでいたんだ。記憶を失って、田原が死んだという話を聞いて混乱していたのだろうか。だが、記憶が戻らない事なんて重要ではない。何故ならば、俺が犯人である訳がない、この悔しさが何よりの証拠である。
 最後に田原が教えてくれたんだろう。
 俺を現実につなぎとめてくれたんだろう。
「ねえ、こういう時、男子は優しく抱擁するものなんだよ」
 椎名に指摘され、行き場に困っていた自分の両手を眺めた後、そっと彼女の身体に置く。
 先日、田原の発した「草野は童貞だから」という言葉が俺の脳裏に蘇った。

       

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Neetsha