Neetel Inside 文芸新都
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先人と若人は唄う
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 空が白い雲に覆われ、息を吐き出すと白く染まった。
 もう冬だ。
 僕はマフラーに顔を埋めると、足元に視界を落とし急ぎ足で家路に着いた。
 都内にあるボロいアパートの一室、一階の一番端の部屋。
 大学に進学してからここに引っ越した。
 僕は部屋の鍵を開けると、軋む扉を開いて中に入った。
「ただいま」靴を脱いでキッチンと一体化している短い廊下を歩き、独り言のつもりでつぶやく。
「おかえり」
 予想外に返事が返ってきた。
 思わずリビングを見渡すと、悠子さんがコタツに入りながらテレビを見ていた。
「来てたんですか。勝手に入らないでくださいよ」
「悪い」気持ちが入ってない謝罪である。
 彼女は僕の住むアパートの管理人だ。歳は僕の五つ上。つまり二十六。また、僕の大学のOGでもある。
 姐御肌な性格のため面倒見がよく、アパートの男子学生からの人気も厚い。女子からも頼られており、よく恋愛相談などをされるようだ。
 彼女は僕が上京してから出来た初めての知人だった。引越しの時、挨拶をするために隣の部屋を訪ね、出てきたのが彼女だった。しばらく世間話をしたが、予想外に気が合い、すぐに打ち解けた。彼女の住んでいる部屋が管理人室だと気付いたのは、それからしばらく経った後だ。
 彼女は時折、こうして持っている管理人用の合鍵で勝手に部屋に侵入してくる。その様な不法侵入の被害を被っているのはどうやら僕だけらしい。
「何見てるんですか」
 と言いつつコタツに座ってテレビ画面を見るとなぜかアダルトビデオが映し出されていた。音声が小さく、テレビは扉から背を向ける形で置かれていたため気付かなかった。
 僕は無言でテレビを消した。
「いやね、今朝ウチの前においてあったんだわ。変なDVDだったら嫌だなぁと思ってあんたの家で見る事にしたの。そしたら案の定」
「やめてくださいよ。仮にも男子の部屋です」
「興奮した?」
「中学生じゃあるまいし」
「無理すんなって」そう言って僕の肩をポンポンと叩いてくる。「美人大家と部屋に二人きり、おまけにAVをわざわざ自分の部屋で見てる。深く考えちゃうでしょう」
「なんなんですか、一体」
 僕は内心どぎまぎしながら、それでも努めて冷静な声を出す。意識しないと言えば嘘になる。僕だって男だ。
「もう良いから部屋に戻ってくださいよ。このビデオと一緒に」
「照れんなって」
 僕がシッシッと追い払うようにして手を振ると悠子さんは「美人大家をいいかげんに扱う奴は地獄に落ちればいいのよ」と玄関の扉を開けた。そこで彼女は表情を一変する。
「おぉ、木下じゃないか。なに、このしょぼくれた大学生の部屋に用なのかい」
 開かれたドアの先で、誰かが立っているのがわずかに見えた。
 木下? そうか、木下が来たのか。そういえば後で僕の家に行くとか午前の講義の時に言ってたな。
「そうなんですよ、このしょぼくれた貧相な学生の一室に用があるんです」
 外から木下の声が聞こえてくる。木下は僕と同じ部活の友達で、大学でも普段からよく一緒に行動している。それにしても失礼だ。
「この部屋の学生はたいそうむっつりスケベだから感化されないよう気をつけなさいよ」
「ははっ、俺は大丈夫ですよ。俺は元気なスケベですから」
「木下は良い子だな。よし、後でお姉さんがお菓子持って来てやろう」
「ありがとうございます」
 悠子さんは言うだけ言うと自分の部屋に戻り、入れ替わりにマフラーを首に巻き薄手の黒いジャケットを着た木下が入ってきた。木下はジーンズのポケットから手を取り出すと寒そうに擦った。
「コタツ入って良いだろ」
「先ほどの無礼な発言を詫びるならいいよ」
 木下は「はいはい」と適当に手をヒラヒラさせるとコタツの中に入ってきた。とりあえずお茶は出してやらない事にする。
「もうすっかり冬だな」コタツに入ってもなお寒そうに木下が言う。
「気温六度らしいよ」
「マジかよ」彼は目を丸くした。
 窓から漏れる隙間風が異様なほど音を立てている。コタツしかつけていないのに曇りつつある窓。温度差があるのだ。眺めれば外がいかに寒いのか容易に想像できた。木の葉がパラパラと空を飛び、景色はどんどん色を薄くする。
 外を見ているとますます寒くなる気がして、僕はカーテンを閉めた。
「季節のめぐりは早いなぁ」のんきな声で木下が言う。
「木下は就職とかどうするの」
「こ、公務員?」
「何で疑問系なんだよ」少し笑った。
 僕たちは大学の三回生で、もうじき就職活動だった。
「……そういえばさ、この前のアレ、どうだった?」
「アレって?」僕は首を傾げた。何のことだ。
「ほら、ネットで知り合った人と会うとかって話」
「あぁ、アレか」
 以前、僕がたまたまネットで知り合った人とメールアドレスを交換して実際に会おうと言う事になったのだ。メールの相手は僕と同じ大学三回生らしい。木下にはよくメル友のことを話していたので気になっていたのだろう。
「アレはダメだったよ。ドタキャンされた」
「ドタキャン? 何で?」
「用事が出来たんだってさ。三ヶ月も前から日程まで決めてたのに用事が出来たとさ」
「いい加減な奴だな」
「大学生なんてそんなもんだろ」
「そりゃそうだ」木下は頷いた。「俺も以前さ、友達から合コンの数合わせにきてくれって言われたんだよ。俺、合コンなんて行った事無かったからさ、喜んで了承したよ。でもさ、合コン当日になっても全く待ち合わせ場所とか、時間の連絡が来ないの。電話してみたらさ、忘れてたんだと、俺のこと」
「屑だね、そいつ」
「まぁ、大学生なんてそんな奴ばっかだろ」
「その友達とはどうしたの?」
「あぁ、電話越しに死ねって言ってそれっきりだな。どうでもいいよ、あんなやつ」
「ま、大学生なんてそんなもんだよね」
「俺等もそんなもんの一つだけどな」
 僕らが溜息をつくのと同時に玄関を開けて再び悠子さんが姿を見せた。彼女は手に小さな紙袋を持って、寒そうに玄関の扉を閉めた。
「うぅ、寒いねぇ、移動距離五メートルもないのに凍え死ぬかと思ったよ」
 悠子さんは体を震わせながらコタツにもぐりこんできた。彼女のほっそりとした足が僕の足にぶつかる。
「悠子さん、何しに来たんですか」
「用が無けりゃ来ちゃだめなのかよ。あたしゃ管理人だぜ」
 普通の管理人は用も無いのに来たりしない。
「その紙袋、何すか」
 木下の言葉に悠子さんはふふんと笑った。
「いやぁ、木下があんまりにも良い子だからね、お姉さんが和菓子持ってきてあげたのよ。丁度実家から送ってきたしね。九つあるから一人三つずつ食べましょう」
 その言葉を聞いた木下はさもいとしそうに溜息をついた。
「やっぱり悠子さんはこの小さなアパートの女神ですね」
「よし、木下にはそこの干からびたウンコみたいな顔している学生の分を一つ回してやるな」
「干からびたウンコって僕ですか」
「客が来ているのにお茶も出さない奴はウンコ以下だよ。特にこんな美しい管理人がいるのに何のもてなしもしない奴はね」
「良い歳してウンコとか言わないでくださいよ……」
 だから彼氏できないんだよ、と言う言葉は飲み込む。
 僕は渋々コタツから出ると戸棚から湯飲みを三つ取り出した。その中の一つは悠子さんが自ら持参したものだ。彼女はこのアパートの各部屋に自分用の湯飲みを置いているらしい。
 迷惑な管理人だと思う。だけど、だからこそこのアパートの住民から好かれるのだろう。友達感覚で話せる若くて頼りになる女管理人。確かに理想的だ。
「緑茶でいいですか」
「もちろん玉露ね」「オッケーオッケー」
 悠子さんと木下が各々返事するのを軽く聞き流しながら、僕は茶葉の入ったきゅうすにお湯を注いだ。お茶を入れないつもりだったのに悠子さんが来るとごり押しされる。
 コタツの上に湯のみときゅうすを置くと、悠子さんがお茶を注いでくれた。
「これ、中見て良いっすか」
 木下が悠子さんの紙袋を指さす。悠子さんが軽い調子でいいよ、と言ったので僕と木下は中身を取り出した。
 中には計九つの苺大福が入っていた。一個一個セロファンで包まれている。
「全部苺大福なんですか……」僕は思わず呟いた。九つもあるならもっとバリエーションに富んでいるのかと思ったのだ。
「私の地元にある和菓子屋さんでね、苺大福しか置いてないのよ。でも美味いんだ、それ」
「へぇ……」木下が苺大福を見ながら返事する。
「ちなみにまだあるんですか、大福」
「二箱あって、これでやっと一箱なくなったから、あと三十個くらいかしら。当分は楽しめそう」
 随分食べるんですね、太りますよ、そう言いたかった。だが言ったら最後、この苺大福はいただけない。
「じゃ、とりあえず食べましょう」
 結果から言うと苺大福は美味かった。たいそう美味かった。外の餅と中のこしあんが甘さ控え目、その割に苺は酸っぱいという按配が食欲をかきたてる。僕ら三人、一つ目の苺大福を無言で平らげた。大の大人三人がコタツに入って無言で苺大福を貪っている姿は大層不気味だった。

       

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