Neetel Inside 文芸新都
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 今日、いい事があったよ。
 帰り道、リュックを背中に提げ、エフェクターケースを持ちながら、涼子さんは呟いた。僕は自転車を押しながらその横を歩く。
「秀の誘いがなければ、大切な物を見逃したままだった」
「僕もその分いろいろ助言してもらえましたから、お互い様です」
「そうだな、そう言うことにしておこう」
 そう言って僕らは少し笑った。
「秀」
「はい」
「悠子をよろしく頼むな」
「なんですか急に」
「あいつは人付き合いも上手いし、いろんな事をそつなくこなすんだ。でも、結構抜けてる部分も多い」
「知ってます」
「あいつを助けてやって欲しいんだ。困っていたら、手を貸してやって欲しい。あいつは何か悩みがあっても人に悟らせずに自分で抱え込むところがあるから」
 その言葉に心当たりはあった。普段の悠子さんは一見何も考えていなさそうで、実は相手の事を考えて行動している事が多い。
「悠子さんってなかなか助けに入る余地がないんですよ。なんだかんだ一人でやってのけてしまうというか。……大人って言うんですかね、そういうの」
「悠子は秀が思っているよりずっと子供だよ。年上だからそう見えるだけで、あいつは寂しがり屋だし、すぐ人に甘える。私から言えば秀の方がよっぽど達観してるよ」
「買いかぶりすぎですよ」
「そんなことないさ。……それに、悠子はお前の事すごく信頼してると思う。口悪い事もたくさん言っているけれど、それだけお前に気を許してるんだ。そこのところ覚えてやっててくれ」
 そこまで言われるとなんだか照れくさい。僕は人差し指で頬を掻いた。いつの間にか涼子さんの癖がうつっている事にそこで気付く。
 やがてアパートの前まで戻ってきた。
「それじゃあここでお別れだ」
「えっ? 悠子さんに一言言わなくて良いんですか?」
「会うと別れ辛くなるからな」
「でも当分会えないんでしょう? まだ海外に行くって事も言っていないし、せめてちゃんと挨拶くらいしたほうがいいんじゃあ……」
「良いんだ。顔を見れただけで。また手紙を送るなりなんなりするさ。……こっちに来て色々なものをもらった。一日もいなかったけれど、得た物は大きかったよ」
「そうですか。分かりました。……写真、頑張ってくださいね」
「ああ」
 涼子さんは手を差し出す。
 自転車を置き、その手を掴んだ。
 しっかりと、僕達は握手をした。
「また顔出してください。……まぁその時僕がいるかは分からないんですけど」
「会えるよ。きっと」涼子さんは目を細める。
「そうですね」僕は微笑んだ。
「秀、悠子を頼むな」
「はい」
 今度ははっきりと返事をした。
 涼子さんは満足げに笑みを浮かべると「じゃあ」と背を向けて駅への道を歩き出した。
 彼女の背中は太陽に照らされていた。進む道は明るく、どこまでも長く続いている気がした。
 僕は彼女の背中が見えなくなるまで静かに見送った。
 本当にこのままで良いのだろうか。

 アパートに戻って来て悠子さんの部屋のインターホンを鳴らした。二度、三度、しかし悠子さんは出てこない。
「まだ帰ってないのかな」
 ドアノブに手をかけると、鍵が開いていた。ゆっくりと扉を開ける。
 部屋の中は真っ暗で、カーテンが閉め切られていた。いるのだろうか。もしかしたら、ちょっと出るだけだから鍵をかけずに出かけたのかもしれない。
 いくら見知った仲とは言え、女性の部屋にいきなり入るのは気が引けた。しかしどうしても涼子さんの事を伝えたほうがいい気がして、僕は「悠子さん、入りますよ」と中へ足を踏み入れた。
 玄関の電気をつける。こうでもしないと部屋が暗い。
 靴を脱いで先に奥の部屋へ歩いた。
「悠子さん、いるんですか」
 居ないわようと言う間の抜けた声が奥から聞こえてきた。
 奥の部屋に入りカーテンを開いた。部屋が急に明るくなる。
 悠子さんはベッドの上、毛布に包まり眠っていた。
「何寝てるんですか」
「二度寝よ。疲れたから。管理人も楽じゃないって事」ベッドからくぐもった声が聞こえる。
「午後から二度寝なんかしたら生活リズム崩れますよ」
「崩れないわよ。大丈夫」悠子さんの手が毛布から出てきてヒラヒラとゆれた。
 困惑した。こんな姿の悠子さんを見るのは初めてだったからだ。
「体調でも悪いんですか」
「別にそうじゃないわよ」
 そこではっとしたように彼女は布団から顔を出す。
「……何であんたここにいるのよ」
「すいません、つい」勝手に部屋に入っていることを言っているのだと思い僕は視線を落とした。
「涼と部室で過ごすんじゃなかったの」
「あ、そっちの話ですか」
「そっちって他に何があるのよ」
「いや、別に……」
「まぁいいわ。……で、どうだったの? 楽しかったんでしょ? 私だけ置いて楽しんだんでしょ」
「涼子さんが現役の時に部室に置きっぱなしにしていた機材を取っただけですよ」
 どうやら久しぶりに会った友人が自分より後輩と行動を共にしていたのが気に入らなかったらしい。
「なるほど、体調が悪いのではなくふて寝だったんですね」
「んなわけないでしょ」
 図星であることはバレバレだ。
「で、涼はどこ行ったの?」
 そこで思い出した。悠子さんの手をとり、無理やり体を引っ張る。急な行動だったので不意を衝かれたらしく、悠子さんはすんなり体を起こした。
「起きてください。駅に行きましょう」
「どういう事?」
「涼子さん、海外に行くらしいです。日本に戻ってくるのは当分先になるって言ってました」
「帰ったの?」
「ついさっき。いま追いかければまだ間に合うかもしれません」
「あの馬鹿っ」
 僕が言い終えるよりも早く、悠子さんはベッドから飛び出していた。サンダルを履いて外へ飛び出す。僕は慌てて後を追いかけた。
 外に止めてある自転車に乗り、悠子さんのところへ行く。
「乗ってください。送ります」
 悠子さんは黙って荷台にまたがる。スピードを上げ、駅へと急いだ。
 吹き付ける風はびっくりするほど冷たく、皮膚を切り裂くようだった。本格的な冬はまだ来ていない。それなのに手が少しかじかむ。
 アパートから駅まで徒歩十分ほど距離がある。歩く速度が遅ければ追いつける。僕は道行く人の中に涼子さんの姿がないか目を凝らした。
 駅前の広場にある時計を見るともう午後の四時を回ろうとしていた。混雑する一歩手前の時間。もう少し遅かったら構内には人が溢れ帰っていただろう。
 僕は駅の近くのコンビニで、周囲を見渡した。涼子さんらしき姿はない。
 悠子さんは自転車を降りて改札近くにいる駅員の所へ掛けていった。僕は近くに自転車を置く。心臓がバクバクと音を立てていた。呼吸がなかなか調わない。
 悠子さんのもとに行く前に構内に電子音が鳴り響いた。
 発車コール。
「涼子の実家方面の電車、今発車したって」
 乾いた声だった。
「何やってるんだろうね、あたしゃ」
 タハハと悠子さんは自嘲気味に笑う。感情の伴わない声だ。
「すいません。僕が無理を言ってでも引き止めてたら……」
「何であんたが謝るのよ。息荒らして、足なんか震えてるじゃない。それだけで充分よ」
「運動不足ですからね」
「馬鹿」
 悠子さんは呟くようにそう言うと、僕の胸元に頭を押し付けた。
「ごめん、ちょいこうしてて良いかな」
 泣いているような、震えた声だった。
「どうぞ」
 僕は悠子さんの頭に軽く手を乗せる。彼女の体も震えているのが分かった。
 少し経って、鼻を啜る音が聞こえる。人目が僕らに集まるのが分かった。少し恥ずかしかったが、今はこうしていよう。
 不意に駅の入り口に立つ人物と目があった。木下だった。
「お前ら何いちゃついてんの」
 異物でも見るような目で僕に視線をやると、木下はニヤリと笑った。
「まさか二人がこんな関係だったとはね」
「事情があるんだよ。……それより、お前は何してるんだ」
 僕の質問に木下は頭を掻いた。
「いやぁ、学校サボっちゃったからさっき起きて。とりあえず飲み物でも買おうかなって出かけたら今そこで涼子さんと会ってさ。ちょっと話し込んでたんだ。そしたらもう帰るって聞いたから見送りをするところ」
 少し間があった。
 悠子さんがゆっくりと顔を上げ、木下の方を向く。悠子さんの目は真っ赤に潤んでいた。頬に濡れた跡があり、鼻水も垂れている。僕は自分の胸元を見た。濡れているこれは果たして鼻水か涙か。
 ただそんな事は問題ではない。
「えっ?」悠子さんと同時に声を上げた。
「悠子さん、何で泣いてるんですか」
「いいから、涼子さんは何処にいるんだよ」思わずイラついた声が出てしまう。
「どこって……」
 木下は自分の背後に視線をやった。
 緑色のジャケットに、ボロボロの黒いエフェクターケースを持ち、リュックを肩から提げた涼子さんが目を丸くして立っていた。
「あれ、何でここに」
「この馬鹿」
 言い終わる前に悠子さんは涼子さんに抱きついた。涼子さんは慌てたように空いている手で悠子さんを支える。僕はその様子を見て声を出して笑った。木下は訳が分からないという顔をしている。
「どう言う事だ」木下が目を泳がせる。
 すると悠子さんが木下をびっと指差して言った。
「あんた最高」
 急な言葉に木下は僕の顔を見る。僕も笑いながら頷いた。
「お前最高」

 切符を購入して涼子さんはこちらに向き直った。
「一日だったけど、世話になったな」
「全くよ。見送りくらいまともにさせて頂戴」
「すまん。会うと別れが辛くなると思って」涼子さんは神妙な顔で頭を下げる。
「何も言わずに行くほうが遥かに辛いでしょ」呆れたように悠子さんは笑う。
「そのうち手紙書くよ。写真も送る」
「このご時勢メールじゃなくて手紙ってところがらしいわね」
 二人の会話は一度そこで止まった。
 言いたいことは山ほどあったはずだ。かけるべき言葉も、まだ話していない事も、たくさんあったはずだ。
 多すぎる言葉はなかなか出てこない。まるで水が詰まるように、何を話せば良いのか分からなくなる。
「またこっち来なさいよね。私はいつでもいるから」
「悠子も元気でな」
 涼子さんはちらりと僕に視線をやった。そして悠子さんの耳元に口を寄せ、何事か呟く。
 すると悠子さんは少し顔を赤くした。
「な、なに言ってんの、馬鹿」
 あからさまに狼狽している。何を言ったのだろうか。木下を見ると肩をすくめていた。
「じゃあ私はそろそろ行くよ」
 涼子さんはきびすを返して改札に向けて歩き出した。
「お元気で」木下が大きな声で言うと、彼女は軽く手を振った。
 切符を通し、改札を抜ける。
「悠子さん」
 何も言わなくていいのだろうか。このまま別れて良いのか。
 涼子さんの背中が徐々に小さくなっていく。
 すると悠子さんが改札のすぐ手前まで駆けた。
「涼子」
 構内に響くほどの声。視線が集まる。涼子さんが振り向くのが分かった。
「帰ってくる場所があるって事忘れるんじゃないわよ」
 改札越しに、二人の目が合うのが分かった。
 涼子さんはニッと強く笑うと、手を強く上に掲げた。そして前を向き、軽快な足取りで階段を上っていく。
 階段の先に涼子さんの姿は消えた。
 しばらく、その場に突っ立って僕らは涼子さんのいた場所を眺める。
「行っちゃったなぁ」木下が呟く。
「うん」
「美人だったなぁ」
「いい人だったよ」
 僕は改札まで行くと、悠子さんの肩を叩いた。
「帰りましょう」
「うん」
 名残惜しそうに駅の方面を見ながら、悠子さんは入り口へと歩いて行った。
 僕らは駅を出た。先ほどのコンビニで自転車を回収し、木下と別れた。
「乗って帰ります?」
「うん」悠子さんはこくりと頷く。
 駅前の広場を抜け、来た道を戻った。駅から離れるにつれ喧騒が遠ざかるのを感じた。
 この時期はもう太陽の動きが早くなる。街はもう夕景に染まっている。
「いやぁ、まさかこの年で青春するとは思わなかったわ」
 荷台に乗った悠子さんが言った。
「まだまだ若いですね」
「駅に到着するまではまるで青春映画みたいだったわよね。いやホント、焦ったわ」
「かなり疲れましたけどね」
「普段からインドアだからよ。もっと表出て運動しなさい、運動」
「そんな気力ありませんよ」
 タイヤの転がる音と、チェーンの回転音が静かな通りに響いた。ペダルを踏み込むたびに二人分の重みを感じる。
「秀介、ありがとう」
「感謝してるなら本名で呼んでください」
「結城、ありがとう」
「どういたしまして」
 ふと、気になったことがあった。
「そういえば最後に涼子さんに言われた事って何だったんですか」
 悠子さんは答えない。顔が見えないので分からなかったが、逡巡している気がした。
「好きな人にはもうちょい素直になれって」
「なんですかそれ」あまりにも脈絡のない言葉だ。
「知らない」
「悠子さん好きな人とかいるんですか」
「そんな事より家に帰ったらおやつにするわよ。お茶を淹れておきなさい。昨日の苺大福を食べましょ」
「わかりました。あれ美味しかったんで楽しみですね」
 上手くはぐらかされた。まぁいつもの事とも言える。
 空は澄んだ色をしていた。
 この季節、街の色は抜けていく。その為、空気の透明度がより増す気がする。
 来年の今頃、僕はどうしているのだろう。今はまだ分からない。
 ただ一つ分かった。
 出来る事も、やるべき事もたくさんある。

       

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Neetsha