Neetel Inside 文芸新都
表紙

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 日が傾いていた。先ほどまでは曇っていたが、今は雲の合間から空の様子を確認することが出来る。青空が少しずつ色を濃くしていた。
 想像したよりは寒くない。とは言ってもやはり空気は冷たく、我が家のコタツの魅力と威力がよく理解できた。
「あ、上着と財布、自分の家に置きっぱなしだわ」
 悠子さんは外に出てからようやく自分が上着を着ていないことに気付いて自分の部屋に戻っていった。
 木下は寒そうにマフラーに顔を埋めて腕を組んでいる。僕はズボンのポケットに手を突っ込んで空を仰いだ。
 寒い日の空気は透き通って見える。この季節は夏と違い鮮やかな色が失われる時期でもあるため、その感覚はより一層顕著となる。
 それでも一日のこの時間は色々な物が茜色に染まるから嫌いじゃない。
 夕日を見ると時折妙な焦燥感と心のざわつきに襲われる。これは昔からで、特に何か不安があるわけじゃない。この独特な感覚も、慣れれば心地よいものなのだ。
 カラスの鳴き声が遠くから聞こえた。僕と木下の間に会話はない。僕らの間には沈黙がある。
 時々、全く会話せずに同じ時を二人で過ごすことがあった。木下が僕の部屋に来て、二人でダラッと過ごす時なんかが特にそうだ。僕が漫画を読んで木下がゲームをしていたり、僕がパソコンをして木下が勝手に寝ていたりする。沈黙を共に過ごせる間柄の人間関係。それは重要な気がする。
 そんな事を考えていると悠子さんが家から出てきた。すまんすまん、と気さくに話してくるこの人を見て、そういえば悠子さんともよく沈黙の時間を過ごすなぁとふと思う。これだけやかましい人と沈黙を共有するなんて奇妙な事だ。
 駅前のスーパーに向かい、人通りのない狭い道を三人で歩く。この辺りは車もあまり通らないので静かだ。
「今日、他に誰か呼ぼうか?」
 突然悠子さんが言い出した一言に、僕は反論した。
「いらないでしょう」
「でもでも、買える食材の幅も広がるし断然お得じゃないの。鍋の強みって人数増えても大丈夫な点にあるのよ?」
「でもなぁ……」僕は頭をかいた。
 今日の流れだと僕の家で鍋をすることになるのだから、酒盛りも必然的に僕の家で行われるだろう。人数が増えれば増えるだけ部屋の片付けも面倒くさくなるし、部屋も汚れる。飲み会の後の片づけほど面倒なことはない。
「うだうだ言ってんじゃないわよ。五人六人呼んだら良いじゃない」
「管理人が苦情の原因作っちゃダメでしょう」
 以前、上の階の住民が十人近い人間を家に呼んで飲み会を開き、管理人の悠子さんの元に苦情が来たことがあった。あの時は悠子さんが注意するだけで済んだが、さすがに管理人が当事者になるのはまずい。
「そういえば私、管理人だった」悠子さんはハッとした顔で言う。
「しっかりして下さいよ」
「いやぁ、うっかりしてたわ。あんたらといるとつい自分が学生の様な気がしちゃうのよね」そう言って彼女は恥ずかしそうに頭をかいた。
「でも悠子さんがそう言う提案するのって珍しいですね」
 何気ない木下の一言にふと僕も考える。
「そういえば今まで僕の家で飲むのにわざわざ人なんか呼んだ事なかったような……」
 いつもは基本的に悠子さんがお酒を持って僕の部屋に乗り込んでくることが多い。今日の様にわざわざ飲み会の準備の為買い出しに出かけることも初めてだった。
「ほら、鍋ってたくさん具を入れるほど美味しいし、少人数でやるものじゃないでしょ。寒い日ほど人恋しくなるし」
「たしかに」
「さすがに大人数はまずいけど、とりあえず人は呼びましょ。お金は多目に出すから」
「まぁそれは別に良いんですけど」
 別にお金がどうこうと言うわけではない。
「で、誰を呼ぶんですか」
 僕が言うと悠子さんは眉間にしわを寄せた。
「どうしようかしら。……まぁ帰ってから決めましょ」
「ホント自分から言い出した割には適当ですよねぇ」
「何よ、文句でもあんの」
「いえ、別に」
「男でしょ、はっきりしなさい」ずいと睨みをきかせて来る。
「まぁまぁ、落ち着いてください。とりあえず誰を呼ぶにしても俺がエスコート役をさせてもらいますよ」木下が場をとりなすようにひょうきんな声を出す。
 僕のアパートには意外と可愛い女性の住民が多い。恐らく管理人が女性、と言うのがその大きな理由だろう。木下が狙っているのはそんな女性との交流じゃないだろうか。友人に対して歪んだ視線で見すぎかもしれないが、木下ならそんな考えもありえる。
「やっぱり木下は男の鏡だな。秀介も少しは見習ったら?」
「人の本名もまともに呼べない人の言うことは聞く気がしないです」
 狭い路地から大通りへと抜けた。狭まっていた視界が開け、右側に駅が見える。目的のスーパーはそのすぐ傍だ。
 夕飯時の為スーパーは非常に混んでおり、レジには大量の主婦が並んでいる。
 僕らはエノキ、シメジ、マイタケと言った数種類のキノコと豚肉、中華そば等をかごに入れた。ダシは何故かチゲ鍋を切望する悠子さんの発言でキノコチゲ鍋にすることになった。どうでも良いけど随分と泥臭そうな鍋になる気がした。
「これ絶対終盤ダシに泥臭さが移りますって」
「そこらへんは私が上手くやるわよ」
 その妙な自信はどこから来るんだ。
 ビールの六本パックを二つ、ビールが飲めない人の為にチューハイを更に購入して、僕らは店を出た。割り勘のつもりでいたが、悠子さんが七割近くも出してくれた。こう言う時サッとお金を出してしまう所に年上を感じる。
 悠子さんの行動にはちっとも嫌味っぽさがない。普段は子供っぽく偉そうに振舞ったりしているが、そういった点でやはりこの人は大人だ。
 そんな悠子さんに負けまいと妙な見栄が出たのか、それともお金を払ってもらった罪悪感からか、せめて荷物だけはと僕と木下で分けて持つことにした。僕が持っているのはビールのパックが全て入っているため、やたらと重い。木下の持っているのは食物、しかもキノコ類がほとんどなのでたいした重みも無いのだろう。失敗した。
 両手に飲み物の入ったビニール袋がくいこむ。計十八本のお酒が入っている。今日は日本酒はやめて軽く飲みたいと言った悠子さんの要望を聞き入れた結果がこのお酒の量だ。
 予想外にスーパーで長居をしてしまったらしい。買い物を済ませて店から出る頃にはほぼ完全に陽は沈んでいた。
「ところでお前、鍋持ってんの?」
 信号を渡り、再び大通りから路地に入ったところで木下が尋ねてきた。彼の質問に僕は首肯する。もはや秀介と言う呼び名をいちいち否定するのも面倒だった。
「そりゃ持ってるよ。実家から持ってきた電気鍋が。電源入れたら暖めながら喰えるから便利だよ」
「そんなの持ってたのかよ。初耳だな」
「今まで使う機会がなかったからね」
 もしかしたら今日悠子さんが鍋をしようと言い出したのは、僕を気遣ってのことかもしれない。心が沈んでいたり、寂しそうだったりする人間ほど温かい物をたくさん食べることが良いのだと、いつか悠子さんが言っていたのだ。
「あー、お腹減った。さて、今日は久しぶりに美味しいお酒を飲むわよー」
 のんきな声で悠子さんが言うのを聞いて、僕は自分の考えが過ちであることを悟った。
「久しぶりにって、悠子さんよくお酒飲んでるじゃないですか」
「いつも飲んでるのは安い日本酒なのよ」
「どう違うんですか」
 僕の質問に悠子さんは大げさに溜息をついた。
「馬鹿ねぇ。特に良いお酒でもない日本酒なんか飲んだってまずいだけでしょ。ビールの方がよっぽど美味しいわよ」
「じゃあ普段からビール飲めば良いじゃないですか」
「ビールより日本酒のほうが私は早く酔えるのよ。それに日本酒は料理に使えるし便利でしょ」
「何で今日は日本酒にしなかったんですか」
「今日は酔いたいんじゃなくて、楽しく飲みたいのよね。私いつも日本酒だとすぐ回って眠くなるのよ。不眠症の時とか、ぐっすり眠りたい時とかは日本酒飲んで寝たりすんの」
 意味が分からん。
「ダメだな、秀介。理解力が無いやつはモテないぞ。つまり悠子さんにとってビールは美味しく飲む為のお酒であって、日本酒はただ酔って眠る為だけのお酒って事ですよね」
 木下の言葉に悠子さんは嬉しそうに木下を指差す。
「それ、まさにそれ。よく分かってるなぁ木下は」
 それに比べて、とこちらに視線が来るのは分かっていたので僕はあえてそっぽを向いた。「そういえば悠子さんは度々僕の家に日本酒持って来ますけど、ぐっすり眠るために日本酒飲むなら何でわざわざ僕の家まで来るんですか」
 すると悠子さんは少し驚いたように眉を上げ、恥ずかしそうに頭をかいた。
「いやぁ、一人酒って寂しいじゃないの。どうせ酔うなら誰か一緒に酔わせたいじゃない」
「そんなんでいちいち来ないでくださいよ……」
 まるで歩く災害である。
「そんな事して、お酒飲めない子に無理やり飲ませたり、テスト前に飲ませて学業をダメにしたりしないでくださいよ」
 僕が言うと悠子さんは何言ってんの、とばかりに手を振る。
「そんな事あんたくらいにしかしてないわよ」
「悠子さん、一体僕をなんだと思ってるんですか……」げんなりした。
 アパートの入り口で僕は足を止めた。悠子さんの部屋の前に誰かが立っていたからだ。相手もこちらに気付いたようで、目が合う。
 緑色のジャケットにリュックと言うラフな格好をした人物だった。遠目だからはっきりしないが、セミロングの髪形から察するに恐らく女性だ。ただ仕草だけだと男性にも見えた。僕が女性と勘違いしているだけかもしれない。
「秀介、早いよ」
 不意に背後から声を掛けられ、振り向くと悠子さん達が追いついていた。
「まったく、ちょっとは人に合わせるって事を知りなさ……ん?」
 悠子さんはふと僕の背後に視線をやって表情を一変させた。「んん?」と眉を寄せ、目を見開く。
「え、ちょっとやだ、嘘でしょ」
 そう言うと僕の脇を抜け、彼女は家の前の人物に近づいた。
「えぇ? やっぱり涼じゃない。何やってんのあんた? 何で居るの?」
 相手の肩をばしばし叩きながら、驚いたように悠子さんは言う。
「近くまで来たんでちょっとな……」
 静かな物言いで、口調が男っぽい。声音から、どうにか女性だとわかった。
「近くってあんた確か地元の専門学校通ってなかったっけ? 近くに来る用事なんかあったの? と言うか何年ぶり?」
「そんなに一気に質問されても困る」
 悠子さんの発言を制すようにして涼と言われた人は少し苦笑いする。
「悠子、この子らは?」
 遠巻きに見つめる僕らの視線を感じたのか、涼と言う人は尋ねる。
「あぁ、ウチのアパートの住民よ。これから三人で鍋するんだけど、丁度良いわ。涼も食べていくでしょ?」
「……良いのか?」
 そう遠慮がちに僕らに言う。それもそうだろう。初対面の人間の家に上がってあまつさえ一緒に鍋を食べるなど、気も使うし、気まずい。しかも会って五分も立っていない人間が相手となるとなおさらである。
「あ、大丈夫です。むしろ今日は少し買いすぎたくらいなので人が増えて助かりました」
 僕は愛想笑いを浮かべた。
「悠子さん、その人はお知り合いですか?」
 木下がここぞとばかりに質問する。目の前の女性が気になっているのだろう、と言う僕の考えは穿ち過ぎだろうか。
「あぁ、ごめんごめん、こいつは土方涼子って言って、私の大学時代の友達。私は涼って呼んでるけど」
「涼子でいい」
 悠子さんの紹介にうなずく彼女。それを聞き、木下はずいと一歩前に出る。
「木下敏(とし)と言います。悠子さんには普段からお世話になっているんです。よろしくおねがいします」
 妙にかしこまった挨拶だ。先ほどの木下に対する僕の考えは間違いでもないかもしれない。この流れだと僕も挨拶すべきだろうかと思っていると悠子さんが口を開く。
「こっちの木下は本当によく出来た男なのよ。自分から積極的に人に関わろうとするしね。んで、こっちのゴボウみたいなのが秀介っての」
 誰がゴボウだ。
「秀介?」
 ちらりとこちらを見る涼子さん。
「あだ名です。今日付いた」
「あぁ、なるほど」
 彼女はふっと笑みを浮かべる。恐らくこの反応から察するに悠子さんの初恋話を知っているに違いない。
「とりあえずここじゃなんだから中に入りましょ。あ、私は自分の部屋に上着とか置いてくるから」
「あ、悠子……」
 悠子さんはさっさと自室のドアを開けると自分の家に入っていった。
ドアが閉まる音がして、少しだけ沈黙が漂う。
「今日泊まるから私の荷物も置かせてくれって言おうとしたのに……」
 悠子さんの家に向かって、涼子さんは呟いた。

       

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