Neetel Inside 文芸新都
表紙

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 夜中の街は静かだ。時計の秒針、水道水の滴り、呼吸、様々な音が静かに、それでも波紋のように広がっていく。
 僕は机の上を拭き終えると、冷蔵庫から残っているチューハイを二つ取り出して片方を涼子さんに渡した。先ほどまで鍋をしていたからか、部屋の中は随分と温い。コタツに入らなくても大丈夫なくらいだ。
「すまないな、たいした手伝いも出来ないで」
 申し訳なさそうな涼子さんに僕は首を振った。
「ゴミをまとめてくれただけで充分ですよ」
「よく片付ける気になったな。悠子だったら次の日でも片付けないのに」
「その気持ちも分からないではないですけどね。飲み会の片付けって面倒くさいですから。ただ僕は台所と机の上だけは綺麗にしておこうって普段から思ってるんで」
「偉いな」
「神経質なだけですよ」
 僕は缶を開け、後ろにあるベッドを背もたれにする。ベッドは悠子さんに占領されていた。数時間前「よい具合にお腹が調ったので寝る」と言ったきりだ。
 木下は悠子さんが眠ってしばらくした後、帰宅した。
「木下の家はここから遠いのか?」
「歩いて十分もないですね。駅前の方にあるんです、あいつのアパート」
「二人共一人暮らしなんだな」
「ええ。涼子さんは学生の頃一人暮らしだったんですか?」
「いや、私はずっと実家から通いだ。今もな」
「じゃあ実家は結構近いんですか?」
「ここからだと一時間半くらいかな。ほら、駅前のバス停、あそこからよく学校に行ってたんだ。土曜日は本数が減るし、日曜日は走ってすらいないから結構不便だったんだよ」
「よく四年間も通えましたね」
 片道自転車で五分の距離ですら遅刻するのだ。一時間半も掛かるなど想像も出来ない。
「そんなに大変じゃないよ。慣れたらどうって事ない。ただ……」
「ただ?」
「ただ、一人暮らししている奴は羨ましかったかな」そう言ってお酒を口に運ぶ。
「一人暮らしなんてろくでもないですよ。家事は面倒くさいし。お金がなくなったら死活問題ですから」
 先月の木下を思い出す。奴は先月仕送りが来る一週間前にお金が底をつき、毎日のように僕にご飯を恵んでもらいに来ていた。
「そう言うのも羨ましかったんだ、私は」
「実家はご飯もあるし家事もやってもらえるし、僕からしたらそっちのほうが羨ましいですけど」
 結局のところ、ない物ねだりなのだろう。相手は自分にはない部分を持っていて、それが輝いて見える。
「でも、一人暮らしでこのアパートに来てなかったらこうして涼子さんや悠子さんと出会うこともなかったって考えると、確かに悪くないですね」
「そうだろ」
「それに、このアパートでは悠子さんがいつも住民の事を気にかけてくれますし、何かあっても助けてもらえるから、悠子さんの存在はやっぱり大きいですね。以前もバイト先が潰れたって言う子に次の職場を紹介してましたし」
「そうか」
 涼子さんは悠子さんに視線をやった。
「頑張ってるんだな、悠子」
「頑張ってますよ。って、本人には言いませんけど」
「調子にのるからな」
 僕らは笑った。
「ただ、悠子さんが住民の事を知りすぎてるのもどうかと思いますけどね」
「どういう事だ?」
「悠子さん、住民の事なら生活状況から仲の良い友達、所属している部活まで知っているらしいです」
「すごいな」涼子さんは目をぱちくりする。
「ただ、アパートの管理人がそこまで住民の事を知るのってどうなんだろうって思うんです。その、不気味がられたりしないかなって」
 ちょっと言い方が悪かっただろうか。批判みたいになってしまった。
「悠子はさ、昔から人と仲良くなるのが得意だったんだ」
 涼子さんは全く気にしていない様子で話し始める。
「秀はさ、友達が何のサークルに所属しているとか、なんのバイトをしているとか分かるか?」
 秀と言うのは僕の事か。
「まぁ、仲良い子だとある程度は把握してますね」
「そうなんだよ。仲がよかったら相手の事がよく分かるし、仲が良い相手が自分の事を知っていてもなんら不快には思わないだろう?」
「……なるほど。そういうことですか」
 涼子さんの言わんとしている事に僕は頷く。
「悠子さんって、確かにそういう人ですよね」
「心配しなくてもこいつは上手くやるんだ。だから安心して良い。もし何か困っていたら、その時は助けてやってくれないか」
「もちろん」
 涼子さんはよく人の事を見ていて、分かっている。悠子さんと仲が良かったのも何となく頷けた。
「涼子さん、明日うちの部室に来ませんか?」
「部室? ……いや、さすがに引退してしばらく経つし、知ってる後輩もいないだろうからなぁ」
「でも、来ないと機材取れませんよ?」
「機材?」
「機材取りにこっちに寄ったんでしょ?」
「あ」彼女は思い出したように声をあげた。こういうところは妙に抜けている。
「しばらく触ってなくて、現役の頃のように弾けないギターの、もう数年間は放置していた機材を取りに来たんでしょ? 嘘、バレバレですよ」
「慣れない事はするべきじゃないな」涼子さんは気まずそうに頬を指で掻いた。「お鍋食べてる時は誤魔化せたと思ったのに……」
「どこをどうしたらそう理解できるんですか」思わず呆れ顔になってしまう。
「誤魔化せてなかったのか?」
「当たり前です」
「悠子にもばれたのかな」
「当然ですよ」
「いやぁ、行けたと思ったんだけどなぁ。参ったな」
「悠子さんの鋭さが尋常じゃないって事、涼子さんの方が知ってるでしょ」
「もしかすると私の嘘は今まで全部悠子に見抜かれてたのかもしれないな」
「今までって、以前も悠子さんに嘘を?」
「学生の頃、ちょっと人間関係が複雑だった時期があってな。部内で人ともめたりすることが多かったんだ」
 悠子さんの言っていた事に関する話だろう。
「部活を辞めようか迷った時期もあったが、やっぱりなんだかんだ部活が好きで辞められなかった。そんな折、妙な噂が流れてな」
「噂?」
「その、なんだ、現役生に言うような内容じゃないかもしれないがな」
「そこまで言うなら言ってくださいよ」
「私と悠子が付き合ってるんじゃないかって言う内容でな……」
「酷いですね」淡々と言うと涼子さんは意外そうだった。
「もっと驚くと思った」
「なんとなく、想像ついてましたから」
 恐らく悠子さんもこう言った類の噂が流れるのは予想していたかもしれない。
「あ、もしかして悠子から何か聞いた?」
「大雑把には。よく部内の女子に告白されていたって」
「そっか……。たぶん当時の私は誰から見ても分かるくらい元気がなかったんだろうな。何かあったのか悠子に尋ねられた」
「そこで、嘘をついたんですね」
 涼子さんは少し沈んだ面持ちで頷いた。
「あまり心配かけたくなかったし、何より噂の事を悠子が知るのが怖かった。悠子が傷つくのも、これがきっかけで付き合いがなくなってしまうかもしれないのも、怖かった」
 大学では毎日の様に一緒に過ごしてきた人間が、ある事をきっかけに一切連絡を取れなくなるのもめずらしくない。
「でも、もしかしたら悠子は噂の中身に気付いていたのかもしれないな」
「かもしれませんね」
 悠子さんの事だから涼子さんが自分に気を使って嘘をついていると見抜いていたと思う。
「その噂はその後、どうなったんですか」
「すぐに消えたな。元々、信憑性の低い話だったんだ」
「噂を流した人は」
 涼子さんは首を振った。
「噂自体は自然発生的なものだったんだ。その……たぶん私が色んな人の告白を断っていたから、流れ出したんだと思う。どうしてその方向に噂が立ったのかはよく分からないが」
 たしかに、涼子さんに同性愛の気がないと普通は考えが行きそうなものだ。
「たぶん、自分の都合が良いように解釈したかったんでしょうね。他に好きな人がいるからダメだったんだと」
「だろうな」涼子さんは神妙な顔で頷いた。
「でも、そんな状況でよく続けましたね。部活」
「うん、自分でも不思議に思う」涼子さんはそう言うと軽く笑った。「仲の良い友達や先輩後輩はたくさんいたんだ。思い出もそれなりにあった。やっぱり自分の居場所はここだと思ってたんだ」
「そうか、そうですよね」
 その気持ちは分からないでもない。
「それにしても悠子は困るな」
「何でですか」
「普通友達が同性に告白されていたとして、それを人に言うか?」
「言いませんね。良識があれば」
「まぁたぶん秀だから言ったんだろうけどな」
「僕だから? どうしてですか?」
「秀はこういう話、面白半分で人に話したりしなさそうだ。だから信頼して言ったんじゃないか」
「悠子さんがですか?」
「まぁ私の勘だけどな」
 そのときベッドで寝ていた悠子さんが大きく寝返りを打って目を覚ました。うぅん、と言ううめき声をあげる。
「やっと起きましたか」
「うん? ん、まぁ」
「悠子。部屋、もどろっか」
「ん、そうする」
 悠子さんは眠そうな目を擦りながら体を起こした。そのままフラフラと立ち上がると、玄関まで歩いていく。
「秀、今日はありがとう。初対面で、しかも急に来た私にこんなに良くしてくれて」
「いえ、いつでも来てください。またお話聞きたいです」
「ありがとう」
 涼子さんは微笑むと立ち上がり、壁にかけてある上着を手に取った。そこで何かを思い出したように「あっ」と言う。
「明日、部室行ってみるよ。昔の事思い出したら、少し行ってみたいなって。でも一人だと不安だから付き合ってくれないか?」
「構わないですよ。あ、僕午前中で講義が終わるんで、十二時に部室棟で待ち合わせでもしますか?」
「そうだな、そうしてもらうと助かる。じゃあ、また明日」
「はい。また」
 涼子さんは慌てた様に玄関から出て行った。扉が閉まる。
 部屋の中で一人になると、随分と広く感じた。机には中身が入ったままの缶が二つ残されている。もう時刻は午前三時を回っていた。
「勿体ないからこれ飲んでから寝るか」
 呟くと同時に玄関の扉が開く音がした。見ると玄関に涼子さんが立っている。
「忘れ物でも?」
 涼子さんは視線を落とす。
「悠子に鍵かけられた」

 翌朝、物音がして目が覚めた。ハッキリしない思考で時計を探すと九時だった。
「一限遅刻だなぁ……」
 一限開始が九時なので、丁度始まった頃だ。
 確か今日の一限は出席を取るはずだ。九時半までに講義室にいる人間だけに出席表が配られる。大学までは自転車で五分程度の距離しかないので今ならまだ間に合うだろう。
 涼子さんは押入れから出した布団を敷いて眠っていた。起こさないようにそっと忍び足で洗面所に向かう。
 そんな僕の努力をあざ笑う様に玄関の扉が叩かれた。どうやら僕が目覚めたのはこの音が原因らしい。
 僕は溜息をついて扉を開けた。
「うおぃ」急に開いた扉に不意を突かれた悠子さんが声を上げる。
「あ、おはようございます」僕は目を擦りながら言った。
「朝っぱらからきっちゃないわねあんた。講義は?」
「……あります。今から行きます」
「ならよろしい。……てかそんな話をしに来たんじゃないのよ私は」
 悠子さんはずい、と体を寄せてきた。僕は思わずのけぞる。
「何ですか」
「涼は?」
「寝てますけど」
 僕は奥の布団を指差した。すると悠子さんは表情を変え僕を強く睨みすえた。
「良い度胸してるわね、秀介君」
 何の事か分からない。
「とぼけるんじゃないわよ。おかしいと思ったの。朝起きたら部屋は私一人だったし、歯磨いてなかったし」
「歯磨いてないのは悠子さんがサボったんでしょ」
「ともかく、早く涼を返しなさい。あんたが一晩美味しくいただいちゃった涼をね」
 妙な勘違いをされたものだ。
「悠子さん、まだ酔ってるんですか?」
「酔ってるわけないでしょ」
「じゃあ寝ぼけてる」
「しっかり爆睡しました」
「聞きますけど、悠子さんの家に鍵掛かってました?」
「あたりまえでしょ」
「じゃあその鍵誰が掛けたんですか」
「私?」
 先ほどの勢いがなくなる。もうちょいか。
「鍵掛かってたら誰も入れないでしょ。寒空の下、夜中で電車も走ってないのに涼子を放り出せって言うんですか」
 ようやく悠子さんは完全に沈黙した。
「どうしたんですか、朝から」
「いや、まぁ、ね」そう言って苦笑いする。「うちに泊まったもんだと思ってたから、涼子の姿がなくてテンパッたとでも言いますか」
 それで恐らく僕の家にいると考えたのだろう。そこまでは何も問題ない。
「だからと言って何で僕が涼子さんとそんな風になるって発想になるんですか」
「いやぁ、男って夜は狼になるって言うし……」随分と古い表現だ。
「今まで僕が悠子さんに牙を剥いた事ありました?」呆れて怒る気にもならない。
「昨日皆酔ってたし、涼なら気の緩みでコロッと行っちゃうかなって」
「酔ってたのは悠子だけだよ」不意に背後から声がした。
 振り向くと涼子さんが眠そうな顔で立っていた。
「誰がコロッと行っちゃう、だ」
「おはようございます」
 僕が言うと涼子さんは「おはよう」と眠たげに微笑んだ。
「涼、起きてたの」悠子さんが表情を固くする。
「起こされたんだ。誰かさんが朝っぱらからうるさいおかげでな」
「あははは、まぁ、私なりに友達を心配してたのよ」
「もういい。それより悠子、風呂貸してくれないか」
「へっ? 良いけど……」
「あまり長居すると秀に迷惑になるしな」
 そう言うと涼子さんは僕にだけ見えるように笑った。あとは任せろ、そう言いたげだ。
「悠子、行こう。秀、世話になった」
「いえ」
 涼子さんは玄関先においてあった自分の荷物を持つと悠子さんの家へ向かった。
「あ、涼、待ちなさい」
 慌てて涼子さんを追う悠子さんは、部屋を入る前にこちらに向き直って一言。
「ごめん」
 悠子さんの謝罪はなんだか妙にむず痒く、またそんな彼女を見るのは初めてだった。結構可愛い。少しだけ顔がにやけ、慌ててパシパシと叩いて真顔に戻した。
「僕も風呂はいろ」
 わざとらしくそう呟いて、ドアを閉めた。

       

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