Neetel Inside 文芸新都
表紙

見開き   最大化      

 部室でまず目に飛び込んで来るのは入り口近くに固められている部員のギターやベース、棚に置かれたドラムの機材やエフェクターケースだ。そこを抜けると長机が二つ縦向けに置かれており、パイプ椅子がいくつかそれを囲むようにしてある。長机の更に奥には物を置く台があり、部室用のパソコンが置かれている。奥は一面窓になっており、電気をつけていなくても割と明るい。
「相変わらずきったないなぁ」野沢菜さんが顔をしかめた。
「野沢菜さんが部室に来るのって珍しいもんね」
 僕は苦笑してパイプ椅子に腰掛けた。机に鞄を置きたいがゴミだらけだったので空いている椅子に置くことにする。
「けどこの時期だからまだ良かったよ。夏だと悲惨なことになってるから」
 夏場の部室はいつも異臭がただよっている。部員がカップラーメンやジュースなどを部室で飲み食いし、そのゴミを放置しているためだ。
 今年の夏、異臭だけでなくハエまでただよっていたのには辟易した。放置されたゴミを片そうとたまたま手に取った缶コーヒーから無数に小バエが出てきた事はいまだに恐怖体験となって僕の脳裏に強く残っている。
 この時期の部室はその心配がないので僕にとって非常に安心できる空間ではあった。
「室内やのに結構寒いなぁ。空調とかなかったっけ?」
「あるよ。あんまり効かないけど」
 僕は入り口横にある空調のスイッチを入れた。ついでに部室の電気もつける。ゴウンと言う独特の機械音が薄く室内に響いた。
 椅子に戻るついでに自分のギターを取る。シェクターのテレキャスター。
 ケースから中身だけ出して手に取ると右手にずっしりとした重みを感じた。椅子に座ると、静かに弾いてみる。
「ギター触るの久しぶりかも」
「どんくらい触ってないん?」
「一ヶ月くらいかなぁ。ギター触りたいって気があんまり起こらなくて」
「分かる。段々楽器弾くことに興味なくしてくるもんなぁ」
「一、二回生の子が楽しそうにスタジオ入ってるの見たら、僕も入学当時はあんなんだったなぁとか思ったりね」
「そうそう」
 自分だけかと思ったが、上回生は皆感じている感覚なのかもしれない。
「そういえば野沢菜さんは触ってないの? ドラム」
 野沢菜さんの担当パートはドラムだ。案外楽器は上手い。
 何度か彼女とは一度限りの企画的なコピーバンドを組んだことがある。それまで彼女とは便宜的な会話しかしたことがなかったのだが、バンドを組んで以来割と話すようになった。
「うち外バンやってるからな。割と頻繁に触る機会はあるんよ。この前もライブやったし」
 外バン。部活外で活動しているバンドの事だ。高校の頃の友達とずっとオリジナルで活動しているという話は聞いたことがある。曲も格好良いと部内で評判だった。
「ライブあったんだ。いつ?」
「先週。月数回はやってるから」
「月数回ってすごいね。疲れない?」
 月一度だけでもライブがあると疲れる。部のイベントだと内輪的な物なので気楽だが、ライブハウスのブッキングとなったらお金もかかるし、精神的にも疲労するだろう。
「まぁ疲れはするし、一概に楽しいとは言えへんな。何でこんな事やってるんやろって気になる事もある」
「じゃあ何でやってるんだよ」僕は苦笑した。
「何でやろなぁ。本気で音楽やっときたかったんちゃうかな。多分」
 何でも無いその口ぶりが、逆に言葉に重みを持たせて胸に響かせる。
「本気で音楽やれる環境があるって良いね。少し羨ましいかも」
「本気で音楽したいなら、自分もしたらええやん」
「さすがに遅いよ、もう。就職活動も始まるし」
「そうかなぁ」
「そうだよ」
 僕はゆったりとしたフレーズを弾いた。耳障りの良い、静かなフレーズ。
「あんたホンマ上手くなったなぁ。なんでそんなに練習したん?」
「馬鹿にされるのは嫌いだからね。見返したかったんだよ」
 すると野沢菜さんは首をかしげた。
「馬鹿になんかしてる奴いたかなぁ。皆褒めてたけど。頑張ってるなぁ、あいつは伸びるとか」
 僕はギターを弾いていた手を止めた。そんな事は初耳だった。
「嘘だよ」
 昔やったライブの時の光景を思い出す。音出しの時から既に馬鹿にしたようなにやけ面を浮かべている人がいたのを僕は知っている。演奏中に首を振ってその場から出て行った人もいた。
「嘘ちゃうよ。あんた先輩に色々聞いたり、演奏法調べたり、音作り試行錯誤してたやろ? 皆あんたのそう言う姿ちゃんと見てんねんで?」
 野沢菜さんの目はまっすぐこちらを見据えている。真摯な発言だと言うことが分かった。
 それだけに、僕は少し悲しくなった。
「スタジオで音、出してくる」

 大学に入学して初めてギターに触った。たまたま同時期に兄が持っていたギターが僕に回って来たのがきっかけだった。
 触りだすと存外面白く、すぐにのめりこんだ。高校の頃から軽音楽部だったという木下と講義で知りあい今のフォー研に入った。
 軽音系の部活に存在する、技術力の差による差別があるなんて分かっていたら多分入部なんてしなかったと思う。
 楽器を始めて最初の一年は人に見せられるような演奏はできなかった。
 思い出しても恥ずかしいライブを何度も経験したし、誰も見ていないライブもあった。
 経験者ばかりの中、初心者の友達は技術的についていけなくてどんどんやめて行った。
 僕が今まで残ってこられたのは従来の負けず嫌いな性格のおかげだった。
 いくら周りが頑張りを認めてくれていたとしても、それが本人に伝わらなければ意味がない。

 僕はシールドを取り出し、エフェクターとアンプに繋いだ。もう一本取り出しエフェクターとギターを繋ぐ。エフェクターはいくつか連続してパッチケーブルで繋げており、アンプから出るギターの音を変えてくれる。
 アンプの電源を入れた。ベース、ミドル、トレブルと音域ごとの音量を調整する。適当にコードを弾いた。知っている曲のワンフレーズを弾いてみる。
 マイクのミキサーとパワーアンプに電源を入れた。ハウリングを起こさない程度に音量を調整し、マイクから声を出す。スピーカーから僕の声が聞こえた。喋っている時とは異なって聞こえる自分の声。
 好きなバンドの曲を弾きながら歌ってみた。もう歌うことには慣れている。何回も知らない人の前で歌った。
 ギターを弾いて歌うとその作業をすることに頭が働く。余計な事を考えずにすむ。気休めだ。でもその気休めに幾度となく助けられた。
 人間関係に、進路に、自分自身に、頭を悩ませる要因は多くある。
 それらを誤魔化して目を背けて生きている事も、わかっている。
 目標があれば、動き出せれば、ありもしない可能性を見つめるようにして僕は気がつけば遠くを見るように漠然と虚ろな視線を送っていた。

 不意にスタジオのノブがガチャリと動いた。スタジオのドアノブは通常のものとは少し違う。掴みを持って回さねばならず、少し開け辛い。誰かが入ろうとすれば大きく音が鳴り、すぐに分かる。
 僕はギターを弾く手を止めた。僅かに開いたドアの隙間からこちらを覗き込むようにして見覚えのある顔が姿を現す。
「すまない。来てしまった」
 涼子さんだった。
「涼子さん、早いですね」
 すると彼女はバツの悪そうな表情をした。
「悠子が仕事の用事で出てしまってな……。ついでだから私も一緒に出たんだ。少し早いから喫煙所のベンチで待っていたら声をかけられて連れてきてもらった」
 そこで涼子さんの顔の下から、野沢菜さんが顔を出す。
「ウチ、ウチが連れて来たねん」
「言わなくても分かるよ」
「おかげで寒い中震えなくてすんだ」
 涼子さんは少し笑うと、ふと真顔になって室内を眺めた。
「スタジオ、久しぶりだ」
 靴を抜いで中に入って来る。野沢菜さんもそれに続いてきた。野沢菜さんは室内に入ると扉を閉める。
 涼子さんはキョロキョロと視線を動かし、ドラムのフロアタムを指で叩いたり、アンプを眺めたりする。少しはしゃいでいる様にも見えた。
「ベースアンプ変わったんだな、ギターのも。新しいのが入ってる」
「予算が降りて機材の買いなおしがあったんですよ」
「いいなぁ。あと数年早かったらなぁ」
 涼子さんはオレンジ色のギターアンプを眺めたあと、ふと僕のギターに視線を止めた。
「シェクターだ。良いやつ使ってるんだな」
「涼子さんは何を使ってたんですか?」
「ん? フェンダーのジャズマスターだ」
「涼子さんも良いやつ使ってるじゃないですか」
「家で埃被ってるよ」
 彼女は僕のエフェクターのスイッチを勝手に入れたり切ったりする。昨日までの落ち着いた姿が脳裏にあったのでこんなささやかないたずらをする彼女は意外だった。
 ふと野沢菜さんを見ると、彼女は入り口の所で目を輝かせてこちらを強く見つめていた。
「どうしたの?」
 野沢菜さんはびくりと体を反応させた。
「い、いやぁ、そろそろ紹介とかしてくれてもええんちゃうかなぁって」
「え、自己紹介くらいしたんじゃないの?」
「いやぁ、それがまだで……。喫煙所降りたら女の人がおって、つい勢いでフォー研OGの方ですかって尋ねたらそうやって言わはるから……。自己紹介完全に忘れてたわ」
「うん、秀、そろそろ紹介してくれ。まだまともにお礼もしてない」
「紹介しなくても自分達で自己紹介してくださいよ。ほら、いま」
「いや、紹介してくれたほうが話しやすいというか」
「いい年して何言ってるんですか……」
 思わず悠子さんに出る様なツッコミが口から出てきた。ただ、涼子さんの申し訳なさそうなその表情を見ていると無下に断るわけにもいかない。僕は溜息をついた。
「えぇと、こっちのロングスカートの娘は僕と同じ三回生での野沢奈々さんです。皆からは野沢菜さんって呼ばれてます。で、こちらの女性が元フォー研OGの涼子さん」
 半ば投げやりのように適当に紹介すると、涼子さんと野沢菜さんは「よろしくお願いします」とおずおずと挨拶した。面倒くさい人種だ。
「さっきは助かった。ありがとう」
 涼子さんが笑顔で言うと野沢菜さんは慌てたように首を振った。
「い、いえ。いいんです。全然大丈夫です」
 涼子さんは視線を再びエフェクターに戻すと適当にメモリを弄りだした。せっかく音作りをしたのに、やめて欲しい。
 ふと視線を感じて野沢菜さんを見ると彼女は僕に向かって小さく手招きしていた。一体何の用だろう。
「涼子さんすいません。ちょっとだけギターお願いしていいですか。勝手に弄ってもらってて良いんで」
「いいのか?」
 僕がギターを手渡すと涼子さんは目を輝かせた。本当に分かりやすい人だ。実際人が演奏しているのを間近で見て弾きたくなったのだろう。気持ちはよく分かる。
 野沢菜さんのところまで行くと、彼女は外を指差した。一度出ようということか。
 スタジオから出たところで、野沢菜さんはくるりと振り向いた。
「ちょっとあんた、どういう事なん?」
「何が?」
「めっちゃ格好ええやんか、涼子さん」
「あ? あぁ、うん。そうだね」
「尋常じゃないよあの格好良さは」野沢菜さんはそこまで言うと、少し逡巡した後、続けた。
「実を言うとうちな、あの人に声かけたん、勢いじゃなくて、狙ってやねん……」
「どういう事?」全く意味が分からない。
「だからな、その、見た瞬間ビビッと来たと言うか、OGとかじゃなくてもええし、とりあえず声をかけてきっかけを作りたいなってな、そう思ってん」
「きっかけって……」
 何の、とは言わなかった。
「だからあんたにも、その、協力してほしいねん」
「涼子さんと知り合う為に?」
「知り合うと言うか、より深くお互いの事を分かり合う為のきっかけを作って欲しいんよ。変な頼みって言うのは分かってるんやけど、な? お願い。お礼はするし」彼女は両手を合わせて頭を下げる。
「一つ聞きたいんだけど」
「何や?」
「それは……恋愛感情、だとかそういう類の物?」
 この様な質問をするのは非常に勇気がいる。もしこれが僕の勘違いであるなら非常に馬鹿馬鹿しい質問になる。出来るなら野沢菜さんには「アホなん?」くらいのきつい一言を浴びせて欲しかった。そしてこの要らぬ心配を払拭して欲しかったのだ。
 ゆっくり顔を上げた野沢菜さんの頬は少しだけ赤かった。それは照れているように見えた。
「ちゃう、それはちゃう。うちは正常や。そんなん女の人を好きになったりなんかない……」
 語尾は少しだけ声が小さかった。否定しきれていないのが怖い。
「ほら、あんたもない? 同性の相手に対して何かビビッと来たこと。妙に気になって仲良くなってみたいって思う事」
「まぁなくもないけど……」
「やろ? うちが言いたいのはそう言う事」
 ただ、野沢菜さんが今涼子さんに抱いている感情は果たしてそれと同じだろうか。
「言いたいことは分かった。でも、涼子さんとはまだ知り合って間もないんだ。協力って言うには少し荷が重いかも」
「そ、そっか。それやったらしゃあないな」野沢菜さんはうなだれた。残念そうだ。「ごめんなぁ、変なこと言って」
「良いよ。じゃあ僕はスタジオ戻るけど、野沢菜さんも来るでしょ」
「あ、うちは少し下で煙草吸ってくるわ」
 少し沈んだ声を出すと、彼女は階段に向かって歩いていった。
 煙草吸い過ぎだろ。

       

表紙
Tweet

Neetsha