Neetel Inside 文芸新都
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 僕が扉を開けると、涼子さんはギターを弾いていた手を止めた。
「何の用だったんだ?」
「いえ、ちょっと……」僕は言葉を濁した。言うべきかどうか迷った。「……涼子さんが学生時代いかに人気があったかと言う事を垣間見てきました」
「……なるほど」納得したように頷く。「昔からそうだったんだ。友達として接していたはずなのに、いつの間にか相手には恋愛感情が生まれていた」
 恐らく野沢菜さんが涼子さんと接していたら、同じ結末に達するのではないだろうか。
「相手が男だったら良かったんですけど」
「まったくだ」涼子さんは苦笑する。「ただもう慣れた。今行っている専門学校でも似たような事が何度もあったし。おかげで友達は少ないがその分いい付き合いが出来てる。狭く深くって感じだな。自分の性にも合ってる」
「前向きですね」僕は笑うと、少し気になり尋ねた。「そういえば、専門学校って何の学校に行ってるんですか? 音楽系ではないですよね」
「美術系だよ。写真を専門に色々やってる。元々、人を撮るのが好きなんだ。学生の時にバイトして、そのお金で通ってる」
「へぇ、偉いですね」
「そうでもないさ」
 公務員や何か資格に繋がる学校だと思っていたので少し意外だった。涼子さんは自分なりに人生の設計像を建てている。着実に、確実に。
 涼子さんは立ち上がるとマイクの位置を調整した。ストラップの長さも調整して、ギターを自分に合う高さに持っていく。
「一曲歌ってもいいかな。久々に」
「もう歌う気まんまんじゃないですか」
 僕が笑うと彼女も「ばれたか」と笑顔になった。
「ちょっと弾いてみたが、やっぱり衰えてるな。指も柔らかくなってしまっている」
「仕方ないですよ。僕だって一週間弾いてないだけで衰えたなぁとか思いますもん」
「やっぱりそういうもんか」
 涼子さんはピックを使ってアルペジオを弾いた。一本一本、弦を確実に弾いて音を出す。弦の振動はシールドを伝い、エフェクターを通じてアンプから音を出した。緩やかな音だった。
 スピーカーから涼子さんの歌声が聞こえる。ギターの音にあわせて歌のメロディが綺麗に響く。涼子さんの歌声は高く澄んでいて、力強さはないものの、聞き入ってしまう魅力があった。
 抑揚のない短い歌を涼子さんは歌った。目を瞑って、楽しそうに。
 歌い終わると彼女はギターを肩から外し、近くにあったギタースタンドに立てかけた。
「歌ったのは久しぶりだ」
「まさか涼子さんが歌うとは思ってませんでした」
「ちょっと見学だけするつもりだったのに。久々に楽器を見たら妙に弾きたくなって、弾いていたら歌いたくなった」
 涼子さんは目を細めてギターを懐かしそうに見つめた。
「大学って、卒業したらそんなに変わりますか」
 気付いたらそう尋ねていた。急に妙な質問をしてしまっただろうか。
 でも涼子さんは表情を変えなかった。
「どうだろうな。私もまだ学生だからなんとも言えないけど、やっぱり懐かしくなることはあるよ」
「涼子さんは、今の専門学校を卒業したらどうするんですか」
「そうだな、どうするんだろう」
 涼子さんはそう言うとギターに対峙するように胡坐をかいた。
「どうする、じゃないな。どうなるんだろう、かな。正直言うとな、もうどうするかは私の中で決まってるんだ。私の両親は寛大な人だったから幸いにも私を自由にさせてくれているし、恵まれた環境にいるなら自分の可能性を追求しようかって思っている」
「可能性?」
「実を言うとな、海外に行こうと思ってるんだ。来週」
「えっ」
 えらく急な話だ。
「学校で知り合った先生が私の写真を気に入ってくれてな。その人の取材に同行することになったんだ。数年は向こうで生活する予定だよ。卒業して、上手く行けばアシスタントとして雇ってもらえるツテが作れるかもしれない。こっちに来たのもそれがきっかけだった。自分の思い出の場所をもう一度見ておこうと思ってね。元々部室に来る予定はなかったんだけど、秀が誘ってくれてよかった」
 なるほど。彼女がこちらに来た理由にようやく合点が行った。
「そうだ、カメラ持ってるから、さっきの野沢さんも含めて三人で写真でも撮るか」
「それは良いんですけど……悠子さんに会いに来たのもそれが理由で?」
 涼子さんは頷いた。視線はギターを向いたまま。
「……当分会えなくなるからな。悠子は間違いなく一番の友達だよ」
「その一番の友達に海外に行くこと言わなくて良いんですか」
「良いんだ。……まぁ言うタイミングを逃したって言うのが本当なんだけど」涼子さんは苦笑する。「言ったって心配かけるだけだし、二度と会えないわけじゃないんだ。時々日本に戻ってくるだろうし、タイミングが合えばまた会えるさ」
「二度と会えないかもしれない、とは思わなかったんですか」
「その心配がないといえば嘘になるな。でも、大学を卒業した時からその可能性はあった。卒業したら皆出身も仕事も生きる世界も異なってしまう。その中で大学にいた四年間、共に居れたという事はすごく幸せな事だったんだよ」
 その言葉はこれから先、僕が感じるであろう不安への答えでもあった。
「大切なのは同じ時間を過ごした過程が大事なんだよ。社会は結果が全てかもしれないけど、人生は過程が大切なんだ。もう以前みたいに一緒に居られないと言う事実は覆せない。だけど時を共にしたと言う事はこれから生きる上で糧になる」
 糧。その糧があれば、僕も彼女みたいにまっすぐ生きていけるのだろうか。
「涼子さんは失敗した時の事が脳裏によぎったりしないんですか?」
「あるよ。特に秀の時期は色々と不安だった。……元々は私も就職するつもりだったんだ。でも、迷いに迷ってこっちの道にした。両親が寛大とは言ってもやっぱりあの時はかなり揉めたよ」
「それでも写真の道を行こうと?」
「学生のうちはさ、社会人のことなんか全然分からなかったんだ。何も見えなかったし、見えていなくても見えた気になっていた。社会に出たら辛い毎日が私を待っていて、日々を生きるだけで必死になるだろうって漠然と思っていたんだ」
 その言葉に僕はハッとした。全く自分の抱いている感情と同じだったからだ。
 僕は大学を卒業するのが怖かった。卒業後の自分がどうなっているのかも分からないし、何をしているのかも分からないからだ。
 それはまるで、暗い海だった。先が見えない海に、小さな船で漕ぎ出す。抱いているのは、不安と恐怖だ。
「就職活動をいろいろやって、様々なものを見て、卒業が近づいて。結局分かったのは社会に出てからが本番だって言うどこかの大人が吐いたありきたりな言葉の意味だった。自分の人生を形作るのはこれからなんだよ。これから、色々な形で人生が別れてくる。そう思ったらやれるだけの事はやろうかなって。不安と言ったら今も不安だし、こんなことをしていて良いのかって頭を抱えそうになることもある。どうにかなる、で済むほど世の中簡単ではないことも知ってるつもりだ。それでも、やれば何だって出来るって私は信じている。自分の人生のハードルを上げてるのは他でもない自分自身なんだ」
「……もし、今僕が音楽をやり始めたとして、それは逃げだと思いますか」
 ずっと抱えていた事だった。それは昨日悠子さんには言えなかった事でもある。
 涼子さんはしばし迷ったように視線を這わせた後、神妙な顔で言った。
「もしほかに何もせずに音楽だけをと考えているなら、それは逃げだと思う。少なくとも私はそう思う。自分の可能性を色々漁って、出来ることを全部やって。自分の中の選択肢を最大限に広げるべきだよ」
「選択肢……」
「焦ることはない。……音楽をやるにしても、写真をやるにしても、自分のやりたい事が出来る保証なんてどこにもない。自分の気持ちは本物だと思っていたとしても、覚悟を伴っていない単なる思い付きかもしれない」
 覚悟。痛い言葉だった。今の僕が音楽を志すと言っても、それは単なる思い付きでしかない。少なくとも、それを指摘されて否定できる自信はなかった。
 知らないながらも、それでもなお、僕は現実を知りすぎていた。
「覚悟なんて言うのは答えを出さなきゃいけない時にはじめて固まるんだ。少なくとも私はそうだった」
 彼女は続ける。
「人と同じ生き方はダメな事じゃない。人と違う生き方をするのは決して特別じゃない。普通に生きるって事自体が大変な事なんだよ」
 涼子さんは僕の瞳をまっすぐに見据えた。
「秀の時くらいの私はたくさん勘違いをした。就職して、社会に入るって事は没落したも同然だって。でも、今思うと会社に入って仕事をしている人はすごいよ。少なくとも、自分が特別な存在だと勘違いしてたあの時の私よりはずっとずっとすごい人達だった。だから、秀にも色々見て欲しい。いろんな人達を見て、自分の見識をもっと深めて欲しい。答えを出すのはそれからでも遅くないんだ」
 僕は何も答えられなかった。

       

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