Neetel Inside 文芸新都
表紙

線の人
母親のシチュー

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 高校からの帰り道、手のひらを近づけてみると墨汁の匂いがした。どうして急に右手の匂いなんて嗅ごうとしたのかはわからない。意識よりも先に体の方が動いていた。もし何の匂いもしなかったら自分の動作に気づかなかったかもしれない
 冬の冷たい空気のなかに墨汁の濃い匂いを感じる。親指と人差し指の間にこっそり黒い染みがついていた。
 突然、ぺたん、という音が鼓膜を打つ。顔をあげると、小学生の男の子二人が水たまりを踏みつけていた。狭い住宅地のアスファルトに書かれた「止まれ」をスルーして、四つ辻の向う側へと駆けていく。
 光沢のある黒いランドセル、音もなく踊る給食袋、うらぶれたアパート、駐車場のひしゃげたフェンス、空き地の伸びきった草、まとまりのない視覚情報がドバっと私の目に飛びこんでくる。
 しかし、次の瞬間には私の脳は目の前の光景を遠ざけはじめると、数時間前の授業風景をたぐり寄せはじめた。黒い布の上に薄い半紙がのっている。五時間目に書道があったのだ。黒い染みはそのときついたのだと考えるのが妥当だった。
 いくら眠気を誘う給食後の授業とはいえ、手のひらに飛んだ墨汁に気づかないことなんてあるのだろうか。
 私は筆を滑らせるように動かした。どこにも墨汁が筆から離反する気配などなかったのである。
 記憶の景色が徐々に視界から剥がれ落ちはじめると、目の前に広がる景色に異変が生じていることに気づいた。
 駅から離れた住宅地に出来るには不自然なほどの行列が、狭い道路にどこまでも伸びている。
 静かな行列だった。騒がしい行列があるのかどうかはわからないが、住宅地の狭い道路にこれだけの人が並んでいるのに会話が一つもないというのも恐ろしかった。
 私は歩行を一定に保ちながら、彼らを横目に「いったいなにがあるのだろうか」と思考を巡らせた。
 平日の夕刻にも関わらず、並んでいる人間は千差万別だった。年季の入ったサラリーマンから、頭がわたあめになっている老婆、サッカーのユニフォームを着た少年など。
 統一感はなく、彼らが寒い風に耐えながらも欲するものに見当のつくはずがなかった。
 この時点では、冷静だった。
 ようやく見えた行列の先頭が私の家から発生しているのを知るまでだが。
 普段は閉まっている玄関のドアが、開け放たれたままになっている。行列はさらに家の深部にまで続いているらしい。
 いったいどういうことだろう。
 あまりの出来事に私は心の落ちつきをなくし、二階建ての家と表札を見た。しかし何度見ても、紛れもなくここが私の家だった。
 突然、甘ったるい匂いが鼻をついた。さっきまで気づかなかったのが嘘のように、家からは野菜と肉が煮こまれた匂いと、ミルクの匂いがする。シチューだろうか。
 はっとした私は行列を割り込むようにして、玄関に向かった。すみません、すみません、と謝りながら進んでいく私に、何人かが舌打ちをし、何人かが私のことを理解したようで、さっと体をどけてくれた。
 行列はリビングまでずっと続いていた。台所の近くにある食事用のテーブルには、見知らぬ男の人が四人座っている。最初は、男の頭から湯気が出ているのだと思った。四人は一心不乱に深皿の中のシチューを食べている。似たような光景を昔、アニメ映画で観たことがあったような気がする。
「おかえり」
 母親が私の顔を見て笑った。皺のついた口もとには白い液体が付着していた。母親の手には棒があってドロドロの液体をかき混ぜていた。コンロには、鯉が暮らしていけるほどの大きな鍋があった。煙が換気扇にのぼっていく。
「なにやってるの」
 私の口から勝手に言葉が漏れた。
「なんかね、みんな、お母さんのシチュー食べたいみたいなの」
 母親は額の汗をぬぐいながら言った。足元にはシチューの箱が山のように積まれている。そこから母親の重労働ぶりが知れたが、表情を見るとまんざらでもなさそうだった。
「ごちそうさん」
 一人が席を立った。
 母親は新しい深皿にシチューを取り分けていく。もう娘のことなど眼中にもないようだった。空白の席には、すぐさま新しい客人が座る。
 永遠に終わることない喜劇映画を見ているようだ。
 私はリビングからさっと引き返すと、近くにいた見知らぬ人にぶつかることも厭わず、階段を駆けのぼった。
 自室の前まで、亡霊のようにシチューの匂いと食器をこする音がついてくる。
 私は乱暴にドアをしめると、鞄をそこらに投げ捨て、ベッドの上に自分の体も投げた。
 柔らかい衝撃が私を包みこむ。一瞬、墨汁の匂いがした。
 静寂を取り戻すために私は瞼をおろした。


 いつの間にか眠りこんでしまったらしい。
 目を覚ますと、薄闇の中に白い天井が浮かんでいる。お腹の辺りが少し寂しかった。ベッドから落とした右腕でカーペットの感触を何度も確かめていると、そのうちにバランスを崩して自分ごと落下した。
 冷たいドアノブをゆっくりと回す。
 階段を中ほどまで降りていくと、見知らぬ人が立っていてぎょっとした。しばらく壁に手をついて眺めていると見知らぬ人は歩きだし、後ろから新しい見知らぬ人が出てきた。
 行列が出来ていることを思いだし、頭を軽く下げるだけ下げて、すり抜けるようにリビングへ向かった。母親はまだシチューを作っていた。額には汗が浮かんでいる。
 もう七時になるというのに人が途絶えることがない。カーテンをめくって窓の外を見ると、判決を待っている死人たちのような長い行列があった。
 冷蔵庫から冷凍のスパゲッティを取り出すと、電子レンジに入れた。
 私の席はなくなっているので、ソファーに座りながら麺を口に運ぶ。
 なるべく台所の方は見ないようにした。
 それでも食器の擦れる音、呼吸音、他人の気配がうるさい。
 テレビをつけた。笑い声がスピーカー越しに響く。私は黙々とフォークを動かして口に運んだ。
「そんなのダメよ、身体に悪いわ」という声が聞こえてきた。しかし、こっちまで来て注意する気はないらしい。
 食べ終わるとリビングから出ようとした。ちょうどそのとき、客人も立ちあがり退席しようとする。私はなんとなく行動の優先権を渡し、立ちどまった。
 それからここが自分の家であることを思い出し、ムッとして母親の方を見た。しかし、母親の視線はシチューに注がれていた。
 私はリビングから出ると、階段の音を強めに響かせた。


 数日経っても母親のシチューを食べにくる人は絶えなかった。母親はいつ睡眠を取っていたのだろう。
 台所に立っていない母親を見ることがなかった。玄関も、リビングも、階段もシチューの匂いで充満していた。
 慌ただしく台所とテーブルを行き交う母親の顔を楽しげだった。数年前に父親を亡くしてから、こんなふうに母親が笑うのは珍しいことだ。
 それを見ると何かを言う気にもなれず、私はできるだけリビングに近づかないようにして自室に引きこもった。シチューの匂いで汚されていない唯一の場所だった。
 母親がシチューに付きっきりになることで、私の食生活も変わった。
 学校の帰りにコンビニでパンを買ってくることが多くなった。
 行列に並んでまで母親のシチューを食べたくはなかった。そもそも食べるよりも前に匂いでうんざりしていたのだ。
 私は徹底的に行列を無視して、自室に引きこもったり、友人と遊びに出かけて時間を潰した。
「大丈夫、気分でも悪いの?」
 友人からは何でもないときにそう言われることが多くなった。
 気づくと自分の手のひらを鼻先へと持ってきていた。口を塞ぐような形になるから体調不良を疑われたのだろう。黒い染みはとうに薄くなっていたが、墨汁の匂いはいつまでも強く棲みついていた。
 いつも行動よりも匂いの方が先に来た。時と場所を選ばす、私の右手は勝手に動いた。まるで皮膚の一片についた黒い染みが、自分の存在をしめすために体を操っているかのようだった。

 カレンダーの破り捨てられる音が何枚も響き、母親のことを「シチューの人」としか認識しなくなったころ、町の風景も次第に変化が訪れるようになる。
 行列は相変わらずだった。増えることも減ることもなく、住宅地に一定の線を描いている。
 変わったのは町にある店だった。何軒かの外食店が潰れた。個人経営のラーメン店は、コンビニになっていた。
 最初はとくに気にもとめていなかった。しかし、一気にどんどん潰れていく店を見ていくと、母親のシチューのせいとしか思えなかった。
 町に影響が出始めていることを、私は驚いた。驚いたあとで、当たり前だと考え直す。相当の量の人間が母親のシチューを食べるために並んでいるのだ。
 ならどうして、まったく母親のシチューの話題が出ないのだろう。こんなに行列が出来ていれば、教室の中で他愛ない会話にのぼってもいいはずだった。
 日常生活において私は一度も母親のシチューの話を聞かなかった。私は自分の見ている行列が亡霊のように感じて、いつの日か死人の列のようだと思ったのは間違いではなかったのかもしれない、と考えた。
 家にいれば、家の近くであれば、行列によって母親のシチューが存在していることがわかる。だが、離れてしまうと駄目だった。
 私は周りの人をよく観察するようになった。一言でも話題になっていないか、耳の神経を集中させた。
 人の手に注目するようになった。体のどこかに白い痕跡が残っていないのか探すためだ。顔や、腕についててもおかしくないのに、私の目は真っ先に手に向くようになっていた。
 はっきりとした証拠は見つからなかった。
 聞けばよかったのかもしれない。ただ、聞いて「なにそれ」と言われるのが怖かった。

 人の手を見る癖は高校を卒業して、町を離れていってからも変わらなかった。寮に住んで大学に通うと、本当にあの行列は幻のように思えた。段々と思い返すことも減っていった。実家には帰らなかった。
 就職して一年目の秋に夫と出会った。電車のなかだった。つり革とは反対の鞄を持っている手の甲に白い染みを見つけたのだ。
 母親のシチューであるはずがないのに、私の心臓はうるさく鳴り響いていた。
 私の視線に気づいた彼が、恥ずかしそうに「ああ」と笑った。
 これ修正液です。寝ぼけてて。
 寝ぼけて手の甲に修正液がつくのだろうか。私にはわからなかったが、そのまま会話が続いた。何を話したのかは記憶にない。
 ただ、窓から川が見えたのは覚えている。太陽に照らされて、白い光がたくさん輝いていた。


「何してるの?」
「見てる」
「何を?」
 私は夫の問いかけに答えないで、ベランダの手すりに体をあずけ、七階のマンションから景色を眺めていた。
 生まれ育った町並みが広がっている。
 どういう因果なのかはわからないが、また戻ってきた。実家の近くのマンションを借りた。条件に適うところはそこしかなかったのだ。散々探し回って疲れていたというのもある。
 母親のシチューのことは半ば忘れかけていた。というより忘れようとしていたのかもしれない。
 しかし、実際にこうして行列を見てしまうと、母親のシチューが存在していることは疑いようになかった。
 夫には両親とも死んだと嘘をついている。
「また右手の匂いをかいでる」
 と指摘されて、自分が右手を顔に持ってきていることに気づいた。さすがにもう痕も匂いもないが、感じられないだけで実際には黒い染みがあるような気がしてならなかった。
「何か作ろうか」
 私はそう呟いて、部屋に引き返した。
 
 来る日も来る日も、ベランダに出ると行列が目についた。私は起きると行列を見るのが日課になっていた。
 やはりというべきか、母親のシチューのことが私の耳に入ることがなかった。
 試しに夫には聞いてみたことがある。
「あの行列? それがどうしたの?」
 当たり前のように言われて、それ以上深く聞けなかった。
 町はところどころ変わっていた。空き地だったところが住居になっていたり、国道沿いに新しくスーパーが出来ていたりした。
 マンションから比較的近く、行列と接することがないというのもあって、私はよくそのスーパーで食材を仕入れた。
 幸いなことに私が作る料理で誰かが訪れることはなかった。私はきっかり二人分だけを作った。どんなに面倒でも明日に持ち越させることはなかった。
 国道からスーパーの入り口まではそれなりに歩かないといけず、建物沿いにはリサイクルコーナーと自動販売機があった。今日はその隣に屋台があって、ソフトクリームとかき氷が売っている。
 子連れの母親が並んでいた。
「汚いでしょ。やめなさい」
 大きな声が聞こえてきて、私は顔を向けた。
 まだ小さい男の子の姿があった。暑さのせいで手に持っているソフトクリームが溶けてしまったらしい。白い液体が流れるように、日に焼けた腕を伝っていた。男の子が追いかけるように舌で舐めていた。
 静かに、だけど確実に、心音が速くなった。
 スーパーに入った私はカートを掴まえながら、ああいうことが私にも幼い時にあったのではないかと考えた。
 何かを手にこぼして、それを舐め取ろうとして怒られた。だから私はあの冬、学校の帰り道、急に右手を顔に持ってくるなどしたのではないか。墨汁の匂いを見つけてしまったのではないか。
 しかし、いくら考えてもそんな記憶なんてなかった。
 カートが何かに引っかかる感触があった。
 棚から物がいくつも落ちてしまっている。拾ってみるとそれはシチューの箱だった。棚を見ると、ぎゅうぎゅうに押しこまれている。
 落ちたものを戻すのも大変そうだった。
 私はしばらく見つめて、それからカゴのなかに落とした。


 家に帰ってきた私は、買い物バッグからシチューの箱が出てきて少しだけぎょっとした。
 自分で買ったことを思い出し、冷蔵庫の横にある棚にしまった。
 戸を閉めると、箱のロゴがうるさく頭のなかに浮かんできた。
 この棚にある限りは、墨汁の染みのようにシチューの箱が消えることはないことはわかっていた。
 何らかの方法で処理しないといけない。
 視線が真新しいキッチンに向かい、それから窓の方へ移動した。カーテンが白く光っている。電気をつけていないことに気づいた。真夏の太陽は角度が高く、光が部屋にまで届かない。辺りが暗いということさえ私は認識していなかった。
 変な声が口から漏れた。
 急に何もかもが面倒くさくなった。
 私はシチューの箱を取り出すと、窓を開けてベランダに出た。
 そのまま投げ捨ててやろうと、振りかざす。
 しかし、できなかった。
 行列がなくなっていたのだ。
 まるで何事もなかったかのように、普通の町並みの光景が広がっている。太陽はアスファルトを焼いていた。歩行者はいれど、行列の気配なんてない。
 すべては幻のように消えてしまっている。
 母親の身に何かあったのかもしれない。
 私はマンションを出ると、実家に急いだ。もう二度と、あの場所に足を踏み入れるつもりはなかったのに、体が勝手に動いていた。
 四ツ辻のところまで来ると、ふと高校生のころに戻った気がした。自然と足がとまる。草が生えきった空き地はそのままだし、駐車場のひしゃげたフェンスは修理された様子がない。
 右手を近づけて、息を吸い込んだ。
 夏の匂いがした。冬の匂いじゃないことが少しだけ残念だった。
 ゆっくりと歩き出す。行列のない道路は新鮮だった。
 私の家の前までやってくる。
 玄関は開け放たれていた。なのに、人の姿はない。
 私は靴を脱ぎ、リビングに向かった。
 台所には、所々に白髪の生えた母親が立っていた。鍋の前で困ったような表情を浮かべている。無事だったことにホッとする。
 シチューの匂いではなく、もっと香ばしい匂いが漂っていた。
「あら、おかえり」
 私に気づいた母親が驚いたように言った。
 ただいま、と言おうとしてやめる。視線を外してテーブルを見ると、四つのお皿はどれも手がつけられていなかった。
「ちょっと様子を見に来ただけ。……どうしたの、これ」
 母親が恥ずかしそうに笑う。
「今日は、カレーを作ったんだけどね、まだ誰も来ていないの」
「そっか」
 少し間があった。
「よかったら食べてく?」
 ん、という声が私の口から出た。
 色々な言葉や感情が渦巻いていた。どれ一つも形にならないまま消えていく。母親はやさしそうに微笑んでいた。
「そうしようかな」
 結局、私はテーブルに座ると、母親のカレーを口のなかに運んだ。普通のカレーだった。どこにでもあるような味で、とくに変わったところはない。でも、舌が覚えていた。
「おいしいよ」
 私はカレーに目を落としたままそう呟いた。おいしい。
 よかった、という声が聞こえてきた。

       

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