Neetel Inside 文芸新都
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線の人
彼女がこない車の中

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 たまたまバックミラー越しに口裂け女を見た。俺は車の助手席に座って彼女がアパートから忘れ物を持ってくるのを待っていた。もうかれこれ三〇分近く彼女は彼女のアパートに入ったまま出てこなかった。だから俺も車から出られないままバックミラー越しに口裂け女を見るしかなかった。
 口裂け女は夜道の真ん中に立っていて、スマートフォンをいじっていた。ゲームでもやっているのだろうか。かなり熱中しているようだ。しかしすでに一人は餌食にしたようで彼女の足元には血と肉片が転がっている。安物のビーチサンダルを穿いていた。近くにしまむらがあるからそこで買ったのかもしれない。
 唐突に口裂け女がスマートフォンをしまった。というか食べた。大きな口の中に入れたのだ。
 確かに口裂け女は白いワンピースを着ていて、どこにもポケットがないような感じだった。だからといって口に入れるのはどうなんだろうか。衛生的にも防水的にもよくないのではないか。
 俺は思わず前のめりになってバックミラーを凝視した。さっきよりも頬の辺りがふっくらとしている。
 前方から車がやってきた。近くに停まる。清掃業者のようだ。口裂け女の足元にある血や肉片を掃除している。
 なるほど。ゲームではなく清掃業者を呼んでいたのか。彼女がそれなりの綺麗好きであることはさらさらとした黒髪からも容易に想像できた。
 住宅地を抜けて国道へと出ると、少し大きい銭湯があったはずだ。あそこの愛用者かもしれない。値段がかなり手頃なのだ。岩盤浴セットで千円を切る。料理はあんまり美味しくない。手を抜いている感じだ。
 そんなことを考えていたらお腹が空いてきた。俺は前の収納ボックスみたいなところを開けてみた。平井堅のCDが入っていた。しかもかなり昔のものだった。まばゆい光の中で自転車に乗った平井堅が穏やかに微笑んでいる。
 服が同じだ! V字ネックの灰色っぽい服はいま俺が着ているものと瓜二つだった。どこで買ったんだろうか。確か彼女が誕生日にプレゼントしてくれたものだ。本当は俺はマリオカートがよかった。マリオカートが欲しかったのだが言えなかった。いや、そんなことはどうでもいい。彼女は俺を平井堅にしようとしているのだろうか。しかし俺の顔は薄かった。
 バックミラーを見ると、清掃業者のおっさんが口裂け女に新品のマスクを渡しているところだった。
 何か欠けていると思ったらマスクか。マスクをつけた口裂け女は頭を下げて清掃業者を見送ると、道路の真ん中に立った。
 口裂け女は頭を大きく二回振った。ヘドバンだろうか。口裂け女は屈んで何かを拾い上げた。驚いたことにスマートフォンだった。
 俺は頭を働かせなくてはならなかった。おそらくヘドバンだと思ったあれは単なる咳で、その拍子に口に入っていたスマートフォンが地面に落ちたのだろう。
 だからそんなところに入れるなと言ったのに。いや言ってない。言ってなかった。
 口裂け女はスマートフォンについた汚れを払っていた。ルービック・キューブでもしているのかというくらいに回転させている。
 どうやら壊れてはいないらしい。しかし口裂け女はスマートフォンの置き所に困っているようだった。近くの塀に立てかけては首をかしげ、また手元に戻している。それが五分くらい続くにつれ、さすがに見ている方も苛々としてきた。
 いっそのこと預かってやろうかと車から出ようとしたとき、口裂け女の動きがピタリと止まった。
 口裂け女ではない人影が見える。もしや獲物が現れたか。
 女の人であるようだった。どことなく口裂け女に似ている。いや、口裂け女だ。新しい口裂け女は目尻がちょっと垂れているようだ。どことなく優しげに見える。
 二人は何か話したあと、もとの口裂け女の方がスマートフォンを片手に去っていった。新しい口裂け女が道路の真ん中に立つ。
 シフト制なのか。知らなかった。
 車のドアが開いた。彼女が乗りこんでくる。ごめん待った? テレビつけたら、ちょっとおもしろい番組やってたから見てた。
 俺は口裂け女を見てたよ、とは言えなかった。その代わりにこう尋ねた。
 もしさ、鞄もポケットもない状態でスマートフォンを持っていたら、どうする?
 彼女がシートベルトを締めながら言った。
 脇かな。脇ではさむ。
 なるほど。脇か。それは盲点だったなあ。
 彼女が車を発進させた。バックミラーに映る口裂け女が遠ざかっていく。退屈なのか屈伸してた。

       

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