Neetel Inside 文芸新都
表紙

線の人
知らないお婆ちゃん

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 誰もいない家の中から、すえこ、ってわたしの名前を呼ぶ声が聞こえてきて、ああこれはヤバイんじゃないかなって思ったけど、わたしは昨日録画したドラマの七話を見るのに忙しくて、反応してあげられる余裕がなかった。
 無視していたら、すえこ、ってまた聞こえてきて、呻き声も混じっていたからたぶん悪霊の類いだと思う。でもそういうので、きょえーって驚くくらいなら主演俳優にきゃーきゃー叫んでいた方が楽しいし……ドラマはドラマで「え? あの人が実は敵だったの?」的な王道展開を迎えていて、わたしはソファーでカビゴンみたいになりながらぽたぽた焼きをぽたぽたさせていた。
 ドラマが終わったら急にむなしくなった。帰ってきてからリビングに放り投げっぱなしだった学校の鞄を持って、二階へと行こうとする。急にさっきのすえこが気になり始めた。
 結局すえこ現象は二回で打ち止めになっていて、夢中になってテレビを見ているうちに忘れていたのだった。
 一回気になると原因を突き詰めないと気がすまない研究者タイプのわたし(というか宿題やりたくない)はちょっと調べてみることにした。
 なぜかソファーの周りだけ散らかっているリビングを歩き回り、スマートフォンに表示させた稲川淳二の顔を四方八方に見せつける。稲川淳二がよくテレビで言っているトゥギャザーしようぜを口ずさんでいたら、襖がぴしっと閉まった和室の向こうから物音がした。
 恐る恐る襖の取っ手に手をかける。少しずつ引くと、暗い和室の真ん中に一式の布団が敷かれていた。お餅みたいにぷっくら膨らんでいる。誰かがおねんねしていることは明らかだった。
 でも誰だろう。父は会社だし、母はパートだし、妹は生まれてないし、妄想の兄は悪魔ルシファーからわたしをかばって死んでいる。
 すえこ、という声がまた聞こえてきた。体がびくってなった。
 近くで聞くと、声はしわがれていて、それなのにはっきりとしていた。
 やばいやつだとわたしは思った。小学生のとき学校の手前でランドセルを背負っていないことに気づいたあのやばさだ。
 脳内会議が繰り広げられる。
 どうする。どうしますか。死ぬの。わからん。死ぬんちゃう。やられるまえにやっちまうのはどうでしょう。寝てるし。寝てるね。一気にやったら倒せるんじゃないかな。よし、やるか。
「うおりゃああ」
 わたしは和室をドタドタ走り、寝ている顔に向かってスマートフォンを叩きつけようとした。
「危ないわ!」
 しわくちゃの顔に埋まっていた目がばんっと開く。布団からさっと出てきた右手にスマートフォンを奪い取られた。
 唯一の武器を失ったわたしは呆然としてその場に立ちつくす。
 布団で眠っていたのはお婆ちゃんだった。ウィキペディアのお婆ちゃんの項目に写真が載ってそうなくらい標準的なお婆ちゃんだ。顔は皺だらけで、頭は真っ白になっている。
 お婆ちゃんは、上半身を起こしてスマートフォンの画面を睨みつけていた。それからわたしを見る。
「危ないやろ。おまえ、いきなりスマホを顔に叩きつけようとして。引くわ。マジで引く。ってかなんで画面が稲川淳二やねん」
「えっと、ほんと誰ですか?」
 わたしの祖父母は全員死んでいるはずだった。しかもこんな中途半端な関西弁を使うお婆ちゃんが親戚にいるとは思えない。
「すえこ、あのな、すえこ」
「……はい」
 呼ばれたわたしは素直に返事をした。布団の横で正座をする。
「おまえ、いきなり稲川淳二の顔が高速で接近してくる気持ちわかるか?」
「でも」
「稲川淳二もわしも目ガン開きやで。どんなボーイミーツガールやねん」
「それはわからないですけど、友達がヒカキンにはまっていてヒカキンの動画をわたしに」
「どうでもいい! それはマジでどうでもいいわ。もっと年寄りを敬えよ。いきなりスマートフォンを顔面に叩きつけようとしてくるなんて聞いたことないからな」
「だって、ほんと誰なんですか? 初めてですよね? わたしたち」
 魂が出てきそうなくらい大きなため息をお婆ちゃんはついた。
 悲しそうな顔を浮かべている。
「自分の祖母を忘れるくらい馬鹿になったんか、おまえは」


 パートから帰ってきた母に事情を説明した。
「え? ずっとお婆ちゃんは家にいるでしょ? それより夕飯を作らなきゃ。ナスが安かったから麻婆茄子だよ」
 仕事から帰ってきた父に事情を説明した。
「何言ってるんだよ。自分のお婆ちゃんも忘れたのか。名前? よしえだろ。お婆ちゃんの名前なんか知ってどうするんだ」
 わたしにはもう何が何だかわからなかった。
 絶対に昨日までお婆ちゃんがいなかったって言い切れる。だってそんな記憶がまったくないのだ。
 記憶喪失? でもそんなに都合よくお婆ちゃんのことを忘れるなんてあるのだろうか。
 食卓にはわたしの嫌いな麻婆茄子。
 テレビにはさっき見たドラマの七話が流れていた。父が食いつくようにテレビ画面を見ている。
 いまは家族三人テーブルに集まって食事中。
「まさかこのなかに裏切り者がいるとは思わなかった」
 ドラマを見ていたら、ひとりごととごはん粒がぽろりと落ちた。
「おい、すーちゃん。ネタバレか」
「あ、ごめん」
「佐々木だとは思わなかったわよね」
「おい、母さん」
「あら、ごめんなさい」
 まあでもあいつは怪しいと思っていたけどなあ、と父がつぶやきながら味噌汁のお椀に口をつけた。
 ふふふ、と勝手に笑い声が出てくる。
 こうしていると、お婆ちゃん、いや、よしえが存在していないみたいでいい。きっとたぶんみんな何か勘違いしているのだろう。
 すえこ。
 なのに襖の向こうからわたしを呼ぶ声が聞こえてきた。今日だけでわたしはわたしの名前を嫌いになりそうだった。
 箸を置いて、襖を開ける。光に満ちたリビングとは違って、和室は真っ暗だった。白い布団がもぞもぞと動いている。
「……なんですか」
「すまん。水を頼む」
「……はーい」
 わたしはコップを持って水道の蛇口を思いっきりひねった。水しぶきがわたしの手を濡らす。
 和室に入ると饐えた匂いがした。腐った林檎みたいな匂い。
 上半身を起こしていたよしえにコップを渡した。よしえは震える手で掴むと、歪な形をしている喉仏をぐいぐい動かして、一気に水を飲み干した。
「すえこ、ありがとうな」
 くしゃくしゃの笑みを浮かべたよしえにお礼を言われる。ガラス玉みたいに透明な目をしていた。
 それに吸いこまれるようにわたしの口から言葉が出た。
「わたしがおかしいんですかね」
「すえこがおかしいなんてことは……まあ少しはあるけどな、別におかしくなんてないだろ」
「わたしのお婆ちゃんは二人とも死んでいて、わたしは写真を見たこともあるんですよ。もっと、顔がシュッとしてましたよ」
「それはわしの顔がでかいと言っているのか?」
「2Lサイズだとは思いますが、そうじゃなくてですね、やっぱりおかしいのはあなたの存在の方だと思うんです。知らないですもん」
 よしえが悲しそうな表情を浮かべた。
 わたしは目を逸らして枕を見ていた。白い毛が幾つもこびりついていた。
「そうか……」
 よしえはそう呟いたきり黙ってしまった。
 わたしはぺこっと頭をさげて、その場を立ち去ろうとする。
「あのな、すえこ」
 背中に声がかかった。
「わしは顔が大きいんじゃない。モデル体型なだけだからな」
 わたしは思わず振り返った。
 よしえがドヤ顔で、自分の上半身を見せつけていた。ドラえもんみたいだった。
「ぜんぜんモデル体型じゃない……」
 わたしの口から小さな笑いが漏れた。それから、慌てて顔を元に戻して和室から出た。


 学校から帰ってくると、必ずよしえがわたしのことを呼んだ。わたしはできるだけ無視しようと務めた。
「あーあーあー」
 と言いながら耳を抑えて階段を駆けあがる。
 自分の部屋にこもっていても、すえこ、という声がなぜか聞こえてきた。それが切迫したものに変わると、よしえが苦しんでいる姿が浮かんできて、しぶしぶわたしは襖を開けるのだった。
 和室は真っ暗で、よしえはいつも寝ていた。
「電気つけないんですか?」
「眩しいの嫌いやねん」
「変な呻き声出すのやめてくれません?」
「呼んでも来ないからや」
 はぁ、とため息をつく。
 よしえは知らないお婆ちゃんで、だけどわたしのお婆ちゃんっていうことになっていて、やっぱりよしえがわたしたち家族を騙しているのだと思う。
 その証拠によしえが何か食べるところを見たことがなかった。いつも水だけ。その水をわたしに持ってこさせる。
「うまいなあ。すえこ、ありがとうな」
 そして一気に飲み干すと、心の底からという感じで感謝されるのだった。よしえの笑顔を見ると胸がモヤモヤとしてしまう。自分の体内の空気が、排気ガスにでも変わったみたいだ。
「んー……」
「なんや、すえこは何か悩みでもあるのか」
「悩みはあなたですけど」
「わしみたいな美女になりたいか。わかるわ。わしもわしじゃなかったらわしみたいになりたいもんな」
「違います」
「そうやな。好き嫌いせえへんことやな。いっぱい野菜を食え。それで無理そうだったらちょっと顔をいじれ」
「整形ですか」
「整形や」
「身も蓋もないなあ。そういうのって心を綺麗にするとかそういう話じゃないんですか」
「性根はそう簡単に変わらん。それにだいたい美女は悪いやつやろ歴史的に」
「じゃああなたも悪いやつということ……」
 はっとして口を閉じた。よしえが美女であることを認めるような感じになっていることに気づいたからだ。
 よしえは満足そうにニヤニヤとしていた。
「そうやで、わしは美女だから悪いやつなんや。照れるな」
「美女はさておき、あなたは悪いやつです。わたしは騙せません」
「すえこ。よーわしを見ろ。寝たきりのババアだぞ」
「そうですけど」
「どこが悪いやつやねん。この顔を見ろ」
「うふふ。やめて」
 よしえがお金を食べる貯金箱みたいな顔芸を披露した。壁に猿の顔がめりこまれているような表情。口がもぞもぞと動いている。
 あまりの不意打ちにわたしは笑ってしまった。ひとしきり笑い終えると、何の話をしていたのかわからなくなり、頭を抱えながら和室から出た。


 わたしのToDoリストによしえが加わってから一月ほど経った。いつか牙(入れ歯)を向くだろうよしえはいまのところはおとなしい。恐らくわたしが賢すぎて手も足も出ないんだと思う。わたしのIQは平均偏差値の二倍!もあるのだった。
 よしえが何か目的があってこの家に来たことは間違いない。寝てばかりだし、変な雑談ばかりだし、ぜんぜんよしえの目的がわからないけど。
「すーちゃん、最近お婆ちゃんと楽しそうだね」
 和室から出ると、母が夕飯を作っているところだった。小気味いい包丁の音がする。
「楽しくないよ」
「でも、よく笑い声が響いてるわよ」
「そんなことないって……」
 わたしはそう否定したけど、思い返してみるとなんやかんやわたしはよしえに笑わされていた。話術、顔芸、舞踊、よしえはこの三つを巧みに使いわけて、わたしにオモシロを提供していたのだ。
 これってあれじゃないかな。本で読んだことがある。オペさんのなんたらしょうが漬けってやつ。ご褒美与えて行動を操るんだ。
 わたしを懐柔させて、それからパクリと食ったり、殺戮しまくったりするんじゃないかな。
 よしえが父や母と仲良くしているところを見ていない。それは洗脳が完了しているからだと思う。
 わたしがやられたらこの家は終わりだ。
 どうにかして正体を暴いて追い出さないと。


 わたしはできるだけよしえと距離を置くことにした。笑ったり楽しそうな表情をしないようにした。相槌もストップウォッチの早押しみたいに「はいはい」って言ったり、水を置くなり和室から転がり出てテーブルの脚に頭をぶつけたりした。
 よしえは悲しそうな顔をして、そのうちわたしをあんまり呼ばなくなった。
 わたしは、大好きだったドラマもなんだかつまらなくなって、自分の部屋でごろんとすることが多くなった。
 床に寝転んでいると、天井の蛍光灯が目に入ってくる。よしえが毎日見ている光景だった。ひとりのときのよしえの姿が浮かぶ。
 あれだけ元気なのだから、こっちへ来て一緒にご飯を食べることもできるはずだった。
 でもよしえは和室から一歩も出ようとしなかった。
 毎日わたしのことを呼んでいたときも、せいぜい一日に一回か二回くらいだった。わたしと話していないときはひとりで、こんなつまらない天井なんか見てるんだ。
 わたしは起きあがった。階段を駆けおりる。
 襖をゆっくりと引いて、暗い和室の中へと入った。何かが腐ったような匂いがしている。
 畳の真ん中にある布団でよしえが寝ている。前より元気がなさそうだった。顔を起こそうともしない。
「すえこか」
 それでもわたしを見ると少しだけ微笑んだ。
「わしはもう長くない」
 そんなことないよ、と言おうとしたけどよしえの体は前より痩せていた。
「そろそろわしの正体を話すときやな」
 そう言って、よしえは語りだした。
「わしはな、実は宇宙人やねん」
 わたしの頬が勝手に緩んだ。
「わしの住んでいたところではな、老いてよぼよぼの宇宙人はほとんど相手にされへんねん。みんなひとりや」
「へえ」
「それでおもしろいサービスがあってな、わしの星では地球文化が流行っているし、地球の老人がいない家にお爺ちゃんやお婆ちゃんとしてあがりこんで、介護してもらうっていうのがあるんや。記憶を操ってやさしくしてもらうっていうな」
「へえ」
「わしはそれやねん。死にかけの宇宙人なんや。それで頼んで一人だけ記憶を……って、すえこ、めっちゃ笑っとるやん」
「さすがにもう騙されないよ、お婆ちゃん」
「そうか。そうやな。さすがわしの孫や」
 よしえが嬉しそうに笑った。
「いまどき宇宙人はないなあ」
「わしはめっちゃスタイリッシュな宇宙人なんやで」 
「タコみたいな?」
「タコとイカとイルカみたいな感じやな」
「歩いている姿見たい」
「……見せたいけど、もう無理やな。すえこと話せてよかったわ。まっさらなすえこと話せてほんとよかったわ」
「わたしも考えたんだ。お婆ちゃんが何者だとか……」
 言葉を途中で飲み込んだ。よしえの瞼がおりていた。かすかな寝息が聞こえてくる。わたしは音を立てないようにゆっくり和室から出た。
 

 よしえが死んだのはそれから三日後のことだった。死体は火葬された。よしえは白い骨だけになった。
 葬式には知らない人ばかり集まっていて、知らない人が泣いていて、知らない思い出話が渦巻いていた。
 お寿司を食べて、少しだけお酒も飲んだ。
 家族が揃った帰りの車のなかでわたしは眠った。何もかも夢のようで、ただ振動だけがリアルだった。振動が骨を揺さぶる。

       

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