Neetel Inside ニートノベル
表紙

ゴマン・トイルの冒険
まとめて読む

見開き   最大化      

 ゴマン・トイルは下等訓練校でもあまり目立たない子供だった。
 成績はもちろん、運動も、歌も、おしゃべりの上手さも、全部中の下。人気者ではないが、憎まれてもいない。大人たちからの評価もめでたからず、悪からず。この国には珍しい真っ黒な髪の毛の他には、これといった特徴のないいかにも地味な少年であった。
 秀でたところを挙げるとすれば、新しいイタズラや、遊びを考案することが得意というところと、仲間うちの仲裁をするのが抜群にうまいというところだ。村の少年グループのリーダー格ではなかったが、皆からは一目置かれていた。
 もちろん、だからといって国立検地所登録訓練生に選ばれることはなかったし、昇級試験の受験資格を得ることもできなかった。そもそも、はじめから受かるわけがないと諦めて、そのための試験対策すらしていない。下等訓練校を卒業したあと、トイルは村の商人の家に下働きとして世話になることに決まっている。

 トイルたちの世代は第7教区始まって以来の黄金世代と呼ばれていた。トイルの村を含む第7教区全体で例年の倍に上る6名の中等養成所への昇級者を出したばかりでなく、なんとそのなかの1人の少女が国立検地所登録訓練生に選ばれたのである。彼女は中等養成所を飛び級して、高等養成所に所属し、徹底したエリート教育を受けることになる。
 これは第7教区の人口から見れば奇跡ともいうべき快挙で、この登録訓練生を輩出した功績として、出身の村には素晴らしい栗毛の馬四頭と、副賞として五年にわたる税金の一部免除が認められ、また第7教区全体に対しても一部債務の免除が認められた。要するに少女はすでにして地元の大英雄になっているわけである。
 この免税特権は高等調査員養成所に入所できたものすべてに与えられるものだから、その他5名の中等養成所昇級者全員もまた、今後地元の英雄となる可能性はあるというわけだ。
 彼ら合格者たちはさらに一年間の予備期間を第7教区の訓練所で過ごした後、中央に出向き、そこで中等訓練所に入ることになる。
 華々しい期待の星の影には、しめった地面にへばりつく雑草が無数にある。ゴマン・トイルもまた、その雑草のなかの目立たぬ一本であった。

 雑草とはいうものの、ただの雑草ではない。何を隠そうトイルは貴族の末裔である。なに、貴族とはいっても、大したものではない。トイルの本家筋の、数代前の当主が花の球根の投資で、たまたままとまった額の金を手に入れ、それを領主に献上することで男爵の称号と二世代特権を得たというだけのことである。いつの時代にもある成金の話で、その資産も特権も、とっくの昔に消尽してしまっていた。いまでは当時の当主が村の看板絵師に描かせた野暮ったいエンブレムを玄関先に掲げてよいという特権しか残ってはいない。いうまでもなくそんなエンブレムを掲げるバカはいない。そんなことをしても周囲に恥をさらすのみである。
 そもそもトイルは唯一の身内である母と生き別れている。そのため上記のようないきさつも、正確なものかどうか今一つ確証が得られていない。いずれにしてもなんの役にも立たないものであることは間違いがない。





 この日、トイルはみんなから少し離れたところに腰掛け、出店で購入した串焼きをほおばっていた。
 空はすっかり晴れて、小鳥たちが飛び交っては鳴き声を交わしていた。今日は昇級者たちのための第7教区を挙げてのおめでとうパーティである。例年、昇級者がいるとき、パーティは夜に行われていた。しかしこのところ夜盗の活動が活発化しているということで、今回はお昼の開催となった。
 トイルは前途洋々たる同世代の彼らをとくにこれといった感慨もなく遠くから眺めていた。同世代のいかにも優秀そうな彼らの周囲を、地元の名士たちや、中央から祝いにかけつけた検地所関係者たちがとりまいて、にぎやかに歓談している。
 トイルには目的があった。そしてそれは国立検地所に入所することでは獲得できないものである。だから勉強にも身が入らない。これは負け惜しみではないが、受験資格を得られなかったのはそのためだ。
 とはいうものの、トイルは周囲から、「トイルは頑張ったが失敗した」と見られるよう自己演出の努力はしていた。まわりくどいが若年ながらトイルにはそうした手続きが重要なのだとわかっていた。
 幼少期から流浪を続けた当然の結果として、トイルは人並み外れた用心深さを身に着けていた。他人の情報は可能な限り収集、分析する一方で、可能な限り自分のことは語らない。もちろんそういう態度が他人に不快を与えないよう自己演出することにもまた巧みであった。無垢、とは到底いえない人格ではあったが、このご時世である、そう珍しいことではないし、責められることでもない。

「よぉ、未来の大商人サマ。下働きはもう慣れたかよ?」
 カユイ・ムヒである。口は悪いが、人はいい。トイルの幼馴染である。成長期に背中に「コード」が発現し、すさまじい身体能力を得るにいたった。
 それは飢えた野獣の群れに襲われたときのことだ。少年グループで街道を外れて、森のなかでかくれんぼをしていた。大人たちは森には「ラーズ」が出るから近づくなと子供たちを脅かしていた。ラーズとは伝承に現れる人の心をたぶらかす悪魔のことで、子供たちを操って遠い国にさらってしまうのだという。もちろん子供たちはそんなラーズなど、怖いと思ったことはなかった。俺たちならラーズもやっつけられる、と言い合っていた。
 鬼役のムヒがあたりを探索していると、藪の奥が音を立てて揺れた。
「そこだな」
 藪をこえていくと、そこには怯えきって声も出せずに尻込みする友と、それをとりかこみ、じりじりと迫りくる野獣の群れがいた。薄暗い森の影のなかで、無数の濡れた牙がギリギリと獲物をねらっている。飢えのあまり目の焦点があっておらず、少年たちは生まれて初めて殺意というものを感じた。ムヒも膝が震えるのを止めることができなかった。なにもできないまま怯えきっていると、野獣の一匹が風のように疾駆した。
「あ」
 友の声に振り向くと、彼の足の肉がごっそりとえぐりとられていた。森の影のなかで、真赤な肉がそこだけテラテラと輝いている。間をおかず血がふきだす。言葉にならぬ悲鳴があがる。野獣たちの全身の毛が引き込まれるように逆立ち、一斉に嵐となって吹き荒れた。
 それはおそろしい速度のはずだったが、不思議なことにムヒの目には妙にゆっくりした動きに見えた。ムヒは全身が熱くなるのを感じていた。恐ろしいと感じれば感じるだけ、死が近づいて来れば近づいてくるだけ、その熱はムヒの全身をかけめぐり、ムヒに力を与えた。視界が赤く染まり、頭がチカチカしていた。
 恐ろしい牙が友の喉笛を捉えかけた瞬間、ムヒの細い腕がその野獣の首をつらぬいていた。一瞬の出来事だった。意識を取り戻したムヒはすさまじい吠え声を聞いた。よく考えるとそれは他ならぬ自分の叫びだった。野獣たちの死骸の上で、ムヒは息を限りにさけび、そのままぐったりと気を失った。ムヒの声を聴いて慌てて近づいてきた仲間たちに二人は保護された。これがムヒの「コード」が発現した最初の出来事である。

 ムヒの「コード」はもともと秀でていた彼の身体能力をさらに増強し、無類の戦闘力を彼に与えた。学業にも優れ、このたび無事に昇級試験をパス。トイルたち少年グループ自慢のリーダー的存在である。
 「ムヒ、出世しても、町のことを忘れるなよ。そしてうまく取り計らって、うまい汁吸わせてくれ」
 言葉はトイルが思ったよりも、ずっと皮肉に響いた。しかしムヒはまともに取り合わず、むしろ快活に笑った。
「そうだな。たまには小遣いでも恵んでやるよ。ほら、みんなのところ行くぞ」
 ムヒはトイルの首根っこをつかみ、ぐいっと持ち上げ、歩き始めた。
 送迎会といっても殆どが知らない人ばかりである。大都市のそれと比べれば雲泥の差があるものの、トイルたちにとっては十分大規模な集まりである。あまり居心地がいいものではない。おそらくムヒも同様なのだろう。しかし彼の場合、これからこうした場面に参加することも増えるだろうし、そうでなくても中央に近づこうというのだから、人見知りなどと言っている場合ではない。それで気心知れたトイルを連れて社交の予行演習をしておこうという腹なのだろう。
 ムヒは大柄で、人望もあり、世間での立ち回りもなかなか上手だった。華がある、というタイプだ。ではなぜそんなムヒがトイルに強い友情を感じているのだろうか。一番大きな理由は二人とも同じ孤児院で育ったからだろう。

 ムヒは捨て子だった。まだ幼児だった頃、村のぼろっちい教会の前に捨て置かれていた。夜明け前、村中に響くような声で泣きわめき、人々の夢を破ったのである。ぞろぞろと起きだした村人たちに囲まれて、教会をたった一人で切り盛りするシスターに抱き上げられると、先ほどまでこの世の終わりというほど泣きわめいていたムヒはケロッと泣きやみ、ケラケラと笑い出した。聞いているだけで思わず快活になってしまうような笑い声であった。それでこの赤子は「大いなる夜明け」を意味する「カユイ・ムヒ」という名を与えられた。
 村の訓練校の教官でもあるシスターに育てられて、ムヒはますます力強さを増していき、ついには身振り手振りの華やかな、なかなかの美丈夫に育っていった。村の祭りの時には我先にもろ肌脱いで踊って見せた。その大きく美しい体と、背中一面に現れた神秘的なコードの文様は、村の娘たちを夢中にさせた。これはもうほとんど立志伝中の人物といってもいい。

 他方のトイルもまた平穏とは程遠い子供時代を過ごした。零落貴族のシングルマザーに育てられていたが、彼女はその借金を重ね、逃亡を繰り返していた。
ある時、いつもの逃避行の最中で、賊に襲われた。赤い陸クジラ団という、第7教区を荒らしてまわる名うての賊である。
 リーダーの男は元国立検地所の正規メンバーという触れ込みであった(もちろん誰も信じてはいない)。しかしそういうホラを吹く程度にはコードを使いこなしていたし、なにより極めて用心深い性格だったので、第7教区の検地官らをあるいは撃退し、あるいは煙に巻いていた。
 その赤い陸クジラ団が示し合わせたように逃走中の母子の前に現れたわけだ。絶体絶命というやつである。なんの戦闘力もない、ただ生活知に長けた田舎女と、文字通り無力な幼児とで、一体どんな抵抗ができるだろうか。
 母が決死の思いで作った一瞬のスキをついて、彼は必死に逃げた。逃げて、逃げて、転んで、泥だらけになって、行きついたのが今の村だ。そして孤児院のシスターが、母が念のために持たせていた申し状と一緒に、泥だらけ、血だらけのトイルを拾ったというわけだ。
 ところで、あの注意深い赤い陸クジラ団がこんなせこい人さらいをするだろうか? いや、今さら考えたところで仕方がない。事実としてトイル母子は賊に襲われ、生き別れることになったということだ。
 とはいうものの、孤児なんてものは戦のたえないこのご時世、別に珍しいものではない。皆、不安定な境遇にある。少しでも安定した生活を手に入れるため、さらには富と名声を得るため、財産も権力もない人々は、体一つで参加可能な一発逆転ルート、すなわち国立検地所を目指すのだ。

「検地所の人とは会えたのか?」
 串焼きの最期の肉を飲み込んで、トイルは訪ねた。
ムヒは数日前まで昇級者のための研修として、少し離れた小都市を訪れていた。そこで検地所メンバーから講習を受けることができた。これは教育目的の講習というよりは儀礼的なものに過ぎないが、若者にとっては憧れをすぐそばで見られるわけだから、やはり特別な時間ではある。
 ムヒは検地所の男の印象について教えてくれた。なんでも講師役はごく若い男で、ムヒから十才も離れていないという。検地についての基本事項の講習のあと、実際の検地でどのようなトラブルが生じ、それに対してどのような対応をとるべきかのケーススタディが行われた。ムヒは自分たちの知識がまだ机上のものにすぎず、そして実際の現場がいかに流動的で迅速な対応が必要なところかを痛感した。
しかしムヒたち昇級者がもっとも「絶望」したのは実技、とくに戦闘技術訓練の場面である。それなりに自信のあったムヒであったが、講師の実力のほんの一部さえ引き出せず、一方的に無力化された。

「ヘイ、ボーイ。なにか隠してるな? 出し惜しみはなしだ。全力でこいよ」
 倒れ伏していたムヒはゆっくり立ち上がってコードを発動した。全身の筋肉がギチギチと音を立てて肥大したかと思うと、ギリギリと引き締まっていく。心拍数が上昇し、体中が紅潮していく。体温がどんどん上がっていき、背中からユラユラと熱気が立ち上がる。顔つきからのんびりした気配は消え去り、ほとんど野獣のような殺気をまといはじめた。
「グッド! なかなかいい雰囲気だすじゃないか……」
 講師が言い終わるまでにムヒはとびかかった。まず常人には認識できない速度で交錯した次の瞬間、ムヒは地面に叩きつけられていた。自分の速度のすべてを自分で受け止めさせられ、野獣と化したムヒは闘志をむき出しにしながら、しかしなすすべなく地面で苦しみもがいていた。
「もちろん、コードを使えるってだけの連中は中央では珍しくない。ボーイたちの中にも、コードが発現している人がいるだろうけど、しかしそれに慢心することはいただけない」
 ほかの生徒たちに向かって語り掛ける講師の、無防備な背中めがけて、ムヒは全身のバネを使ってとびかかった。ムヒのこぶしが講師の後頭部に触れたと思ったところで、ムヒの意識が途切れた。
後日、その様子を見ていたものに聞くと、やはりムヒはあっけなく講師にいなされ、ふたたび地面にしたたか叩きつけられていたそうだ。
 ムヒが気をとりもどすと他の生徒たちが講師と組み手をしていた。彼らもムヒと殆ど同程度の結果だったので、彼の自尊心は少しだけ保たれた。
しかしさすがにたった1人の登録訓練生はレベルが違った。あれはキャロという女だ、とムヒは熱っぽく続けた。あいつはちょっと違った。講師の顔つきが変わったし、クリーンヒットとは到底いえないが、それでも一度は打撃を加えることができていた。

「それにしても、あの講師、あれで検地所のなかではほんの見習いらしい。楽しみじゃねぇか」
 そういってからムヒは興奮を抑えきれぬ自分を恥じるように晴れ渡る空を見あげた。
「そうそう。今夜、孤児院のみんながオマエのためのパーティをやるってよ」
「じゃあ、早く帰らないと。夜の街道にはラーズがでるからな」
 そういってムヒはおどけた。基本的に集落間の移動は日中に行うものである。夜は安全が確保されていない。さすがに一対一でムヒが夜盗ごときに負けることはないだろう。しかし彼らは視界の効かない夜の乱戦には慣れていた。
「日暮れまでに出発できそうになかったら、明日の夜でもいいってシスターは言ってたから焦ることもない。とりあえずオマエは将来のために名前を売って来いよ」
「カユイ・ムヒじゃないか、どうしてそんな離れたところに。さ、もっとこっちに来て。君のことは噂になってるんですよ。とくに戦闘技術がすばらしいとか。キャロ君も感心していましたよ」
 少しずつ近づいてくるムヒたちを見つけた地域の名士が声をかけてきた。トイルは笑ってムヒの背中を押した。
「おい、トイル。先に帰るんじゃねぇぞ」人込みに巻き込まれながら、ムヒはトイルにいった。「ちゃんと待ってろよ。一緒に帰るぞ。ま、お前ひとりじゃ、賊に殺されちまうだろうけどな!」
 トイルは笑いながらムヒに手を振った。




 そしてその夜、トイルは姿を消した。




「あいつ、どうしてるんですかね」
 ムヒはシスターに訪ねた。トイルが姿を消して、もう一年になる。
第7教区での予備訓練を終え、いよいよ中央に出発する日である。ムヒは数日前、第7教区の訓練校から地元に戻り、引っ越しの支度を終えていた。
 おそらくムヒが十年以内にふるさとに戻ってくることはない。万が一、ムヒが出世を極め、すなわち国立検地所に所属するということにでもなれば、死ぬまで戻ってくることはないだろう。
 町の人々は愛するムヒの成功を、国立検地所への入所を心から祈っていた。しかしそれはムヒとの永遠の別れを意味してもいた。町の人々は出来る限りの笑顔でムヒを送り出そうと努力していたが、多くの場合それに失敗し、ボロボロと涙を流していた。
 中央からのお迎えに昔の顔見知りがいたらしく、その男との歓談を終えて、ムヒのところに戻ってきたシスターは首を横に振る。
「いいえ、こっちでもあれっきり。トイルのことだから、きっと無事でいるとは思いますが……」
「当たり前ですよ! あいつには浮浪癖があるんです。またひょっくり顔を出すに決まってます……」
 カッとなってシスターの不吉な予想をムヒは打ち消した。しかし彼は暗い気持ちになるのを抑えることができなかった。
 シスターもまた考え込んでいる様子ではあった。トイルにとってムヒは親友や、兄弟といっていいほどの関係のものだ。そんなムヒが故郷を後にする日、この大切な日に姿を見せないとすれば、なにかよほどのことがあるに違いない……生きて元気にしているということを前提にして、の話だが。

 そのとき、どこからともなく町の人々にざわめきが走った。ざわめきはあっという間にひろがり、悲鳴すら上がり始めた。中央からの使者とシスターはいち早く状況を把握した。
「おそらくギルドのものでしょうね。捕縛に向かいましょう」
「ギルド。シスター、彼らはただの賊ですよ」
 使者は肩をすくめた。同業者組織たるギルドは国に登録することで、国への貢献度に応じていくつかの特権を認めさせることができる。国立検地所に準じるような偉大な功績をあげたギルドもあれば、グレーゾーンの仕事ばかりをうけおうギルドもあった。むしろ実際のところ野良ギルドはその多くが犯罪組織と化していた。
「ムヒ、あなたはみんなの安全確保を。町の正門から来ているようです。おそらく小規模でしょう。私たちは侵入者の確認・捕縛に向かいます。中央から使者が来てくれていたのは不幸中の幸いですね」
 シスターはムヒにいくつかの指示をし、使者と一緒に賊の捕縛に向かった。

 一応の避難措置を終えたムヒが遅ればせながら現場につくと、状況はシスターが予想していた通りだった。しかし一つだけ予想と違ったのは賊たちが何かに怯えきっているというところと、すでに瀕死の重傷を受けていたということである。そう、彼らは村を襲いに来たのではなく、村に助けを乞いに来ていたのだ。たった二人の賊のうち、一人は無抵抗のまま両手を挙げて地面に膝まずいていた。もう一人の重傷を負った方はあきらかに錯乱していた。
「ラ、ラーズだ。ラーズが! 助けてくれ」
 シスターは正気を失した賊の震える唇と血の気の引いた顔を見つめて何かを考えていた。警戒しつつ使者が近づいていく、
「おい、そっちの。お前はまだ話せるみたいだな。どういう状況だ?」
「こいつのいう通りだよ。ラーズがいた」
「話せ」
「そのまえにこいつを治療してやってくれ」
「シスター、私は医術の心得がない。治療を頼みます」
 黙ってうなずき、シスターは瀕死の賊に手当を始めた。その様子を確認して、ようやく賊は緊張の糸が解けたようにぐったりと座り込んだ。
「まずお前のことを話せ。どこの誰だ? 何があった?」
 使者の問いかけをうけて、まだ傷の浅い賊は話しはじめた。
「……俺たちは、赤い陸クジラ団のメンバーだ。ガキ一人に皆殺しにされた、泣く子も黙る山賊さ」
 賊の自嘲する言葉が耳に入ったとき、一瞬だけ治療の手をとめ、シスターはじっと目を閉じた。




 その後、使者とシスターが賊の証言にあったアジトで目撃したのは恐るべき虐殺の場面だった。いや、ただの虐殺なら、見慣れたものである。しかしこの現場には何か異様なものがあった。
 異様な点、それはこの虐殺が一人の殺戮者によって行われたのではないということである。賊たちはお互いに殺し合いをしていた。何かにとりつかれたように彼らは自分の兄弟とも信じた相手を殺し、そしてそんな相手に殺されていた。経験豊富な使者は露骨に嫌な顔を見せた。
「あいつが怯えていた理由もわかる気がしますね。普通じゃない」
 死者への祈りを終えたシスターもそれに同意した。
「彼らには彼らなりのルールがあります。仲間同士の結束をなによりも重視する。というよりもそれ以外に結束の原理がない。だから裏切りは許さない。まして……」
 二人は小屋の奥に歩をすすめた。そこには複数の子分にめった刺しにされながら、同時に彼らを道連れに息絶えた首領がいた。思わずシスターは首を振った。
「首領に対する忠誠心は並外れているはずです……」




 ある日、ふらっと一人のガキが現れたんだ。このあたりじゃ珍しい真っ黒な髪の毛の他には、これといった特徴のないいかにも地味なガキだ。仲間にしてくれという。目つきに凄惨なところが見え、これは俺たち側の人間だと一目で理解できた。だから仲間にすることにした。
 仲間といっても、いつものようにうまく言いくるめて使い捨てにするはずだった。しかしひょんな偶然が重なり、そして彼自身が仲間に忠誠心を見せたこともあって、本当の仲間として遇することになった。
いつしかあいつは仲間の中心となって、血気盛んな俺たちの仲たがいを仲裁するようになっていた。あいつはそういうのがとにかくうまかったんだ。
 よく考えれば昔ならそんなことでやりあわなかったようなことで、俺たちは喧嘩するようになっていた。もともとまともな社会からはみ出した俺たちだ。仲間を優先するというルールさえ守ればたいていのことは互いに許容する。それが暗黙の誓いだ。ところが、その骨の髄に染み付いたはずの誓いを俺たちはいつのまにか等閑視するようになりはじめていた。……いや、今思えばあいつによってそう仕向けられていた。
 トラブったとき、あいつを間に挟むと、関係がスムーズに回った。……しかし、それ以前よりも、必ず少しだけ関係性が複雑になっていった。少しだけギクシャクするようになっていった。
 俺たちが自分たちの関係をコントロールできなくなるのにそう時間はかからなかった。
 あとはもう悪夢そのものだった。小さな疑いは、すぐさま疑心暗鬼に膨れ上がり、あの日、ついに最期の時がきた。どうして親子とも思い、兄弟とも信じたあいつらを、あんなに恨んだのか、憎んだのか、恐れたのか。俺たちは恐怖にかられ、憎悪して、仲間と殺し合いを続けた。
 気が付けば、あいつは忽然と姿を消していた。結局、あいつは自分で手を下していない。信じられないだろうけど、本当なんだ。この世界にはラーズがいる、俺たちなんて目じゃない本当のラーズが。
 その後、正気に返った俺はみんなの死体を踏み越えて、あの村に逃げ込んだというわけだ。これが20年以上も第7教区に勇名をはせた赤い陸クジラ団の、あっけない最期さ。
 そうそう、死にかけていたあいつ、結局すぐ死んじまったけど、あいつを手当してくれてありがとう。恩に着るよ。あの優しいシスターにもそう伝えといてくれ。俺たちはクズ野郎だが、それでも仲間は大切なんだ。仲間だけは……
 あんたには恩がある。本当のことしかいわない。俺もすぐに処刑されるだろう。聞きたいことがあれば、それまでに頼むよ。




 あの事件から数日後、使者から送られてきた、賊の証言と、「ラーズ」の正体の手がかりを含む、一連の報告書を読み終えると、シスターはそれをすぐに火にくべた。そして歩きやすい丈夫なブーツを履いて、押入れから引っ張り出した外套をひっかけた。旅姿である。
「2週間ほど中央で用を済ませてきます。何もないと思いますが、一応隣町の治安員を呼んであります」
 みんなの教育係である孤児院の年長者はうなずいて、シスターをおくりだした。あの賊の事件があってから、シスターの様子はあきらかにおかしくなった。すごく真剣な、こわいような雰囲気になっていた。いつも優しいシスターにも、ああいう側面があったんだ。おそらく今回の出張も、それに関するものなのだろう。ムヒは出発してしまったし、トイルも失踪したままだ。なんだか、なにもかもが変わってしまったな。もう昔に戻ることはないのかもしれない……。

 このシスター見習いの少女の予感は正しかった。すでに何もかもが変わり始めていた。そしてその変化は第7教区のみならず、ゴルゴ大陸全体を巻き込むことになるのだが、しかしこの小さな変化がどのような結末を迎えるのか、それはまだ誰も知らない。

       

表紙
Tweet

Neetsha