Neetel Inside 文芸新都
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私の親友について私に何が言えるというんだ
ネズミの前で爪を切る

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ネズミの前で爪を切る
一階堂 洋

 こういう話をしよう。

 毎週、水曜日と金曜日、マウスの世話をするため、ぼくは、生物化学研究所に行っていた。

 大学の一角にある研究所――四月に、ポスドクと博士の学生が入っていき、半分に減って二月に帰ってくるという場所だ。『村の若者が、二十人、滝壺に眠る財宝を取ろうとしたが、全員失敗に終わった』という昔話みたいな場所だ。

 仕事は大したことじゃなかった。白い毛皮に赤い瞳のネズミを、何百匹か、あるケースからべつのケースに移すだけの作業だ。一つのケースに二十匹。死んでいるマウスは、黒い実験机の端に集めておく。その分を報告書に書いておく。ケースは放っておけば、業者が回収してくれる。分業。マルクスやエンゲルスが労働の喜びを探そうとしても、たぶんマウスの糞しか見つからないだろう。

 ぼくは二週間に一度、そこで爪を切ることしていた。その日も、マウスを移し終えると、爪切りを取り出して、ぼくは、爪をぱちぱちと切り始めた。実験用のスツールに腰掛けて、死んだマウスが捨てられたゴミ箱に。ちーちーと小さい声でなくマウスたちの前で。

 その時、何か気がかりな声が聞こえた。ぼくはそちらの方を見やったが、マウスのケースがあるだけだった。

「すいません」
「なんですか」
 と、声がした方を、眉をひそめながら、ぼくは見つめた。

 どう見ても、誰かが隠れているようには見えなかった。頭のふれた大学院生のプラクティカル・ジョークかもしれなかったが、それなら、なおさら付き合ったほうが良かった。少なくとも、将来性のある(またはあった)学生が、同じ大学の学生を刺殺した、理由はジョークが理解されなかったからだ、なんて事件は、あまり気分のいいものとはいえない。

「ここですよ」
 ぼくはそこを注視した。ひどく甲高い声は、明らかにマウスから聞こえていた。
「そこですか」
「ええ」
 と、マウスは答えた。ぼくは、爪切りを左手に持ち替えて、右親指の爪から切り始めた。
「それで、何のようですか、ラットさん」
「マウスです、正確に言えば」

 ぼくは親指の爪をゆっくり切り落として、彼の方を向いた。かれはピンク色のお手てに、赤い瞳、真っ白な毛皮の、つまりはこの世でもかなり実験用マウスらしい実験用マウスだった。品評会に出しても惜しくない。
「正確に言えばね、何の因果か喋れるようになったマウスさん」
 少し憤慨したように、彼は、かりかりとガラスを引っ掻いた。
「あなたは私を詰問しようとしてなさるが、一体、どういう権利があるのですか?」
 ぼくが答えずに、じっと眺めていると、彼は慌てて、
「私はただ、少しお願いをしようと思っただけなのに」
 とつけたして、鼻を床と壁の継ぎ目に押し付けた。ぼくは爪切りに貯まっていた爪を捨てて、
「で、なんですか」
 と尋ねた。

「私をここから出していただきたいのです」
「残念です」
 とぼくは答えた。ジェスチャーまでつけてやった。VIP待遇と言っても差し支えなかった。
「ですが、私は喋れるマウスなんですよ」

 ぼくは脳の容積と、言語の関係について考え始めたが、イルカの例を持ち出し、すぐさまやめることにした。そして右人差し指の爪を切りながら、
「なら外れ値ですね。統計学的に言えば」
 と助言した。
「……どうしても無理でしょうか?」
 彼はつるつるした壁面をよじ登らんばかりに、身を伸ばした。彼の舌がぺたぺたとガラスに張り付いて、まるで、小さなパイロットランプが点滅しているみたいに見えた。

「一つ目に、ここからマウスが行方不明になると、ここにいる大学院生とポスドクが、文字通り死ぬまで、あなたを探しますよ。あなたが死ぬか、彼らが死ぬかって意味ですが。
 二つ目に、ぼくはまだ『アルジャーノンに花束を』を読み切ってないんですよ」

 二つ目については、彼は明らかに理解していなかった。しばらく考えて、どかっと床に腰を下ろして、前足で口の周りをしきりに撫で回していた。それから、
「……じゃあ、一つだけお願いを聞いていただけますか」
「聞くだけはしますよ」
 とぼくは右中指の爪を切りながら言った。
「私のケージに、一匹、死んだマウスがいるんです、そいつを出してもらえませんか?」

 ぼくは彼のケージを引っ張り出した。彼に、「逆説的ですが、動いたら殺しますよ」と釘を指してから、「どいつですか?」と聞いた。彼はびくびくしながら、一匹のマウスを鼻で指し示した。
 なんというか、そのマウスは明らかに生きていた。

「生きていますね」
 とぼくが言うと、彼は、
「いいえ、死んでいます」
 と返した。そのやりとりを何回か続けた。彼はいらいらしたように尻尾を振っていた。ぼくは諦めて、
「じゃあ、こいつを殺せばいいんですね」
 と言った。彼は「その通りです」と、ちゅーと叫んだ。ぼくは、そのマウスを取り出して、両側から尻尾と頭を引っ張って殺した。そして黒い台の横に置いた。彼は、ほっとしたようだった。報告書の正の棒を、ぼくは一本足した。
「ありがとうございます、死んだマウスがいるのは気分が悪いんですよ」
 そして、ケースの奥に引っ込んだ。彼のケースを、ぼくは、所定の位置に戻した。

 ぼくは右薬指の爪を切ったが、ゴミ箱に捨てずに、ポケットにしまった。もう帰る時間だった。ぼくは提出表に漏れがないか、そして忘れ物が無いか確認した。

 ぼくが部屋を出る前に、彼はぼくを呼び止めた。そして、
「いいですか、ここでの生活は、私をいつか殺すかもしれませんが、あいつは間違いなく私を殺すつもりでした」
 とだけ言った。

 その後、ぼくはバイトをやめて、二度と研究所に入ることはなかった。

       

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