一階堂 洋
強く雨が降っている。
店内には人がいなかった。男は一枚板のテーブルに水滴が落ちるのも構わずに、「ミルク」と肉声で頼んだ。彼はフードを目深に被っていた。だぶついたマウンテンパーカーを着ている。彼はテーブルを拳で叩いて、
「ミルクだ」
と再び言った。
『フー』のマスター、バズ(偽名だ)は、客から見えない場所に置いてある、シークエンスデータを見て、見慣れぬ客を胡乱な眼差しで眺め回した。それから、
「あんた、お役所の人かい?」
と彼は尋ねた。彼はアイスピックを、カウンターの下で握った。フードをかぶった男は、しばらく黙っていたが、数十秒後、「そのとおりだ」と呟いた。彼は、コップの横に小さな立方体を置いた。新型の
「何か……何かあるわけですかね、ほら、この通り……変哲もない……飲み屋でございまして……」
と、バズは愛想笑いを浮かべながら返した。明るく振る舞えば、突然殴り掛かるなんてこともあるまい――しかし、何より、こいつは一体、どこの何者だ? 彼は、首の後ろをぽりぽりと掻いて、ちらりと、手元のコンソールを――
「バズ、ゲノムの
間。
バズは男の顔をじっと眺めた。正確には、眺めようとした。そこには双眸が、じっとりと光る眼があるだけだ、バーの薄暗い、黄色の照明を反射する瞳、バズは、背中に寒気が走るのを感じた。何より、彼が、先程のシークエンシングデータを
「ちょっと、いや、具合が悪いですね、そんなこと言っちゃ……酒代でも……タダで、いやあ、次もね……」
しどろもどろになってきた、バズに対して、男は「探しものがある」と呟いた。ぞっとするほど低い声だ。
「そりゃもう、できることなら、全部お手伝い致しますがね、私としては、できれば、その、もっと間接的なお手伝いをね……」
彼はフレキシブルパイプの水栓から、水を汲んで、一杯飲んだ。彼は、ミルクに手を付けずに、自分の方を見ている。
「例えば?」
「そうですねえ、ほら、ちょっと、あなたの経費の――ええっと――幸運を祈るようにね、例えば……猫画像とか……」
というのも、現代ではすでに猫画像は貴重なものになっていたためだ。しかし、マウンテンパーカーの男は「
間。
「一体、わたくしが、何を、へ、へ……」
バズは身を低くして、顔を覗き込むようにした。この野郎、どこまで足元見る気だ?
TMを手の中で転がして、彼は、短く区切りながら、
「三-
とつぶやいた。
「馬鹿言っちゃいけねえ、んなもんあるわけ無いでしょ、こんな――」
「お前が作って、ここのヤンキーに配っていると聞いた……正確には、チミンという男から」
あの野郎、漏らしやがって。バズは身を固くした。しかし、それにもかかわらず、バズは本当にそんなものを持っていなかった。サブルーチンとして三-
合法か? もちろん違法だ。二つの意味――一つ、TMの
彼はせわしなく手をあちこちにやって、なんとか気を紛らわせようとした。どうすれば……。もちろん、まだまだ余罪はあるのだ。薄暗いバーの店主が、真っ昼間の副業に、他に何すりゃいいってんだ、第一、おれには娘がいるんだぞ……。
「……お前、もしかして、
間。
「じゃあ、ガキに配ってた
間。
「……クズだな」
「じゃああんた――」
その時、扉が開いて、小柄な女が一人入ってきた。
バズの娘、フウという女だ。
「あれ、バズ、お客さん? こんな、まだ五時だろ、クソ雨降ってるし、何かあったん? ダチ?」
「フウ、部屋こもってろ」
「はあ?」
フウは、髪を黒と茶のメッシュに染めている、この頃よくいる、怖いもの知らずのパンク少女だった。自分のTMをくくりつけたヘアゴムで、ポニーテールを作っている。スクールバッグはもちろん何も入っていない。彼女は、男の横にどかっと腰を下ろした。それから、彼が飲んでいるものを覗き込んで、ぷっ、と吹き出した後、「それ何よ、あれ、新しいやつ?」とまくし立てた。
「フウ!」
部屋戻ってろ! とバズが叫ぶ前に、フウは、テーブルに置かれていた、黒い男のTMをつまみ上げると、男が何か――何か警告めいたものを告げる前に――
「これ、新しいイライザじゃん! すげー! かっちょいいー! バズ、いい友達いんじゃん!……ちょっとこれ、借りまーす!」
と言って、そのまま、ピンク色(で、雨のせいで、少し黒く汚れていた)のパーカーを翻して、スクールバッグにつけた、ジャンクのオートマトン・キューブをかちゃかちゃ言わせながら外に出ていった。
間。
「クソ女っ!」
男は初めて声を荒げて、立ち上がると、ミルクを飲み干して、バズに向かって「お前は後だ。用意しておけ」と告げて、ミルク分のチップを払うと、フウを追いかけ始めた。