Neetel Inside 文芸新都
表紙

私の親友について私に何が言えるというんだ
テラ・インコグニタ

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##テラ・インコグニタ

 元気な赤子が生まれたら、もうあまり時間は残されていない。
 ソフトロボティクスの助手に助けられながら――むしろ、助手の簡潔で無駄のない動きを観察しながら――医師が赤子をエンジニアに手渡す。新生児は泣き始める。肺の中に初めての空気が入り、そして肺胞の一つ一つをふくらませていく。
 エンジニアは子どもを小さなストレッチャーに載せて、MRIへと搬入する。そして新生児の脳をスキャンする。まだ未成熟な頭蓋骨の間を通って、生物学と電子工学の粋を集めた小さなチップを埋め込む。もちろん、チップの表面には、金の原子で企業のロゴが入っている。テラ・インコグニタ社のマークだ。
 脳の細胞が配線を行う前に――ニューロンが手と手をつなぎ、複雑で動かしがたく、そして壊れやすいシナプスの網目を張り巡らす前に――チップは小脳と脳幹を結ぶ橋の部分に、脳細胞を緩やかに押しのけて取り付けられる。
 チップの表面に浮かんだATP―ADPアーゼが活動を始める。
 それをエンジニアが確認する。
 そして、やっと、この赤子は母親の手に引き渡される。
 これらは全て、慈善事業として無料で行われる。エンジニアは母親に約束する。この子はきっとよく育ちます。誰とでも話せるようになります。苦もなく。
 この赤ん坊は、チップが埋め込まれ始めてから、第四世代の子どもだ。

 赤子(男だ)はすくすくと成長する。散歩に出かけ、そこに芽吹いている草について学ぶ。それらの多くは、近くの研究所から飛散してしまったアラビドプシスや、イネ科のキメラだ。母親は読み聞かせをする。文字を教える。その本には、見覚えのあるロゴが描かれている。見ているテレビにも。
 彼の頭に、少しずつ情報が蓄積していく。意味と音の対応。それは彼のニューロンの細かな結合として表される。徐々に結節は増え、強固になる。細胞は間引かれる。
 その全てを、彼の脳に埋め込まれたチップが、この世のどこかに送り続けている。

 彼が五歳になった時、チップが動き始める。それと同時に、外の世界へと、母親は彼を送り出す。彼はにこにこと笑っている。小学校の御影石でできた小さい門をくぐる。朝顔のプランターが校舎の隅に打ち捨てられていて、黄緑色の葉っぱが芽吹いている。昇降口は砂でざらざらしている。彼は心配そうにきょろきょろしながら、自分の教室に入る。
 そこには多くの友達がいる。彼は自分の座席に座る。隣の子を見る。その子はとても白い肌をしている。自分とは違う、と彼は思う。そして、その白人の女の子は話かけてくる――。

「Hello, it's a nice ――」
 
 その音が、外耳道を通って鼓膜を振動させる。耳少骨を通って、蝸牛が震える。
 チップが起動する。
 彼が五年間かけて作り上げたデータセットは、ついに日の目を見る。彼が読んだ本、聞いたビデオ、そして母親の声は、全て、入力と正解の対だ。
 まず、シンタクティックレキサーが、基底膜の変位を音節に分ける。
 そして、S1野に繋がるニューロンは機械的に遅延される。その間に、クラウドへ、個人のSNPのフィンガープリントとともにトークンが送られる。国内六ケ所に設置された、巨大なセマンティックパーサーが、送られてきたトークンのストリームから、次々に構文木を形作る。コンテキストを付与していく。『それ』や『あれ』がどこかにつながり、またあるものは単なる形式とみなされる。量子ビットで構成された――もはや誰一人として理解できない――中間言語へ変換される。
 そして、彼が分かる形へ、再度、翻訳される。それらの全ては、最低三個、最大一二七個のスレッドで並列で行われる。ブースティングアルゴリズムによって、それぞれが精製した複数の構文木は一つにより合わされる。蔦が絡みあうように、構文木は硬く、そして正確になる。
 その言葉が、再度、脳へと送られる。愛しの場所へ。それが本来あったところに。
 ランデブー。
 内側膝状体MGNに間に合った。脳に埋め込まれたバイオチップが、それまでの活動電位を塗り替える。彼に分かる形へと変形せる。チップ表面でATPが消費され、イオンポンプがめまぐるしい速さでナトリウムやカルシウムを汲み出す。
 そして、彼のA1野へと、メッセージは届く。たくさんの場所を経て、たくさんの人間が創りだした叡智を授かり、そして彼のためだけに調節されて。
 間。
「――天気よくてよかったよね、あたし、ナンナ、あんたは?」
 彼はその言葉の意味を完全に理解したように見える。そして答える。
「ケンイチ。ホント。雨降んなくてよかったよね」
 間。
 少女は彼の言葉が分かったように見える。そして彼らはにっこりと微笑む。


##
 彼らは教育を受け続ける。その間、チップはずっと稼働している。国語と英語の差異は、もはやほとんど残されていない。それはただ単に、表現できる物事の範囲が異なるだけだ。音と文字のリンケージは――今まで緊密につながり、絡み合い、お互いを刺激しあっていた紐帯は――失われた。文字は変化を止め、音は止めどなく個人の中で変化し続けていく。
 ナンナはにこやかに笑う。昨日のテレビについて話す。
 間。
 ケンイチは相槌を打つ。分かるよ、という。漫画の話をする。空き地で見つけたトンボの話をする。足が頭の部分にある蟻について話をする。
 間。
「それって、ラボから逃げ出してきたんだって」
「ラボ?」
「いいや、研究者の人がやっているの」
 間。
 そうして、ほんの少しだけ噛み合わない会話が続いていく。


##
 ケンイチたちは、数年に一度、チップの更新を受ける。ファームウェアの更新と、データセットの更新。馬鹿みたいなビデオを数時間見て、見えているものをしゃべる。フリーディスカッションを行う。複雑な概念――例えば、悲しさの色について――何でもいいからぽつぽつと語る。
 それだけだ。
 義務教育が終わる頃には、ナンナとケンイチは、誰もが全面的に認める恋人同士だった。自由恋愛や妊娠は――卵子・精子バンクを用いた、赤子の『生産』が可能になったことに寄って、むしろ逆に――もてはやされていた。
 ナンナはたこ焼き屋で一船買ってくる。ケンイチはプラスチックに入ったビールを二つ買う。彼らは笑いながら食べて、飲む。
「これ、タコ入ってない!」
「ホント? じゃあ半分くれよ、確認して」
「えー、本当にそう?」
 彼らは楽しそうに笑い合っている。彼らはほとんどいつも一緒にいる。まだなぜか存在している、コンサルタントの仕事にケンイチが疲弊した時、ナンナはオペラのケーキを買ってきてやっていた。逆に、ナンナがサーバー監視でひどく目をやられた時、退職に必要な大量の書類を作ってやったのは、ケンイチだった。彼らは離れていようと、目を閉じれば、お互いの声を反芻することができた。温かい声を思い出すことができた。


##

 そして、ある日、リビングで、娯楽番組を見ている時、突然、彼の脳のチップが息の根を止める。
「それで、私がね、あのアヌしぶばルック――」
 ナンナもそのことに気がつく。チップが活動していない。そして、彼らは壊れた会話を続けようとする。お互いに、理解できない音を発し続ける。ぎこちなく笑う。
 まるで、何も起きていないみたいに。お互いのことが分かっているみたいに。
 すぐに、会話はぷつりと途切れる。ケンイチは紙を取り出す。そして書きつける。
『何かおかしいみたい』
 ナンナが書く。
『そのとおり。でも、こうしていればいいじゃん』
 ケンイチは頷く。コーヒーを淹れるために椅子から立ち上がる。その拍子に、彼はローテーブルから、造花を落としてしまう。バーミキュライトのかけらがこぼれ落ちる。
「くそっ!」
 とつぶやく。ナンナが何かそれに合わせてつぶやく。それは、まるで、未開の部族がつぶやく呪いの言葉のように響いた。
「ナンナ、変なことを言うなよ!」
 それが、ナンナにも同じ反応を引き起こす。意味不明な言葉が、さらに破綻を呼んでいく。ケンイチには彼女の名前が思い出せなくなっている。彼が好きだったものも、彼にまつわる色々なことも――彼女は誰だ? 言葉が完全に通じなくなった相手と、おれは今まで、どうやって話すことができたんだ?
 彼は苛立って、造花を投げ捨てる。女が叫んで詰め寄ってくる。おれ達は分かり合っているはずだ。その焦りが、ケンイチを更に苛立たせた。彼は自分がコントロールできなくなっていた。
 彼らは叫んでいた。彼らは怒り、憎んでいた。

 そして彼らの頭に声が響く。彼らが完全に理解できる声で。混沌の中にいる彼らが、自分以外で唯一理解できる声を持って。
 それは、世界各地のサーバーからもたらされている。
『ご不便でしょう。ぜひ、あなた達の生活を良くさせてください。もちろん、少しの協力をしていただきますが――ええ――五十年ほど――』

 かくして、ここで、支配という言葉は消え去り、協力という言葉は新しい意味を持つようになった。不明な領域テラ・インコグニタへの支援という意味を。

       

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