karte3(♀)『私、こわれもの』

 私はこわれものだ。
 ふつうの人がごくふつうにやっていることが、私にはとてつもなく困難に感じられる。もっぱら他人と感情を共有するのが苦手だ。小さいころから、手を取りあったり喜びを分かちあったりすることにあこがれがあった。それができない自分がみじめに思えてならなかった。十七歳になってもその性質は変わっていない。それどころかますますひどくなっている。欠陥を自覚すればするほど、みじめさは増してゆくばかりだ。
 ほかにも、私にはたくさんの欠陥がある。街を歩いているとすれ違う人に思考を読まれている気がするし、夜中にわけもなく涙が流れてきて止まらないこともあるし、生理は慢性的に不順だし。いちいち挙げていけばきりがない。
 きっと私は心の病気に罹っているのだ。その病気は心の深部で進行し、侵食し、私から他人とかかわって生きていくのに必要な部品を奪っていく。そうして私はどんどん欠陥だらけのこわれものになってゆく。
 こんなこわれもの、返品してしまったほうがいいのではないか。さっさと神様に返品して、もっとスマートに生きていける人間につくり変えてもらったほうがいいのではないか。たまにそんな妄想に取り憑かれる。で、薬局で買った安物の剃刀で手首を切って、決断を先延ばしにする。私の人生はその繰り返しだった。
 でも、中原くんと出会った。
 彼もまた、心の病気に罹っている。左手首に刻まれた傷痕がなによりの証拠だ。同じ悩みをかかえる者同士、私たちはすぐに打ち解けた。私は彼となら手を取りあえる。喜びも苦痛も分かちあうことができる。
 やっぱり返品しなくてよかった。

                    *

 週に二、三回、私と中原くんは放課後の第一理科室で密会をしている。
 無駄に広く無機的なこの特別教室は、学校内で数少ない私がリラックスできる空間だ。耳ざわりなしゃべりかたをする教師も、好奇の視線を向けてくるクラスメイトもいない。ここにあるのは、手入れする者をなくした化学薬品の陳列棚と実験用の黒いテーブル、それと私たちの発する熱だけだ。
「くすぐったい?」
「もっとくすぐったくしてくれる?」
 テーブルに寝そべった私の脚に、中原くんが舌を這わせる。バターを塗られるトーストになった気分だ。こんなことをされて気持ち悪くなるどころか安らぎを感じてしまうのだから、いまの私はどうかしている。
 理科室というシチュエーションにふさわしく、私たちはここでさまざまな実験をする。半分裸になって、相手の耳をかじってみたり、背中に爪を立ててみたり。気が向けばもっといやらしいことだってする。私たちにとってそれらは百万回の討論よりも意味のある行為だった。私たちは肉体的接触によって心の距離をかぎりなくゼロに近づけようとしているのだ。
「生きるのに向いてないんだよ、たぶん」
 はじめて私に左手首の傷痕を見せてくれたとき、中原くんはそんなことを言っていた。教室にいるときとは別人の顔で。
「コバたちとよもやま話をしていても、僕は心のどこかで笑っていない。自分に嘘をついている。だからポケットに金貨を隠し持ったこそ泥みたいにびくびくしているんだよ。いまに正体がばれるんじゃないか、って。本当の僕は、こっちだ」
 私はそれまで、中原くんは陽性の人だと思っていた。自然体で社会と折りあう術を身につけた、健康で優良な精神を持つ人だと思っていた。だけど彼は嘘をついていると言う。孤独な本性をごまかして、教師の前で、友人の前で、陽性の自分を演じている。それは私とまったく同じ性癖だった。
「つくり笑いをしないと人とかかわれない自分が嫌いだ。でもそれをやめると不安でいても立ってもいられなくなる。そんな臆病な自分が、大嫌いだ」
 だから僕は手首を切った。私はその言葉を一生忘れないだろう。
 中原くんの気持ちは理解できた。
 自己嫌悪に押しつぶされそうになると、死にたくなる。
 死にたくなると、手首を切りたくなる。
「あなたのこと、もっと教えて」
 それから私たちがいまのような関係になるまで、さほど時間はかからなかった。心の病気に罹った者同士、私たちはあっという間に単なるクラスメイトの枠を飛び越えてたがいを求めあうようになった。
 はじめのうちは抵抗もあった。中原くんに愛情を感じていなかったわけではなく、性への興味よりも恐怖が勝っていたのだ。でもそれは幼い子どもが水中で目を開けるのをこわがるのと同じで、いったん克服してしまえばどうということのない問題だった。さらに慣れるとだんだん癖になってくる。
 肌と肌で中原くんと対話しているあいだは、嫌なことはぜんぶ忘れられる。
「……このまま放課後がおわらなきゃいいのに」
「なんか言った?」
「ううん。なんでもない」
 ブラの下まできていた中原くんの頭を両手で止め、身体の位置をスイッチさせる。彼がテーブルにあお向けになり、私がその上に馬乗りになる格好だ。攻守交替。
「今度は私が診察する番」
 垂れ落ちた髪に中原くんが指を絡めてくる。その仕草をたいせつにしたいと思う。それからおだやかに澄んだ瞳も、くっきりと陰影のついた細い首筋も、あんまり男らしくない平らな胸板もたいせつにしたい。彼のなにもかもをたいせつにして、一生手ばなしたくない。
 中原くんがいれば、私は生きていける。
「中間試験がおわったらいっしょにどっかいかない?」
 診察の後、産まれたてのうさぎのような色をしたカッターシャツのボタンを留めて、中原くんが言った。私は実験用のテーブルに脚を投げ出して座っている。
「どっかって、どこ?」
「どこでも。五十嵐がいきたいところでいいよ」
 休眠中の蛍光灯がならぶ天井を見上げ、思案する。いきたいところなんてない。だれにも邪魔されずに中原くんといられるこの密室があれば、それでじゅうぶんだ。実際、密会をするようになってこのかた、私たちは一度たりともふたりで外に出かけたことがない。それにはクラスメイトに私たちの関係を知られたくないという事情もあった。第一理科室を出るときでさえ、私たちはわざと時間をずらしている。
 とはいえ、たまには気分転換をするのもいいかもしれない。それに試験期間中は短縮授業になる。そうすると当分密会はできない。
「じゃあ、海にいきたい」
 そう答えると、中原くんはくすりと笑った。
「なんで海? まだ五月だよ」
「泳げなくてもいいの。人の多いところは嫌いだから、なんとなくそれがいいかなって」
「了解。中間がおわるまでに穴場探しとく」
 決して乗り気ではなかったはずなのに、気持ちはすでに海に向かっていた。どんな服を着ていこうか、帰りが遅くなったら家族にどういいわけしようか。そんなことを考えていた。
 男の子とデートの約束をして、それを楽しみに生きる。すごい。ふつうの人みたいだ。
 中原くんと出会って、私も少しは変われたのかもしれない。

                    *

 試験明けの週末、私たちはさびれた洋館のような外観の駅で待ちあわせをした。
 ところどころ板の表面がはがれた木製のベンチに腰かけ、中原くんを待つ。洗いたてのワンピースの内側を、初夏の訪れを感じさせる生ぬるい風が吹き抜けていった。
 電車を降りてくる人の中から中原くんを見つけ出すのは簡単だった。というのも、分母が極端に少なかったからだ。
「ごめん、待った?」
「十分遅刻。中原くん、お昼ごはんおごってよね」
「その髪型似あってるよ」
「ダメ。褒めても許してあげないんだから」
 三つ編みにして後頭部で結んだ私の髪に、中原くんが手を伸ばす。私は照れ笑いでそれをはらいのける。たかだか学校の外で会ったくらいで、私も彼も、遠足の日の幼稚園児みたいに浮き足立っていた。もしこんなところをクラスのだれかに目撃されたら、恥ずかしさで登校拒否になってしまう。
 私服姿の中原くんは新鮮だった。ジャガードのカットソーにブーツカットデニム、靴は茶系のモカシン。自己主張がひかえめで飾り気がない。彼の性格がよくあらわれている。
「かわいいね、それ。いつもつけてるの?」
 スマートフォンの案内に従って休日にしては人気の少ない街を歩いている最中、中原くんがふと私の右手首に目を留めた。
「モノトーンの服にあわせやすいからお気に入りなの。冬場でもときどきつけるよ」
 花のかたちを模したドット柄のシュシュを、中原くんはもの珍しそうに観賞していた。半袖の季節になると手首の傷痕を隠すのは難しい。ファンデーションで目立たなくすることもできるが、手っ取り早いのはアクセサリーをつけることだ。私の部屋の小物入れには、シュシュやブレスレットが一ヶ月日替わりで着用できるくらいある。
 喫茶店でブランチをすませ、私たちは海を臨むちっぽけな水族館を訪ねた。館内は開業以来一度も改装していないんじゃないかと思うような古めかしさで、客の入りもそれ相応だ。中原くんが選んだデートコースは、人の多いところは嫌いだという私のリクエストにほぼ百点満点で応えていた。
 客足がまばらなせいか、自由気ままに水槽を泳ぎまわる派手な色あいの淡水魚たちもどこか退屈そうだった。その中の一匹が、こちらを向いて語りかけてくる。やあ、お嬢さん。こんなところでデートなんてもの好きですね。遊園地にでもいってみたらどうですか。私は答える。それもいいかもね、彼となら。だけどああいうにぎやかな場所は私には似あわない。すると魚はそれはあなた次第なんじゃないですかと言って去っていく。水槽のガラスには私の顔が映っている。
 水族館を出た後は海辺を防波堤に沿ってあてもなく歩いた。右手には大粒の白い大理石が敷き詰められた砂浜が、左手には高速道路につながる高架がある。こちらも水族館に負けず劣らず客足がまばらだった。釣り人と散歩中の母子がたまに目につく程度だ。
 砂浜では一面の玉石で足をくじかぬよう裸足になった。ミュールを持った両手を広げてサーカスの綱渡りみたいにおっかなびっくり歩いていると、見かねた中原くんが背中を差し出してきた。
「なにそれ、乗れってこと?」
「そう。この歳で転んだら恥ずかしいだろ?」
「この歳でおぶられるのも恥ずかしいよ」
 とは言ったものの、私はさして抵抗もなく中原くんの好意に甘えた。どうせまわりに人は数えるほどしかいないのだ。
 まどろみはじめた太陽が、くっついてひとつになった私達の影を引き伸ばす。深く空気を吸いこむと、潮のにおいに混じって、中原くんがつけたワックスのにおいがかすかにした。
「なんだか子どものころに戻ったみたい」
 中原くんの背中にもたれて波の音に耳を傾けていると、網膜の裏に一枚の風景写真が浮かび上がった。時間の連続性から切り離された、すぎ去りし日の記憶の断片が。
「聞かせてよ、五十嵐の子どものころの話」
「四歳のころだったかな。家族四人で海にいったの。おんぶされていたのは、私じゃなくて妹だったけど」
 まだ髪が黒々としている父に手を引かれて歩く幼い私。そのとなりには、母と、定位置である母の背中で寝息を立てる妹の姿がある。私たち家族の後ろには、砂を削ってできた足跡が長い尻尾のように延々と連なっていた。
 あれは確か、その年のゴールデンウィークのことだった。本来なら遊園地にいく予定だったが、なにかの都合でお流れになり、埋めあわせに連れていかれたのが海のある街だった。私は前日の晩に幼児特有のものわかりの悪さでわんわん泣きじゃくり、当日になってもずっとへそを曲げていた。お菓子を与えられても、夏休みにはかならず遊園地に連れていくと約束されても、取りつく島がない。私の強情さに嫌気が差して、しまいには母まで機嫌を悪くする始末だ。それでも、家族四人で砂浜を歩いているうちに、私は駄々をこねるのをやめた。世界をまっぷたつに分ける水平線と、夕陽を受けて黄金色になった水面に躍る光の粒。渚に打ち寄せる波の音。そういったものが私の気持ちをリセットさせてくれたのだ。
「人生の終着駅を自分で選べるのなら、あんな場所がいい」
 どうせいつか死ぬのなら、私は海に抱かれて死にたい。
 突堤に中原くんとならんで腰を落ち着ける。私たちはそこで中間試験のできを報告しあった。
「問十五の答えわかった?」
「ぜんぜん。ほかはぜんぶわかったのに」
「勉強得意だよね、五十嵐」
「そんなことないよ。最近はどんどん馬鹿になってる。中原くんと出会ったせいで」
「僕のせいかよ」
 中原くんが私の二の腕をつねってきた。私もすかさず彼の脇腹をつねって反撃する。こういうスキンシップが私から学力を奪っていくのだ。第一理科室で下校時刻ぎりぎりまで勉強をしていたあのころにはもう戻れない。彼と出会って、私は火遊びの楽しさを知ってしまった。
 あお向けに寝転がり、曇り空を見上げる。石灰岩の冷たい感触が、薄荷のキャンディみたいに背中に広がっていった。
「いいのかな、ほしかったものがこんなに簡単に手に入って」
「ほしかったものって?」
 深呼吸をして胸を満たす。肌寒くなってきた風に言葉が消えてしまわぬように。となりに寝転がった中原くんにちゃんと届くように。
「私を理解してくれる人」
 マイナス思考で情緒不安定で、どうしようもなくひとりぼっち。そんな私を、ずっとだれかに理解してもらいたかった。あるいは首にプラカードを提げて探せば、自分と似たような人間はいくらでも見つかるだろう。だけどいざ照会してみると、きっとどこかに誤差がある。そしてその誤差は私をさびしさの水底に突き落とすのだ。
 確信めいた予感がある。
 中原くんこそ、私が探し求めていた人。真夜中の礼拝堂に射しこむ月光。
 壊れたこころとこころで通じあう、たったひとりの理解者だ。
「でも、ときどき不安になるの。中原くんがいなくなったら、私はどうなっちゃうんだろうって」
 中原くんと出会って私は変わった。手首を切る回数は減ったけれど、そのぶん弱くなった。彼をうしなうのがこわい。どうしようもなくひとりぼっちな自分に戻るのがこわくてしかたがない。彼がいなくなったら、きっと私はどうにかなってしまう。
「大丈夫」
 おだやかにそう言って、中原くんはおもむろに私の右腕を引っ張り上げた。シュシュがずらされ、無数の不細工な真一文字があらわになる。淡い灰色の空の下、私たちを引きあわせた右手首の傷痕と左手首の傷痕がぴったりと寄り添う。
「この傷が、僕たちの絆だ」
「……うん」
 一生消えない傷痕、一生消えない絆。死にたい気持ちが生きる意味に変わる。
「いまのはちょっとキザだったかな」
「かなりね」
 無関心に干いては寄せてを繰り返す波の音を聴きながら、私はこんな時間が永遠につづけばいいと思った。叶わないと知っているからこそ、永遠につづいてほしいと願った。
 もうすぐ下校時刻になる。幸せの魔法が解ける刻限だ。
「ねえ中原くん、私が第一理科室に入り浸るようになったの、どうしてだかわかる?」
 上半身を起こして中原くんの顔を覗きこむ。拾った鍵を曽我部先生に届けず第一理科室を自分だけの秘密基地にした理由を、私はまだ中原くんに打ち明けていなかった。
「想像つかないな。どうして?」
 風になびく髪を押さえて答える。
「単なる時間つぶし」

                    *

「ただいま」
 だれにともなく小声で帰宅を告げ、ミュールを玄関にそろえる。派手な色あいのパンプスは私が家を出たときと同じ位置に転がっていた。あの人はきょうも外出しなかったみたいだ。妹の靴は見当たらなかった。こちらもいつもどおり。
 いつもと違っていたのは台所だった。洗面所で顔を洗い、冷蔵庫常備してある市販のミネラルウォーターを取りにいって、その異変に気がついた。
「どうしたの、これ」
 開けっぱなしの冷蔵庫から冷気が室内に漏れ出している。ドアのランプが点灯して、ドアが開いていますと抑揚のない機械的な音声が注意を呼びかけていた。
 異変はそれのみにとどまらなかった。食器棚が荒らされ、床は散乱した食器の破片で足の踏み場もない状態になっている。まるで嵐が通りすぎた跡だ。
「ああ、すみれ。おかえりなさい」
「おかえりなさい、じゃないでしょ。どうしたのって訊いてるの」
「ちょっとね。模様替えしようと思って」
「ふざけないで」
 対面式のキッチンカウンターに隔てられたリビングで、母が病人のようにぐったりとソファに横たわっていた。真っ暗なテレビに向けられた目に光がない。どうやら暴れて気力を使い果たしてしまったらしい。
 またか、とため息が出た。母のヒステリー症はいまにはじまったことではない。ときおり気が触れたみたいに物にあたってストレスを発散する。その直後はだいたいこんな具合だ。
「お母さんがやったんでしょ。片づけるの手伝ってよ」
「いま動けないの。適当にやっといて」
 うんざりして言い返す気にもなれない。私はソファを離れようとしない母を無視して冷蔵庫のドアを閉め、箒を持ってきて床を掃除した。粉々になった食器の中には子どものころから使っていた思い出の品もあり、ちくりと胸が痛んだ。
 掃除がおわるなり、母とは口もきかずに二階の自室に閉じこもった。ベッドに倒れこむと、半日ぶんの疲れが掛け布団の羽毛に吸いこまれていった。
 身体が軽くなると同時に、憂鬱がこころに重くのしかかる。
 この家の中心は母だ。父は彼女を極力刺激しないように言いなりになっているし、自由奔放な妹は家でなにが起こっていようがおかまいなし。私は私で、あの人に振りまわされたくなくて、学校がある日は第一理科室に入り浸って帰りを遅らせている。
 立ち上がり、学習机の抽斗を開けて、一本の剃刀を手に取る。
 母が泣きわめくにつけ、物を壊すにつけ、外界との接触を拒むにつけ、家族を口汚く罵るにつけ、私はリストカットの衝動に駆られる。やるせなさと憎悪の狭間で、自分の体内に流れるあの人の血を否定したくなる。
 私の欠陥は母から受け継がれた。
 母も私と同じ。こころの病気に罹ったこわれものだ。