karte8(♂)『宇宙飛行士の夏』

 少女が僕の下で溺れている。浮かび上がろうとする彼女を、僕は必死に押さえつける。
 両腕の自由を奪われ、テーブルに磔にされながらも、五十嵐は身をよじって僕に抵抗していた。僕の唇を避けるように首を振り、やめてと何度も繰り返した。僕は聞こえないふりをして、一心不乱に彼女を求めつづけた。
 ただ安心したかった。僕が五十嵐を必要としているように、五十嵐もまた僕を必要としている。それを確認して安心したかった。だから僕は、その華奢な鎖骨を、血色の悪い肌を、大好きな黒髪を——彼女を構成するありとあらゆるものを——自分の支配下に置こうとしたのだ。
 その試みはあえなく失敗した。
「やめてってば!」
 五十嵐が第一理科室全体に響き渡る大声でそうさけんだとき、僕は我に返った。催眠術が解けたみたいに、どうして自分がこんなことをしているのかわからなくなった。それから彼女が歯をかちかちと鳴らして本気でおびえていることに気づき、手から力が抜けていった。
 拘束が解けると、五十嵐は肘を立てて僕の下から抜け出そうとした。紺色のソックスに包まれた足が僕の身体を押し返す。
 五十嵐が髪と息を整えているあいだ、僕はうなだれていることしかできなかった。
 本当にたいせつなものは、だれの目にも触れない場所にそっとしまっておく。それが五十嵐のポリシーだ。彼女にとって第一理科室は本当にたいせつなものであるはずなのに、さっきの大声はまるで外に助けを求めているようだった。僕は彼女から神聖な隠れ家を取り上げようとしていたのだ。
「あんなことするなんて、中原くんらしくない」
「……ごめん」
 分厚い空気の層が僕と五十嵐のあいだに横たわっていた。梅雨の密室はひどく蒸し暑くて、息が詰まりそうになる。
「恋人になりたいってなに? 言葉で定義することがそんなに重要? それとも恋人とセックスすることが重要だったの? 恋人のいる男の子はみんなしてるもんね」
「違う」
「だったらなんであんなこと言ったの? なんであんなことしたの?」
 矢継ぎ早な質問には怒りも嘆きもふくまれていなかった。ただただ、信頼していた人間に裏切られた悲しみだけがあった。
 これ以上、五十嵐を悲しませたくない。だけど嘘はつけない。
 好きな人を騙すのも、自分を騙すのも、もうたくさんだ。
「不安なんだ、きみがほかのだれかのものになってしまうんじゃないかって」
 こうして五十嵐と話しているいまも、僕は黄昏時の歩道橋の上にいる。歩道橋の上で、五十嵐のことが好きだと打ち明けてくれたシゲの、大きな背中を見つめている。
 研ぎ澄まされた沈黙が、重く肩にのしかかる。
「……私はだれのものにもならない」
 苦々しい顔つきでそう告げ、五十嵐はずり上がったスカートから伸びる細い脚を床に向けた。彼女の言葉にはなにか信念めいたものが感じられたが、とても疑問を挟めるような空気ではなかった。
 テーブルを降りると、五十嵐はその上に置きっぱなしにしていたキーリングから第一理科室の鍵をはずして僕の手もとにすべらせた。
「鍵、預けとくから」
 生徒たちに便所サンダルと揶揄されている上履きが、しんと静まり返った第一理科室の床にぺたぺたとスタンプを押す。その音はやがてドアの外側へと消えてゆく。五十嵐のいなくなった第一理科室で、僕はテーブルに座ったまま動けずにいた。
 手もとにラバー素材の留め具がついた鍵が転がっている。ブレードの部分には「S−0306」という番号が刻印されていた。この鍵は南館の三階にある六番めの教室に対応している、という意味なのだろう。留め具にもごていねいに教室の名称を書いたラベルが貼ってあった。五十嵐と密会をするようになってずいぶん経つ。それなのに、第一理科室の鍵をじっくり見るのははじめてだった。鍵を閉めるのは、いつも最終下校時刻になるまで家に帰りたがらない彼女の役割だったからだ。
 途中まで、僕と五十嵐は同じ物語を読み進めてきた。少年と少女から男と女になるために必要な手つづきを順調にパスしてきた。一方的に欲望を押しつけたらどうなるかは想像できていた。だから僕は、ページをめくるときは常に慎重を期した。
 きょうもそうするべきだったのだ。
 先に帰ってしまった彼女は、おそらくもう僕のところへは帰ってこないだろう。

                    *

 読みかけの物語の上を、夏が通りすぎてゆく。
 梅雨が明けると、からっとした陽気とともに期末試験がやってきた。期末試験が終わると、今度は短縮授業を挟んで補講期間がやってきた。三年生の補講期間は下級生よりも長く、授業も六時間めまでみっちり詰まっている。受験生の夏は、勉強、勉強、勉強だ。
 補講期間がはじまる時期と前後して、コバの夏はひっそりと幕を閉じた。
 全国高校野球選手権、その地方大会の三回戦で僕たちの学校は敗退した。三年生のエースピッチャ—は、一回の表に先頭打者ホームランを浴びると最後までくずれたリズムを立て直すことができなかった。打撃陣の奮闘も大きく開いた点差を覆すにはいたらず、九回の裏、二塁走者のコバが刺されたところで審判はゲームセットを宣言した。
 整列する際、コバは泣いていた。
「かっこよかっただろ、あいつ」
「うん」
 汗と土ぼこりにまみれた腕で目もとをぬぐい、コバがグラウンドを後にする。僕は外野側のスタンドでそれを眺めていた。スマートフォンで動画を撮影している水野とは対照的に、シゲは身じろぎひとつせず、ロッカールームへと消えてゆく白いユニフォームを目で追っていた。
 球場を出た後もシゲはずっとなにごとかを思い悩んでいた。水野が「俺らのうしろで応援してた女の子、パンツ見えそうじゃなかった?」と話を振っても生返事しかしないので、うかつに声をかけられなかった。
 まだ五十嵐さんのこと好き? もし僕も好きだって言ったらどうする?
 飲みこんだ言葉は胃のあたりでわだかまり、やがて毒となって精神を蝕んでゆく。
 その日以来、シゲはぱったりと学校にこなくなった。
「なあなあ、ユニット名考えたんだけど、小麦色クローバーZってどう?」
「うーん、微妙」
「じゃあこれは? 野球部の頭文字を取って、YKB48」
「野球部四十八人いないじゃん。あとなんかファスナー作ってそうそれ」
 んだよー、とふてくされてコバが黒板に向き直る。
 補講期間中は席割りが自由で、僕とコバと水野はいつも固まって授業を受けていた。水野が寝てしまうと、コバはよくうしろの席に座る僕に話しかけてきた。授業妨害だ。
 地方大会を三回戦で敗退して男泣きしていたコバは、その翌日にはすっかりいつもの元気を取り戻していた。野球部の部員たちとダンスユニットを組んで学園祭のステージに立つ計画が持ち上がっているらしく、いまはそっちに気持ちを切り替えている。
 個人として見た場合、コバにも水野にも別段変化はない。だけど僕たちをひとつの集団として見た場合は事情が変わる。コバは冗談を口にする回数が減り、水野はいっしょにいる最中もスマートフォンの画面を見ていることが多くなった。シゲが抜けたことで、最高にバランスがよかったカルテットはトリオになり、アンサンブルが狂いはじめていた。
「最近シゲから連絡あった?」
「ないんだな、それが」
「栃木のヤンキーかよ。メッセはぜんぶ既読になってんのに返信してこねえし。あいつわけわかんね」
 はっきりとは口にしないものの、コバも水野も学校にこなくなった友人を心配していた。正しい態度だ。それに引き換え、僕はシゲがいないことにほっとしている。
 僕の知らないところで、シゲは五十嵐と会っているんじゃないか。ふたりはとっくに親密な関係を築いていて、なにも知らない僕を陰で笑っているんじゃないか。シゲといると、そんな愚にもつかない妄想にとらわれてしまう。
 ときどき自分でもおかしくなってくる。根拠もないのに人を疑ったり、突飛な妄想におびえたり、最近の僕はどうかしている。早く本来の人格を取り戻さなくてはならない。取り立てて悩みのない、親友とも好きな女の子ともそれなりにうまくやっていた中原要を取り戻さなくてはならない。そう思ってはいても、気を抜くとすぐに小心者の自分が顔を出す。
 好きだと告げたあの日から、五十嵐は僕と距離を置くようになった。物理的な距離の話ではない。こころの距離の話だ。いまでも僕たちは密会をつづけている。だけど彼女は以前と比べて診察に消極的になった。診察中はいつもうわの空で、こんなことをしていていいのかと悩んでいる様子だった。この腕で抱きしめていても、彼女がどこにいるのかわからない。僕は彼女の信頼をうしなってしまったのだ。
 毎日ちょっとずつ、いろいろなものが狂ってゆく。
 高校三年生の夏、僕は引き返すことのできないゆるやかな坂道を下っていた。

                    *

 一九六九年の七月二十日、アメリカの宇宙船アポロ11号が人類初の有人月面着陸に成功した。
 静かの海に降り立ったふたりの宇宙飛行士——ニール・アームストロングとエドウィン・オルドリン——は、いくつかの観測装置と歴史的なジャイアント・ステップ、それからちょっとした名言を月面に残して二時間半の船外活動をおえた。それは米ソ間の宇宙開発競争における最大の成果であるとともに、国家の枠組みを越え、地球に住むすべての人々にとって偉大な事業であったはずだ。
 その記念すべき七月二十日に、五十嵐は自身がかかえる悩みにひとつの結論を出した。
「しばらくやめにしない?」
「やめにするって、なにを?」
「ここで会うの」
 カッターシャツのボタンを留める手を休め、テーブルの上に座る五十嵐を振り返る。彼女はブラウスを膝に乗せ、言いにくそうに顔を伏せていた。
「しばらくって、いつまで?」
「補講期間がおわるまで。いきなりでごめんなさい」
「それって夏休みがおわるまでってことだよね」
「お願い。考える時間がほしいの」
 ただの恋人と、同じこころの病気にかかったたったひとりの理解者。僕が五十嵐に求めているものと五十嵐が僕に求めているものは違う。この日まで、僕たちはその問題を腫れものに触るように先送りにしてきた。彼女はひとりでその問題と向きあいたがっている。僕とふたりでは正しい選択ができないと感じているのかもしれない。
 どうすればうしなった信頼を取り戻すことができるのだろう。
 いまはなにをしても裏目に出る気がする。
「わかったよ。あしたからここにはこない」
 ものわかりのいいふりをして、くたびれたスクールバッグを肩にかける。
「中原くん」
 ドアの前で腰をかがめ、下枠の溝から衝立がわりにしていた木の板をはずしたところで呼び止められた。
「ごめんなさい、あなたが望むものをあたえてあげられなくて。たいした用事もないのに電話してみたり、手をつないで街を歩いたり、記念日にプレゼントを贈ったりしてあげられなくて。恋人になってあげられなくて」
「……謝ることじゃないよ」
 謝らなくちゃいけないのは僕のほうだ。僕はずっと、きみが望むものをあたえてあげられる人間になりすましていた。
 五十嵐と別れた直後から頭がぼうっとしてきた。家に帰り、シャワーを浴び、食卓についてもその状態はつづいた。母親に熱中症ではないかと心配されたくらいだ。
 四月のことを思い返していた。五十嵐と密会をはじめた四月のことを。
 教師やほかの生徒に密会がばれないよう、僕たちは第一理科室では電気を使わないという約束を設けた。なるべく大きな声を出さないという約束も設けた。薄暗い室内でおたがいの顔を確認しはっきりと声を聞き取るには近くにいなくてはならない。そのような事情で、僕たちは自然とテーブルの上で身を寄せあうようになった。毎回そうしているうちに、だんだんと身体に触れている時間が長くなった。やがて僕たちは、まるで神様にプログラムされていたみたいに、どちらともなく診察を開始した。
 肌を重ねれば重ねるほど近くに感じられた五十嵐とのこころの距離は、いまや大きく開いてしまっている。
 五十嵐が遠くへいってしまったのか、僕が遠くへきてしまったのか、どっちなんだろう。
 ひとりきりのこの場所は、とてつもなく暗くて寒い。

                    *

 ベニスの運河をゴンドラが進む。僕と優里ちゃんは、それを横目にトロンプ・ルイユが飾られた建物の下を歩いている。
「まさか要ちゃんと異国の地を旅することになるとはね」
「電車で一時間半だったけどね」
「あっちのエリアはアメリカだって。で、反対側はアラブ世界」
「節操ないな」
 海外の観光名所をそっくりそのまま移転させてきたような街並みを抜け、ファストパスを発券しておいたアトラクションの入場口に向かう。夏休みが残り一週間を切った八月のある日、僕は優里ちゃんとふたりで遊園地を訪れていた。
 きっかけは、大学の夏季休暇を利用して僕の家に遊びにきた優里ちゃんが発見した二枚綴りの紙きれだった。僕が勉強机のブックスタンドに挟んだまま放置していたそれは、どうにかして夏休みのあいだに五十嵐と会いたくて購入しておいた遊園地のペアチケットだった。五十嵐がいきたがっていた遊園地を、僕たちの関係を修復する足がかりにできないかと考えていたのだ。いまにして思えば先走った行動だった。メールに書いて送ったデートの誘いは、一日経ってから勉強で忙しいと断られてしまった。そう説明すると、優里ちゃんは「せっかく買ったのにもったいないじゃん」と言って、使うあてのなくなったペアチケットの片割れを引き取ってくれた。
「いまさらだけど、きょうのこと、カレシにはちゃんと伝えてあるの?」
「もちろん。幼なじみの男の子と遊園地にいってくるって言ったら、どうぞどうぞ、って感じだったよ。私もあの人を束縛したりしないし。心配しないで」
「そっか。信頼しあってるんだ」
「長いつきあいですから」
 そんなふうに胸を張れる優里ちゃんを少しうらやましく感じた。五十嵐は僕を信頼していない。そして僕もまた彼女を信頼していない。いまごろシゲといっしょにいるんじゃないかと疑っている。好きな女の子と親友の関係を疑っては愚にもつかない妄想にとらわれ、必死にそれを否定できる材料を記憶のなかからかき集める。密会をやめてからきょうまでの日々は、そうやってすぎていった。
「要ちゃんのほうこそ、本当に私ときてよかったの? チケットの有効期限一年なんでしょ。まだ好きな女の子とくるチャンスあったんじゃない?」
「ないよ、たぶん」
 いま僕がもっともおそれているのは、五十嵐が考え抜いたすえに密会を完全におわらせるという審判をくだすことだ。そうなるのを回避するため、僕はこの夏休み、密会をしていたころはたまにしか送らなかったメールを頻繁に彼女に送った。あんまりしつこいとかえって彼女の気持ちを遠ざけてしまうんじゃないかとか、必死さがにじみ出ないように文章は短くまとめたほうがいいんじゃないかとか、そんなことにいちいち神経を使いながら。何度か電話をしてもみた。しかし反応はそっけないものばかりだった。一日二日経ってから返ってくるメールの文面はどこか事務的で、電話がつながることはなかった。
 もう、どんな言葉も五十嵐の胸に響かない。
 この坂道を下りきった先に待っているのは、きっと僕がもっともおそれていることだ。
「人を好きになるのがこんなにつらいものだとは思わなかったよ」
「そうやってちょっとずつ大人になっていくんじゃないかな、みんな」
 優里ちゃんは励ましも慰めもしない。ただありのままの僕を受け入れてくれる。だから彼女にはなんでも話すことができる。もし僕がなにかの間違いで人を殺してしまったら、まっ先に電話するのは彼女だろうなと、ときどきそんなくだらないことを考える。
 それから僕たちは、小型の潜水艇で深海を探索し、ジャズバンドの演奏を聴き、トビウオの背中に乗って空を飛び、お化け屋敷と呼ぶにはあまりにも豪奢な洋館で寿命を縮めた。子どものころ好きだった人と、子どもに戻ってファンタジーの世界を楽しむ。白昼夢のように現実味のない時間は、五十嵐のことでいっぱいだった僕の頭につかの間の休息をあたえてくれた。
 だけどひとたび優里ちゃんがとなりからいなくなると、本来そこにいるはずだった五十嵐のことを考えてしまう。
「ゼミの友だちから電話。ついでにトイレいってくるから、ここで待ってて」
 帆船がゆき交う港で、僕は急にひとりぼっちになった。河口の鉄柵に腕をあずけ、濃い藍色をした水面を覗きこむ。
 解けない謎が水面に浮かび上がる。
 五十嵐の言うたったひとりの理解者とは、いったいどのような存在なのだろう。
 傷つきやすく、自分を傷つけながらでないと生きていけない。五十嵐と同じこころの病気に苦しんでいる人はどこにでもいる。イタリアにもアメリカにもアラブにも、そしておそらく、僕たちが通っている学校にも。ただしそんなのは血液型や肌の色が同じ、という程度の意味あいでしかない。彼女はもっと深い精神的なつながりを求めている。友人よりも恋人よりも、ひょっとしたら家族よりも深いつながりを求めている。
 人と人とがそんなふうに理解しあうなんて、本当に可能なのだろうか。
「お待たせ。はい、これ。おみやげ」
 長電話から戻ってきた優里ちゃんの両手に、二段重ねのカラフルなアイスクリームが一本ずつ握られていた。そのうち片方を受け取り、「ちょっと休憩しよっか」と言う彼女とともに近くのベンチで脚を休める。
「例の女の子のこと考えてたでしょ、さっき」
「なんでわかったの?」
「わかるよ。だって要ちゃん、世界のおわりって顔してたもん」
 そうだったのか。ぜんぜん気がつかなかった。
「恋がおわるのって、世界がおわるようなものなのかもね」
 含蓄のあるようなないようなことをつぶやいて、優里ちゃんはアイスを口に運んだ。彼女の艶のあった直線的な髪が麦畑に訪れた朝のような明るい色に染まっていることに、僕は少し胸を痛める。
 海をテーマにした遊園地は防風林に囲まれていて、敷地内はほとんど風が吹かない。運河を眺めながらアイスを食べていると、気温が今朝天気予報のアプリで確認した数値より二、三度低く感じられた。
「優里ちゃんはカレシのどんなところが好き?」
「え、どうしたのいきなり」
「なんとなく気になって」
 優里ちゃんは恋人についてあまり多くを語らない。SNSにおいてもそうだ。もともと大学の先輩と後輩だったという事情もあってか、恋人と旅行をしても風景写真しかアップロードしない。説明文にもだれと旅行をしたかは書かない。二十二歳の彼女には高校生にない思慮と分別がそなわっていて、のろけ話をして面白いのは本人だけだということをきちんとわきまえているのだ。それでも、人物の写っていない写真と前置詞が抜け落ちた文章からは恋人への愛情がしっかり伝わってくる。僕はその愛情の出どころが知りたかった。
「なんだろ、ありのままの私を受け入れてくれてるっていうのかな。あの人の前では無理をしたり飾ったりしなくてもいいの。だからいっしょにいるとすごい楽。そういうところが好きですね、はい」
 目の前を僕と同年代の男女が通りすぎていった。夏休みの遊園地なんて十代の恋人たちのためにあるようなものだ。注意して歩けば、同級生のデート現場に遭遇できるかもしれない。
「あとはそうだね、私のことがよく見える場所にいてくれるところとか」
「よく見える場所?」
「そう。カメラって被写体に近づきすぎると焦点があわなくなるじゃない。かと言って遠すぎても対象物をとらえられない。距離感がだいじなんだよ。あの人は私のことがよく見える場所にいて、私がなにを求めているのかをよく理解してくれてる」
 いつの間にか、僕はアイスを食べるのも忘れて優里ちゃんの話に聞き入っていた。
「ときどき私以上に私のことを理解してるんじゃないかって思うよ。うわ、なんか自分で言ってて恥ずかしくなってきちゃった。ごめんね、抽象的な答えばっかりで」
 バニラ色の涙が手の甲を伝い、石畳の地面に小さなシミをつくる。
「……要ちゃん?」
 僕は顔を上げることができない。
 溶けはじめたアイスとともに、夏がただれ落ちてゆく。
 十七歳の僕たちにとって、あらゆるものごとの中心には異性が位置している。それでいて、僕たちは常にその外側を衛生のようにぐるぐるまわり、抜け出したくても抜け出せないジレンマに頭をかかえることしかできない。
 高校三年生になった春から、僕の世界の中心には、いつも五十嵐がいる。だけど僕がいまいる場所からは彼女のことがよく見えない。彼女の気持ちを取り戻したいとこんなにも必死になって考えているのに、彼女が求めているものがちっとも理解できない。
 あの七月二十日に、僕は月の裏側に迷いこみ、そこから帰れなくなってしまったのだ。

                    *

 二学期の始業式を翌日にひかえた日曜日の夜、シゲから電話がかかってきた。
「あいつらもう帰った? んじゃいまからそっちいくわ」
 ちょうどそのとき、僕は駅を目指して歩道橋を渡っていた。五十嵐のことが好きだとシゲが打ち明けてくれた、あの歩道橋だ。コバの発案で開かれた夏休みを締めくくるカラオケ大会の帰りだった。
 鉄道の高架下で、鉄筋コンクリートの柱を守るように張られたフェンスにもたれてシゲを待つ。彼と会うのは水野と三人で野球部の試合を観戦したあの日以来、およそ一ヶ月半ぶりだ。その間、彼とはいっさい連絡がつかなかった。コバが無料通話アプリのグループメールで送信してきたカラオケの誘いも、読んだ形跡はあるのに返信がなかった。SNSの更新も止まっている。そのせいで、彼とさほど親しくないクラスメイトたちは、繁原自分探しの旅に出た説だとか死亡説だとか、好き勝手に冗談交じりの説を展開していた。
 旅する死人は僕に数分遅れて待ちあわせ場所の高架下にやってきた。インディゴブルーのシャツにベージュのチノパン、靴はデッキシューズという夏らしい装いで。端正な顔立ちによく似あっていた短髪は、しばらく見ないあいだに不格好に伸びていた。
「ひさしぶり。元気してた?」
「元気元気。シゲは?」
「俺も元気元気」
 自動車のヘッドライトが夜道を切り裂いてゆく。僕とシゲは人ひとりぶんの間隔を空け、フェンスにもたれてその光景を眺めていた。
「いままでどこでなにしてたの? ずっと心配してたんだよ」
 嘘だ。僕は心配してなどいなかった。心配していたのは、コバと水野のふたりだ。
「そのうち話すよ」
 がっかりして、ほっとした。シゲが音信不通になったのと五十嵐が密会を休止したのはほぼ同時期だった。この符合がなにを意味しているのか知りたい。でも知りたくない。僕のなかには、相反するふたつの感情が同居している。
「コバ、俺のことなんか言ってた?」
「友だちならメールくらい返せってぼやいてた。キレぎみだったよ」
「マジか。あした学校で顔あわせんの気まずいな」
 シゲが腕を組み、弱ったような笑みでうつむく。見た目は男らしいのに、彼には意外と繊細なところがある。
 野球部の三年生が結成したダンスユニットの名前がコバのごり押しでBUKATSU NO OWARIに決定したこと、水野が恋人の誕生日になけなしのバイト代をはたいてペアリングを贈ったこと。それから、シゲのいないカラオケがいまいち盛り上がらなかったこと。シゲにこの一ヶ月半の近況をかいつまんで報告する。大半はSNSに書かれていたため、情報に新鮮味がなく、会話はあまり広がらなかった。
 こんなのはじめてだ。以前なら、目ぼしい話題がなくても、コバと水野がいなくても、際限なく会話を広げることができた。一ヶ月半という時間が、僕にシゲとの会話における間の取りかたを忘れさせていた。あるいは、彼がショートケーキのイチゴみたいにだいじに残している本題が僕を緊張させているのかもしれない。
 さっきの電話で、シゲは時間があったら話したいとだけ言って用件には触れなかった。だけど、わざわざコバと水野がいなくなるタイミングを見計らって僕を呼び出す理由などひとつしかない。
 五十嵐だ。
「てか要に聞きたいことがあんだけど」
 きた。つばを飲みこみ、口をすべらせることのないよう気持ちを落ち着ける。
 湿気をはらんだ空気が身体にまとわりつき、髪の毛先から汗のしずくがこぼれた。
「聞きたいことって?」
「第一理科室の幽霊って知ってる?」
 第一理科室。その言葉にきゅっと首をしめられながらも、僕は知らないと答える。
「だよな。俺もコバに教えてもらうまで知らなかった」
 シゲによれば、なんでもその幽霊とやらは、下校時刻が近づいてくると姿をあらわすのだそうだ。第一理科室の窓辺にたたずみ、グラウンドにいる生徒たちをうらめしそうに見下ろすという。その正体はいじめを苦に硫化水素で自殺した女子生徒で、目があった者は数日中になんらかの病気やけがに見舞われるという設定だった。ちなみに、目撃者の証言では幽霊は髪が長くて目つきが悪く、そして案外かわいいらしい。
 間違いない。幽霊の正体は五十嵐だ。だけど、彼女は僕がいなくなった第一理科室でなにをしていたのだろう。窓辺に立てば人目につくことくらい想像できたはずだ。それに、シゲが僕にこの話をした意図もわからない。僕と彼女の関係に気づいているのだろうか。
 心臓をゆらす轟音とともに、電車が頭上を通過してゆく。
「くだらない。硫化水素で自殺した女子生徒の話なんて初耳だよ。それに、幽霊はだいたい髪が長くて目つきが悪いでしょ」
「それもそうだ」
 シゲがチノパンのポケットに左手をつっこみ、なかを漁る。
「じゃあこれは?」
 ポケットから取り出した小さな器具を、シゲは人差し指と親指の腹でつまんで僕に突きつけた。その瞬間、僕は彼が第一理科室の幽霊の話をした意図を理解した。
「今度は知らないとは言わせない」
 返事をしようにも、蛇口を閉めたみたいにのどが詰まって声が出せない。シゲの瞳のあざやかな黒が、まっすぐ僕に向けられていた。
 小さな器具にはラバー素材の留め具がついていて、銀色のブレードには「S−0306」という番号が刻印されていた。留め具にもごていねいに対応する教室の名称を書いたラベルが貼ってある。僕はそれに見覚えがあった。
 シゲが僕に突きつけたのは、第一理科室の鍵だった。