karte4(♂)『ページをめくる』

 ついに核は落とされた。
 二名の男子生徒による言い争いは次第にエスカレートし、いつしか殴りあいの喧嘩に発展し
た。最初は遠目に様子を見ていたほかの生徒たちも、いまでは率先して当事者になろうとして
いる。仲裁しようとする者もいれば、退席中の体育教師を呼びに走る者もいた。体育館で授業
を受けている最中のできごとだった。
「やっべー、ドラマみてえ。修羅場だよ修羅場」
「止めにいかなくていいの? コバ、あのふたりと仲よかったでしょ」
「無駄に正義感振りかざすやつ嫌いなんだよね、俺。あいつらはいつかこうなる運命だったん
だって」
 ふだんはなんにでも首を突っこみたがるくせに、こういう場面ではやけに冷淡なコバだっ
た。だけど彼の言わんとしていることも理解できる。これは部外者がわけ知り顔で立ち入って
いい問題ではない。当人たちにしか分かちあえない感情と事情がある。だからこそ僕も観客の
立場を選んだのだ。
「こりゃ気まずくなりそうだわ」
「拳で語りあって仲直り、ってわけにはいかなさそうだね」
 フローリングの床に、投げ捨てられたバドミントンのシャトルとラケットがさびしく転がっ
ていた。
 この二名の男子生徒はもともと同じ部活に所属する友人同士だった。しかし一方の恋人がも
う一方と関係を持ったことで決裂し、ここ二週間ほどキューバ危機さながらの冷戦状態になっ
ていた。緊張は日に日に高まっていき、教師という大人不在のこのタイミングで、おたがいの
正当性を主張する口論がはじまった。あいつを束縛したおまえの自業自得だろ? は? 意味
わかんないんだけど。人の女に手ぇ出しといてなに説教垂れてんの? そんな具合に。この手
の対立が口論で解決するはずがない。暴力は振るわれるべくして振るわれたのだ。
 ほどなくして事態を聞きつけた体育教師が体育館に戻ってきた。談話室に連行されるあいだ
も、二名の男子生徒は一触即発のにらみあいをつづけていた。
「俺もシゲにエリカ取られたらああなっちゃうな〜」
「なんで俺がコバの嫁取るんだよ。会ったこともねえのに」
 すぐ近くにいたシゲが、冗談交じりにコバのふくらはぎを蹴る。まわりでは中断されていた
ゲームが続々と再開されていた。
「言っとくけど、おまえには絶対エリカ紹介してやんないから」
「はいはい」
 コバを軽くあしらい、シゲはとなりのコートに去っていった。一回ガチで勝負しようぜと声
をかけて、水野がその広い背中を追いかける。
 繁原勇樹。僕たちが形成するカルテットのブレーキ役を担う彼は、僕もコバも水野も持って
いないものを持っている。それは丈の長い体操服を立体的に見せる引き締まった筋肉であり、
同じモンゴロイドとは思えないくっきりとした目鼻立ちであり、恵まれた肉体に裏打ちされた
強い自信だ。自信があるから、彼は他人の顔色をうかがったりしない。迷いのない足取りで、
自分の選んだ道をまっすぐに進んでゆく。なによりもノリと空気を重んじるのが高校生という
生きものなら、彼はきっと高校生じゃない。
 シゲといると、ときどき自分の幼さを突きつけられているような気分になる。だから僕に
は、彼に恋人を紹介したがらないコバの気持ちがよくわかった。
「で、僕にはいつエリカちゃん紹介してくれるの?」
 ネットの反対側に立ったコバに向けて、軽くラケットをスイングする。
「初エッチがすんだら考えるわ。それまではなるべく浮気の芽は摘んでおかないとな」
 シャトルを打ち返してくるコバの口調は本気だった。
 コバが恋人に冷たくされているのは、きっと愛が重すぎるせいだ。

 喧嘩した二名の男子生徒やコバとは違い、僕の恋はすこぶる視界良好だった。
「私、生まれる性別間違えたかも」
 腕の中で五十嵐がそうこぼした。彼女は面接を受けるときみたいに行儀よく両手を膝に添え、行儀悪く実験用の黒いテーブルに座っている。僕は背後から彼女を抱きしめ、頑固なブラウスのボタンをひとつひとつはずしていく作業に苦心していた。
 きょうも僕たちは第一理科室でこころの病気を診察しあう。いけないことを、いけるところまでする。
「性別間違えたって、男に生まれたかったってこと?」
「ほら、女って常に愛嬌としたたかさが求められるでしょ。異性に気に入られるための愛嬌と、同性を敵にまわさないためのしたたかさがね。そんなのが死ぬまでつづくんだと思うとぞっとする。私はどちらも持ちあわせてないから」
「でも、男だってなにかと大変だよ」
「じゃあ生まれてこなければよかった」
 なんでそうなるのか、僕にはさっぱり理解できない。
 五十嵐の精神状態は極端だ。ハイとロー、アッパーとダウナー、ネガとポジ。彼女のテンションを示す針はたいていどちらかに大きく傾いていて、真ん中にとどまっていることはめったにない。針がマイナス方向に振れている日の彼女はとことん自虐的で、奇妙な愚痴が、予想もつかないタイミングで飛んでくる。
「もし五十嵐が生まれていなかったら、僕の放課後は退屈なままだっただろうな」
 ブラジャーの下に指を滑りこませ、熱を帯び硬くなった五十嵐の乳房を触診する。僕にしてみれば、彼女の悩みは二の次で、いまはこっちに集中していたい。
 細い肩が一瞬ぴくんとこわばり、次第に力が抜けていった。レコードに針を落とすように、梅雨の湿気に汗ばんだ五十嵐の首筋にそっと口づける。
「愛嬌もしたたかさもいらないから、五十嵐は五十嵐のままでいてくれ」
「中原くんがそう望むのであれば」
 僕はいつまでも五十嵐の身体を触っていたい。ほかのだれかじゃ嫌だ。五十嵐じゃないと。
 後頭部に五十嵐の手が伸びてくる。直後、薄くかわいらしい唇にひそむ彼女の獰猛さが僕をとらえた。舌を絡め取られ、唾液が口腔内をゆき交う。
 度重なる放課後の密会によって、僕は五十嵐すみれという女の子について多くのことを学んだ。どんな言葉をかければ彼女を喜ばせられるのか、どこをどんなふうに触れば彼女の身体の緊張を解くことができるのか、その手順でさえも。
 五十嵐はなかなか唇を離そうとしなかった。先月海にいって以来、僕たちの親密さは確実に増している。彼女を外に誘い出したのは結果的に大正解だった。
「ねえ、私たちっていま小説で言ったら何ページめかな?」
 ひととおり診察がすんだ後、今年の干支ってなんだっけ、とでも尋ねるような調子で五十嵐が質問してきた。
 カッターシャツに袖を通し、頭の中に一冊の小説を思い描く。
「六十……いや、七十ページくらい?」
「先は長いね」
 五十嵐とともにすごしたこの二ヶ月半は目まぐるしく濃密だった。毎日が早送りで、そのひとコマひとコマが寓意画のように意味を持っていた。されどたかが二ヶ月半だ。ゴールがどこにあるにせよ、僕たちの物語はまだ序盤でしかない。
「そろそろ次のページに進む?」
 気が遠くなるほど言葉を交わし、数えきれないほどの愛撫をした。僕と五十嵐は少年と少女から男と女になるため必要な手つづきを順調にパスしてきた。僕のほうはもう次のステップへ移る準備はできている。あとは彼女次第だ。その気がない相手に一方的に欲望を押しつけたらどうなるかは、シゲのように恋愛経験が豊富でなくともたやすく想像できる。
「そうだね、気が向いたら」
 カーテンの隙間から漏れる淡い光がテーブルに陽だまりをつくっている。その中で五十嵐が微笑んでいた。あたたかく、やわらかく。こころの病気なんて感じさせないほどに。クラスの中で見せるつくり笑いとは違うその笑顔は、筆舌に尽くしがたい魅力を持って僕のこころを満たしてくれる。
 僕は五十嵐に嘘をついている。三ヶ月前のあの日、あのときにはじまった嘘がなければ、この笑顔を見ることはできなかっただろう。
 この笑顔のためなら、僕はほら吹き男爵にでもクレタ人にでもなれる。
 嘘つきでかまわない。
 五十嵐といたい。
 外からくぐもった時報音が聴こえてきた。部活動に所属していない生徒に下校をうながす下校時刻のチャイムだ。テーブルの脇にどけていた腕時計を左手首に巻く。診察終了だ。
「いけない、もうこんな時間」
「まだ五時半なのに。せっかちなんだよ、この学校は」
 通常、僕たちはなるべくクラスメイトと遭遇しないように、下校時刻の十分前には密会を打ち切るようにしている。きょうは診察が少し長引いてしまった。
「……帰りたくない」
「さくらちゃん、だっけ。また喧嘩したんだ?」
「今回は妹じゃなくてお母さん。あの家の人たちって、なんでみんな自己中なんだろう。ほんと嫌んなる」
 丸椅子に座り直し、駄々っ子みたいにテーブルにへばりつく五十嵐。彼女は血のつながった家族をあの人とかあの家の人たちとか、ときおりそんなふうに呼ぶ。なかなかしんどい家庭環境のようだ。きっと自宅に居場所がないんだ。最後に両親と口論したのがいつだったかも思い出せない僕とは、根本的に背景が違う。
 だから僕は、気休めを口にするので精いっぱいだ。
「あした、またここで」
「うん。また」
 診察中は悲しいことも苦しいことも遠くに吹き飛んで、ただそれのみに集中できる。ここが僕たちの居場所だ。だれにも侵すことのできない、ふたりだけの居場所。
 居場所はだれにも侵すことができず、親密さは確実に増している。自分で壊しでもしないかぎり、僕と五十嵐のとくべつな関係は今後もこのままつづいてゆくだろう。
 友人に恋人を奪われた男子生徒は怒りながら泣いているように見えた。
 僕はああはならない。絶対に。

 中館を経由して北館の校舎に戻る。
 僕と五十嵐のあいだには下校に一定の間隔を設ける取り決めがあった。僕は密会終了後すぐに下校し、五十嵐は最終下校時刻の二十分前までねばる。クラスメイトに関係を知られないためのリスク管理の一環だ。
 午後五時にもなると、帰宅部の生徒はほとんど校内に残っていない。部活動に所属している生徒にさえ気をつければ危なげなく下校できる。
 ただし、毎回そうとはかぎらない。
「珍しいね、こんな時間まで学校にいるなんて。これから帰るとこ?」
「うん。文化祭の打ちあわせしてたの。中原くんは?」
「中学の後輩が美術部にいてさ。ちょっと顔出してた」
 靴箱の前で鶴田さんとばったり遭遇してしまった。彼女とは帰る方向も利用する電車も同じだ。行きがかり上、いっしょに帰らないわけにはいかない。
 コンビニとクリーニング屋とスポーツショップがならぶ通りを鶴田さんと歩く。夕方にもかかわらず、外は分厚い絨毯にくるまれたみたいに蒸し暑かった。
「中学の後輩ってどんな子?」
「人見知りでおとなしい子だよ。でも、こころを開いた相手には饒舌になる」
「もしかして女子?」
「嫌だなー、後輩の女子目当てで部活を邪魔する上級生」
 僕を見上げて、違うの、そういう意味で言ったんじゃないの、と必死で弁解する鶴田さんがおかしい。彼女に語った内容は半分嘘で半分本当だ。美術部に中学の後輩はいない。こころを開いた相手には饒舌になる女子はいる。美術室ではなく、第一理科室に。
 校門を出てしばらくは会話がよどみなくつづいていた。だけど五分もすると不自然な間が生じはじめ、駅について利用客の減った電車に乗るころには、会話と間の長さが完全に逆転していた。意識して話を振ろうとすると、かえってなにを話せばいいのかわからない。ならんで座っていても人ひとりぶんくらいの距離を感じる。むかいの席では、僕たちと色違いの校章をつけた一年生の男女が、スマートフォンの画面を覗きこんで楽しそうに肩をくっつけていた。くそう、あの余裕がうらやましい。
「そうだ、鶴田さんに教えてもらいたいことがあったんだった」
 苦しまぎれにぺしゃんこの学生鞄から参考書を取り出す。鶴田さんは勉強が得意だ。
 すぐそばに鶴田さんの髪がある。五十嵐の直線的で艶のある黒髪とは似ても似つかない、三日月の輪郭のような曲線を描く明るい髪が。
 四月までは僕はよくこの髪を見ていた。出会ったのは五十嵐よりも鶴田さんのほうが一年早い。クラス委員の仕事が接点となり、相対性理論とカヒミ・カリィとトクマルシューゴが結びつきを強くしてくれた。レンタルショップにいくよりも彼女にCDを借りることのほうが多かったくらいだ。月に一度はこんなふうにいっしょに帰ったりもした。なのに告白を断ったあの日からすべてが変わってしまった。表面上はこれまでどおりに振る舞っていても、どこかしっくりこない。彼女もそう感じているはずだ。
 五十嵐と出会っていなかったら、僕は鶴田さんを選んでいただろうか。
 たまにそんな卑怯なことを考える。
「あの、私も中原くんに教えてもらいたいことがあるんだけど、いいかな?」
 鶴田さんがローファーのつま先に視線を落として尋ねてきた。
 手を重石にして、参考書を開いたまま膝の上に置く。
「いいよ。なに?」
「中間明けの日曜日、中原くんなにしてた?」
 中間明けの日曜日と言えば、五十嵐とふたりで海に出かけた日だ。でもそれを教えるわけにはいかない。
「なにしてたっけな。たぶんコバや水野と遊んでたんじゃないかな。鶴田さんは?」
「私ね、小学生の弟がいるの。あの日は両親が法事で家を空けてたから、私が保護者代わりになって弟を水族館に連れていったの」
「面倒見いいんだ、鶴田さん」
 無邪気に走りまわる弟を、後ろから厳しくもあたたかくたしなめる鶴田さん。そんな姿がありありとイメージできた。彼女にはもともとそういうところがある。実行委員でもないのに文化祭の打ちあわせに参加するなんて、面倒見がよくないとできない。試験明けの休日くらい家でゆっくりするか友人と出かけて羽を伸ばしたいだろうに、弟と水族館……。
 水族館?
 はっとして鶴田さんの顔を見る。糾弾するでも軽蔑するでもないまっさらな瞳が、じっとこちらに向けられていた。
「いたよね、中原くんも。五十嵐さんといっしょに、あの場所に」
 車体が振動する音が、心臓の音と絡みあって不整脈になる。
 参考書を押さえていた手が勝手に離れ、ぱらぱらとページがめくれた。
「五十嵐さんとつきあってるの?」
 後悔が胸をかき乱す。僕は馬鹿だ。だれも知らない、だれにも知られてはいけない、僕と五十嵐のとくべつな関係。どうしてそれがなんの障害もなくこの先もつづいてゆくと信じきっていたのだろう。どうして物語を進めるのは自分だと思いこんでいたのだろう。自分の未来が他人の意思によって選択されることだって、ありうるのに。
 振動音がだんだん大きくなって耳を圧迫していた。
「教えて、中原くん」
 物語が転がり出す。
 ページをめくったのは、鶴田さんだった。
sage