Neetel Inside 文芸新都
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 新都駅で乗車してきた男が対面に座ると、銀二の気はピンと張りつめた。男の足元には紙袋がある。これが例のブツなのだろう。確かめるように男の顔を見た。しかし、視線はかみ合わない。男はあらぬ方向を見つめ、不気味な笑いを湛えている。
 銀二はハッと気付き、目を伏せる。
(しもうた。なんちゅー初歩的なミスを、ワシは)
 取引において重要なこと。互いの関係性を周りの人間に悟られてはならない。基本中の基本だ。
 エクスタシー(※)の売り子を募集する書き込みがされたのは一週間前、某大衆掲示板でのこと。“とても尊い水”の大量残品以来、シノギに飢えた銀二にとっては神の啓示に等しかった。
 ネット上の依頼は冷やかしが多い。わかってはいても、現場に向かう足は止められず。だが結果、こうして取引相手は現れたのだ。銀二は口元が吊り上がるのを堪えられなかった。
 中学校卒業から現在まで、銀二は闇稼業一筋で生きてきた。学はないが、生命力と狡猾さなら誰にも勝る自信がある。ドブネズミのようだ、と同業からは揶揄されるが、彼にとってそれは称賛だった。
 泥水を啜って生きてみせる。鉄の覚悟は風貌にもあらわれ、眉間に深い皺を刻んだ。仁王のごとき顔面は、一見して「カタギでない」と知らしめる迫力がある。
 それに比べて。正面の男はあまりに凡庸だった。まず、表情には覇気がない。体型もだらしなく、全身に柔肉がへばりついているようだ。服装や髪型こそ整っているものの、繕っただけという印象は拭えない。
 まるで、ただのひなびたサラリーマン。しかし状況からすれば、男も銀二の同類のはず。いやむしろ、薬をばら撒く元締側の人間なのだから、位は一つ上かもしれない。能ある鷹は爪を隠すという。周囲を脅かす威嚇ではなく、擬態こそが強さなのか。銀二は男に感心していた。
 電車が終点に停まる。扉が開くと同時、男は速やかに去っていった。残されたのは例の白い紙袋。
(やっぱり取引は本当だったんやっ!!)
 他の客が降りるのを待って、銀二は袋に飛びついた。喜び勇んで中を確認する。
 そして、混乱に突き落とされた。見開いた目に映ったのは、箱いっぱいに描かれたコケティッシュな女子おなご。合成麻薬とはまったく別のエクスタシーをもたらしそうな。銀二はその存在と名称だけは知っていた。
 ――いわゆる、エロゲーというやつだった。


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 六畳一間の自室に戻ってから、銀二は改めて荷物を確かめた。しかし、何度見ても変わらない。ゲームパッケージはダミーで、中にブツが入っているかもという目論みも外れた。得られたものはインストール用のディスク一枚のみ。
 銀二は考えた。結局、取引は失敗したのか。いやそもそも、取引は存在したのか。
「……全部……全部、ワシの勘違いやったのか」
 わなわなと震える。
 売り子の募集など真っ赤な嘘で。電車の男は一般人。単に車内に忘れ物をしただけ。状況を鑑みれば、そう考えるのが自然だった。
「ド畜生っ!! ド畜生っ!!」
 銀二は部屋中を暴れまわった。隆々とした腕を振り上げ、“とても尊い水”を殴りつける。
泣きっ面に蜂とはこのこと。いくら怒りを爆発させても、時間も金も返ってこない。行き場のない後悔は台風のように荒れ狂った。
 やっと破壊が収まるころ、銀二は肩で息をしていた。紅潮した顔で辺りを見る。商品や家電が散らかり、惨状と化す室内。その端に、エロゲーが転がっている。下着をチラ見せするパッケージの女は、挑発しているかのようで。
「こんなもの……こんなもの……っ」
 箱を片手で鷲掴む。勢いのまま叩きつけようとして、思いとどまった。
 どんな物でも大切にしよう、などという良心からではない。浅ましい打算からだ。薬が手に入らなかったとはいえ、エロゲーは今日の戦果である。また、オタクグッズには高値で取引されるものもあるという。転売すれば、一儲けできるかもしれない。生活への切実さから、銀二の頭はめまぐるしく回った。
 早速、デスクトップPCに電源を入れる。相場を調べるため検索ページを開いたところで、またも手が止まった。自慢の顎髭の撫で、考え込む。
 転売という稼ぎ方について、銀二にはポリシーがあった。バイヤーは商品について、誰よりも詳しくなければならない。市場が認める価値について、誰よりも知っていなければならない。
 エロゲーの取り扱いは今回一度きり。オタクの世界に踏み込む必要などないはず。理屈では正しい。だが、彼のプライドは小さく声を上げ、存在を主張した。商品について門外漢など、それではまるで素人ではないか。
「まあ、せめて、触りくらいはプレイしたろか」
 迂闊だったと言わざるを得ない。


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 ゲーム開始早々、幼い女子が注意を述べた。曰く、ゲーム内に登場する人物はすべて18歳以上であるらしい。銀二は衝撃を受けた。幼い女子だと思っていた彼女は、幼い女子ではなかった。成熟した女だったのだ。本人が言うのだから間違いない。
「こんな若作りがおるもんなんやな」
 疑惑を飲み込んで、ゲームを進める。
 物語は主人公らしき男の一人語りから始まった。男はどこにでもいる平凡な学生。ただし、親は海外出張に行っており、家では従順な妹・こころと二人暮らし。隣の家には幼馴染・真来菜が住んでいて、あれこれ世話を焼いてくる。学校では、才色兼備な生徒会長・浅華に一目置かれ、小悪魔な後輩・美希に性的イタズラを仕掛けられる日々。
 銀二は衝撃を受けた。もし中学から“学園”という所に進学していれば、女に囲まれる毎日が平凡だったのだ。
「羨ましい限りやな」
 ひとりごち、テキストを読み進めていく。
 やがて、銀二は選択を迫られた。懇意になった女の中から、付き合う相手を決めなければならない。ぬるま湯のようなハーレムから一転、苦渋の選択肢。彼はマウスを持ったまま呻き声を漏らした。
「どないすればええんや……」
 各ヒロイン、それぞれに捨てがたい魅力がある。幼馴染・真来菜は一途に主人公を愛してくれる。生徒会長・浅華は母親のような包容力がある。後輩・美希との掛け合いは親愛とユーモアに溢れていた。妹・こころとの、インモラルな恋愛も捨てがたい。
 一つを選ぶということは、他を切り捨てるということ。可能性という残酷さに、銀二は打ちのめされた。
 小一時間悩んだ挙句、やっとのことでカーソルを動かす。
「会長っ、ワシは会長のことが好きやっ」
 雄たけびとともに、選択肢をクリックする。しかし、場面は固まったまま次に進まない。……否、銀二はクリックをしていなかった。人差し指が石のように硬直したのだ。
「な、なんでや、なんで指が動かん。ワシは浅華と添い遂げるんや」
 繰り返しクリックを試みても、体が言うことを聞かない。困惑の渦中、脳裏に幼い声が届いた。

『えへへ、ねぇ、大人になったら私をお嫁さんにしてね、絶対、約束だよ』

 銀二を押しとどめたものの正体。それは、前半の回想シーンで聞いた、幼馴染・真来菜の言葉だった。台詞はリフレインし、狭い一室を埋め尽くす。淀んでいた空気が取り払われ、心の趨勢までもが入れ替わった。
「真来菜あああぁぁぁっ!!」
 銀二は絶叫した。走馬燈のように、真来菜と交わした会話がよぎる。幼少のころより、主人公を想い続けた健気な女。しっかり者のようでいて、その実、主人公に依っているところがある。にもかかわらず。だとしても。仮に他の女とくっついたとて、真来菜はふてくされたりしないだろう。満面の笑顔で祝福し、独り自室で涙を流す。そういう女なのだ。誰よりも弱く、優しい女なのだ。裏切ることなど、できようはずもない。
「すまん、浅華、すまんっ。ワシは真来菜を幸せにしてやらなくちゃならんのやぁっ!!」
 万感の思いを込め、銀二はマウスを握りなおした。


****


 ゲームを終えた銀二は、未だPCの前にいた。椅子に座ったまま、部屋の天井を見上げている。約24時間、丸一日。彼は休憩も挟まずプレイし続けた。食事も摂らなかったために頬はこけ、表情も虚ろ。流した涙は乾ききり、顔にうっすらと筋を残している。抜け殻になった男を、誰がドブネズミなどと呼ぶだろう。強いて挙げるならば、即身仏こそたとえにふさわしい。
 実際、銀二は一種の悟りに至っていた。
 四人の女子と過ごした濃密な時間。あるときは、ヒロインが抱える家庭問題を根本から解決し、大団円の結婚式を迎えた。あるときは、生徒会の一員として生徒をまとめ上げ、理不尽な教師たちに正義の鉄槌をくらわせた。あるときは、実妹と恋に落ちた末に街を出て、二人でひっそりと生涯を終えた。あるときは、神社の巫女として悪鬼と戦っていた後輩を助け、世界を救った。
 銀二は幾つもの時間軸を辿って歩いた。そしてすべての世界線において、重要なのは愛だった。愛の名のもとに結ばれた人間は無敵。愛の前に、あらゆる困難は細事に過ぎない。
 銀二は思い至る。エロゲーとは、信仰だ。人間が人間らしくあるためには、拠り所となるものが必要なのだ。それはつまり、理想――完全なるもの。真善美を兼ね備えた目指すべき、されど手の届かない到達点。美少女とは神だった。エロゲーマーとは生き方だった。
「……闇稼業からは、足を洗おう」
 悟りと同時に、もたらされた結論。身過ぎ世過ぎだけならば獣と変わらない。これからは、愛のために生きるのだ。
 決意してからの銀二は行動が早かった。液晶に向かい、四人の女を落とした指でキーボードを叩く。エロゲー販売サイト、批評サイト、感想サイト。目につく限りを飛びわたり、文章を書き込んでいく。“朝夏”は名作、“朝夏”は最高、“朝夏”こそ人生のバイブル。次々に湧き出してくる言葉は留まることがない。銀二は生まれて初めて、誰かから奪うのではなく、与えることで糧を得られると知った。この啓蒙活動を終えた暁には、究極の世界平和がもたらされるだろう。彼は確信し、夜明けへの時を過ごすのだった。

       

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