Neetel Inside 文芸新都
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Wednesday/境界線を超えるまで




 正鵠を射る――。
 俺は射場の定位置に立ち、的を視界に収めた。ゆっくりと呼吸を整えて、動作に入る。
 普段は森閑とした弓道場。校舎の喧騒から離れ、隔絶された空間。いまは、暗くなるごとにいや増す雨音が辺りを覆っていた。
 専心。
 水煙をあげる激しい雨を、俺は意識から追い出そうとは思わない。受け入れるのだ。包括して、集中する。煩わしい雑音や他人の気配さえ孕んで、心象世界は白んでいく。俺以外のなにもかもが消えていく。閉じていく。……独りになる。
 むかし、正月の席で東京に住む叔父が言っていた。若者たちよ、ぜひともインドに旅に行ってこい。遅くとも大学を卒業する前に、バックパックひとつを背負って。本物の孤独というものを味わってこい。
 いかにも前時代的な価値観だと、思わないでもない。
 リスク管理が何にもまして尊ばれる昨今、治安の悪い海外へ、ガイドも付けずに行ってこいと。とても賢明な判断とは言えない。実際、叔父は大学時代インドに飛んで、しばらく消息不明になったらしい。なんでも、現地で大麻に激ハマりして、解脱しかけていたとかなんとか。当時に気を揉まされた親戚一同にとってみれば、インド旅行の勧めなど「どの口が」という話であって、叔父は年明けから総攻撃を受けていた。
 けれども、そのとき苦し紛れに出てきた言い訳が、妙に説得力があったのだ。叔父からすれば、若き日の過ちを正当化するおためごかしだったのかもしれないが、俺の記憶には鮮明に残っている。
 曰く、青年期になすべきこととは、アイデンティティの確立らしい。
 人間はふつう、状況に応じた複数の自己を持っている。たとえば、決まりを守るしっかり者の自分と、無頓着でだらしない怠惰な自分。まったく相反する性質に思えても、それらは同居し得るのだ。基準は、場所によって、立場によって、ノリによって。社会生活を送る上で、自然と使い分けられる。外では冗談を言う明るいやつが、家だと無口で暗いとか。それほど極端でないにせよ、俺にも少しは心当たりがある。
 多重人格というほど明確ではない。曖昧に溶け合った自己が、ときには自分自身に混乱をきたすこともある。仰々しい言い方だが、要は、人間はややこしいということだ。
 そして、アイデンティティの混乱を解消するには、孤独になるのが手っ取り早い。あらゆる社会的拘束から逃れ、解き放たれた自分を見つめ直せば、モラトリアムに回答を与えられる。と、いうのが叔父の主張だった。
 海外へ『自分探し』に行く連中なんて胡散臭い気もするが、言われてみれば理屈は通っている。バックパッカーはテイの良い引きこもりみたいなものだ。なるほど。
 あいにく、俺はごく平凡な高校生である。バックパッカーになる行動力も、引きこもりになる忍耐強さもない。けれども、弓を握っている短い間は、孤独を味わうことができる。
 射法八節――矢を放つまで一連の動作は、ほとんど無意識下で行われる。外界に気を散らすことなく空白に。あらゆる雑念を捨て去ることが理想である。「道」と名のつく鍛錬は総じて精神性を尊ぶが、弓道というのはいかにもではないか。見通し遮る霧を払い、己の中心を貫く一本の矢。叔父の話にぴったりだ。
 ところで、ここで深遠な懸念が一つ。複雑な自己を持つのは、俺ひとりではないということ。人間は、ゲームやアニメのキャラクターほど単純でない。俺と関わる人物の誰もが、捉えがたい人格を有している。俺はいったい、どれほどそれを理解しているだろうか。俺が知っているつもりの人間はいったい、どういう一面を隠しているだろうか。
 ス、と風が破れる音がした。
 意識を起こすと、弦の緊張が解けている。
 残心。
 正面を見やると、放たれた矢は的を外れ、安土に突き刺さっていた。

――――――
――――
――

 プレハブの更衣室を出ると、一帯が薄暗くなってきていた。雨脚はすでに弱まっていて、トタン屋根からは細かいしずくだけが滴っている。水たまりを揺らす波紋も、秒にひとつというところ。明日には乾いているだろう。
 重く瞬きをして、薄闇に目を慣らす。見回すと、運動場にも校舎にも人影が見当たらない。遠く山際では夕陽が紫色に滲んでいる。しまったな、更衣室でのんびりし過ぎたか。
「おそーい、ですよ」
 突っ立っていると、案の定、横からお叱りがかかった。
 ずっとそこで待っていたのだろう。制服姿の千恵が、すのこに座って膝を畳んでいる。地面を指でつついてイジイジ。雨をしのいで待ちぼうける様は、捨て猫じみてみえる。
「スカート汚れるぞ」
「先輩のせいです」
 たいして恨めしくもなさそうに言うと、立ち上がって尻を払った。
「……帰るか」
「帰りましょー」
 部活動後のきもち疲れた笑顔で、千恵は俺の腕を引く。すると、湿った草木のにおいに混じって、制汗剤の香りが漂ってきた。首筋の汗はもう乾いているようだが、千恵の、生物としての生々しさを想像するだけで、居ても立っても居られないような気分になる。いかんいかん。鎮まれ俺。
「なに変な顔してるんですか。早く帰りましょうよ」
 俺が己の欲望と一騎打ちしているのを見つけて、首を傾げる千恵。無垢なお前に男性的葛藤などわかるまいよ。といっても、まさか性欲と対決していますとは白状できない。
「いや、お前の体から匂い立つエイトフォーを嗅いでいたら、柑橘系のジュースが飲みたくなってな」
「なんですかその突飛な変態発言」
「自販機に寄っていく」
「別にいいですけど。……ていうか、部活の後はあんまりにおいとか嗅がないでください。恥ずかしいので」
 自分の腕で体を抱いて、俺から距離を取る。
「乙女みたいなこと言いやがって、生意気な」
「乙女ですからっ」
 実のない会話を交わしながら、校舎の端をつたって歩く。雨は止みかけで、折り畳み傘も持ってきているが、なんとなく雨空の下には出たくない。
 どうせ飲み物を買うだけだ。同行なんて必要ないというのに、千恵は俺の後ろにぴったり着いてくる。思えば学校で、授業中の時間以外は、ほとんど顔を合わせているような気もする。昼食はたいてい別々に済ませるとはいえ、登下校から休み時間、部活動までも。恋愛を抜きにすれば懐かれている自覚はあるが、その執念たるや見上げたものだ。
 千恵が弓道部に入ると言い出したのは、たしか、入学して幾日も経たないうちだった。せっかく体験入部の期間が設けられているのだから、いろいろ周ってみてはどうだと勧めたのに聞く耳持たず。俺と同じ学校に通えるのなら、同じ部活に入るのは当然だと豪語した。冥利に尽きるといえば、まあ、尽きる。
 しかし同時に、これが面倒の種なのだ。
 部活動で先輩後輩の関係になることは構わない。問題は、弓道部そのものの体質、もっと言えば、顧問の性格だ。中・高・大と弓道の舞台で名をはせ、畏れられたらしい『女傑』は、称号に恥じない峻厳な人柄の持ち主である。つまり、ゴリゴリの体育会系である。
 部内間の上下関係には特に厳しい。一年生が三年生にタメ口を聞こうものなら即刻、つるし上げをくらうだろう。さらに、部での立場は学校生活全体に波及し、部員全員を巻き込んだ一種の相互監視社会を作り上げている。「先生、あの後輩が調子こいてました。しめちゃってください」ってなぐあいに。そういうわけで、千恵は、俺に敬語を使うことを強いられているわけだ。面倒なことこの上ないと思うのだが、本人が束縛を楽しんでいるふうなのだからたくましい。
 駐車場から渡り廊下を横切って、中庭に入る。石畳が敷かれた円型の庭には、囲うように植え込みが配置され、ツツジが短い満開期を迎えていた。植え込みの真横、微妙に景観を損なう場所に自販機が並ぶ。ここにも屋根テントが覆っているのが幸いだ。
 迷わずダイドー自販機の前に立つ。運動後の柑橘系ジュースといえば『さらしぼ』しかない。儲けを度外視した七十円の衝撃価格は、学校運営側の介入が成せるワザだろう。
 俺が財布から十円玉をかき集めていると、千恵が急にそわそわしだした。周囲をやけに警戒し、首を巡らせている。
「どうかしたか?」
「いえ、その、なんか気配が。たぶん気のせいだと思いますけど……。先輩、さっさと買って行きましょう」
「?」
 慌てるような様子に困惑しながら、自販機のボタンを押す。
 ドンガラガッシャン。缶が転がり落ちる音。それが合図だったかのように、背後から怒号が届いた。
「オイっ!!」
 噂をすればというやつか。入部から二年間で飽きるくらい聞いた声に、俺は電撃的反射で振り返り――後方に例の鬼顧問を見つけ、流れるような動作でお辞儀した。角度はきっちり三十度。
「「お疲れ様ですっ!!」」
 隣で千恵も頭を下げている。新入部員にしてはなかなか堂に入った礼だ。
 顧問は、背中に鉄板を差し入れたような姿勢のまま歩み寄り、直立不動になった俺をねめつける。
「新斗ぉ、学ランのホックを締めろ」
「はいっ」
 慌てて言われた通りにする。
 サイズの合わなくなった制服は首を締めあげる凶器だ。非常な圧迫感が襲う。
 圧迫感といえば、正面に立つ女性もなかなかのもの。平均的青年男性よりも背の高い俺よりもさらに長身。かつ、引き締まった四肢の筋肉は荒々しくも思えるのに、深黒の長髪と合わさると、彫刻じみた硬質を示す。
「部活動が終わったらさっさと家に帰れと言ってあるだろう。それに、弓道衣を脱いでからも身だしなみに気を抜くな。普段の緩んだ態度を見逃してくれるほど、武道は甘くない。ほら、ベルトも見せてみろ」
 言って、顧問は切れ長の目を尖らせる。こうなればもはや逃れられない。されるがまま、全身のチェックを受ける。
 コルコバードのキリスト像よろしく立つ俺。それを横目に、千恵が遠慮がちに主張した。
「あのぅ……わたしはどうすれば……」
 顧問は一瞥して、
「うむ。お前は問題ないようだからヨシ。先に行っていい」
「やった」
 千恵はあっさりと解放され、小さくコブシをつくって去っていく。その途中、しかるべき距離をとってから、俺にだけ見えるよう親指を立てた。グッドラック。そういうことらしい。離れていても確認できるドヤ顔には、安全圏にいる人間特有の安い同情が滲み出ている。俺は睨みを利かせ、さっさと行けと促す。教育するぞ、先輩として。
「ところで先生、千恵にはずいぶん甘いんですね……?」
 ベルトを締めあげられながら尋ねると、顧問は鼻を鳴らした。
「新入部員にはな。最初の内は優しくしておくんだよ。新斗が一年のときも同じだったはずだ」
「……ああ」
 なるほど。そうして部活をやめづらくなったころに、ゲロを吐くほどしごくんですね。わかります。俺は自身の忌々しい記憶を掘り当てた。哀れ千恵よ。俺が引退したあとの弓道部で、世間の厳しさを知るがいいさ。

――――――
――――
――

 顧問から身柄を解放されるころには、夕日が沈みきっていた。
 希望小売価格よりもよほど高くついた『さらしぼ』を飲みながら、校門へと向かう。雨雲はいつの間にやら失せていたので、折り畳み傘は役目を免れた。ここまできたら、一切濡れてなるものか。コンクリートに溜まった水を、注意深く避けていく。
 斑に濡れる敷地を跳ねながら進んで、やがて門柱が見えた。目を凝らし、柱のシルエットの横に、寄りかかる人影を見つける。誰、とはさすがに疑問に思わない。俺を待つ人物は決まっている。
 大きく手を振ってアピールすると、同じように手を振って返してくる。一日に二度も待たせてしまったのは気が引ける。俺は小走りで駆け寄った。
「先に帰ってなかったのか」
「とーぜんですよ、帰る方向おんなじですし。登下校は欠かさず一緒にって、約束ですから」
 千恵は門柱から背を離し、引戸門扉のレールを踏んだ。
「もう部員も顧問も誰もいないぞ。タメ口でいい」
 学校は間もなく施錠されるだろう。校門の向こうでは、薄闇に包まれる町が、刻一刻と静けさを増している。道路を挟んで反対側に、買い物帰りとおぼしき女性がいるが、まさか千恵の口調を責めるまい。
「いいえ、先輩。周りに誰も居なくても、この境界を超えるまでは『後輩モード』なのです」
 レールの上をつたって歩き、端までいくと、千恵はその境界を飛び越えた。『後輩』を離れた先で向き直り、俺の方へと手を差し伸べる。
「ねぇ、ほら、帰ろっ」
 学校での彼女から、親しんだ彼女に切り替わる瞬間。心臓を鷲掴みにされる感覚を味わいながら、一回り小さい手を取る。そのまま門の外へ、連れられるまま躍り出た。
「あ、わたしも『さらしぼ』飲みたい」
「はいよ。ちょっとしか残ってないぞ」
 俺たちは、手のひらで互いを確かめながら帰路につく。
 だんだん深くなっていく夜を、一日の終わりを、恐ろしいと感じていたのは過去のことだ。幼少の頃は、二人の身を守るために、手をつなぐ必要があると信じた。しかし、時が経って恐怖が消えても、俺たちはまだ手を握っている。
 それはたぶん、必要を終えた絆にも、体温が残っているからだ。手放してしまうには、温かさに慣れ過ぎたのだろう。俺はその温度に、新たな意味を与えたいと思う。幸福そうな千恵の横顔を見ながら、繰り返し考えていた。


****


 今日の晩飯は中華定食だ。
 両親がともに定時上がりだったので、珍しく家族そろっての団らんとなる。一週間に一回あるかないか、賑やかな食卓。四人分の料理を作る台所担当は、今夜は台所担当大臣に格上げ。機嫌もよく、よって豪華メニューである。
 カウンターの向こうから、香ばしい油のかおりが漂ってくる。
「やあ、子どもたちとごはんを食べられるなんて久しぶりじゃないか。楽しみだねぇ、早く食べたいねぇ、母さん」
 と、父。
「そうねぇ、さっきからお腹の虫が鳴きやまないわ。完成はまだかしらねぇ、お父さん」
 と、母。
 ダイニングの食卓。ガラス製のテーブルを囲むのは父、母、俺の三人だ。対面に座る両親は仕事の疲れなど微塵も見せず、能天気な笑顔を浮かべている。いかにも勤め人然とした、堅い風貌からは不釣り合いなほど。
 仕事を家に持ち込まない態度は結構だ。たまの団らん、存分に楽しむのもよかろう。しかし、俺は言わずにはいられなかった。
「なあ、父さんも母さんも、恥ずかしいとは思わないのか?」
「どうした新斗」
「なんの話かしら?」
 すっとぼける二人に、視線でキッチンを示してみせる。カウンター奥に見える頭は、例の見慣れたミディアムヘア。
 ちっこい体が慌ただしく動き回っている。大量の食材をまな板で切り、洗い、ザルで水を切り、コンロの火加減を調節……している途中で、電子レンジになにやら放り込む。料理は、物事を並行で行うマルチタスクだ。肩まで垂れた髪が、跳ねては揺れ、跳ねては揺れ、休まることがない。
 食卓に座し、あほのように餌を待つこちら側とは大違い。腹が減ったと急かす無礼は万死に値するといえる。
「よりにもよって、家族の最年少に料理をぜんぶ投げるかね。せめて、手伝おうかという気概くらいみせたらどうだ。年長者の威厳が台無しだぞ」
 ちなみにこの発言、一言一句漏らさず俺にも突き刺さるブーメランである。……いや、一応掃除とかは俺が担当しているんだが。
「申し訳ないなぁ。父さん料理はからっきしなんだ」
「申し訳ないわぁ。母さん家事全般がダメなのよ」
 うーむ、なんて屈託のない表情なんだ。今後一切、あらためようという気がないな。
「コラ、兄くんだめだよ、パパとママいじめたら」
 文句を言い連ねようかというところで、テーブルの中央にチンジャオロースが配膳される。瞬間、熱気にもたらされた食欲の大波が、俺の口を塞いだ。
「パパママはお仕事を頑張ってお金を稼ぐ。兄妹ふたりは勉強を頑張って、家事をこなす。それがVIP野家の役割分担だよ。お互いに感謝と尊敬の念を忘れないこと。でしょ、兄くん」
 大臣からのありがたい訓辞。エプロンに大きくプリントされたウサギが、赤い眼でこちらを睨んでいる。役割分担の中で一番、割を食っていそうな人物が言うのだから、反論の余地もない。
「わかったよ。俺が悪かった」
「うむ、感謝と尊敬の念を忘れないことだぞ、新斗」
「ええ、感謝と尊敬の念を忘れないことよ、新斗」
 立ち上る湯気に向こうで、夫婦がそろって胸を張る。春巻きの到着を待つあいだ、俺は相当な渋顔をしていただろう。

       

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Neetsha