Neetel Inside 文芸新都
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Thursday(2)/千恵




 高校の校舎の形状は、鳥瞰するとフックのようになっている。
 千恵が所属する一年二組は、ちょうどその先端、直角に折れ曲がった位置にあたる。新斗と睦まじい登校を終え、教室に着いた彼女は、窓の外を眺めることが習慣だった。都合よく、席は窓際後方。スクールバッグを机に置いて、教科書も出さず目を向ける。
 目標は向かい側上方、二階の三年二組だ。ぎりぎり詳細を目視できる距離にある教室内には、体躯の大きい上級生たちがひしめいている。カクテルパーティ効果に代表される選択的注意は、視覚においても存在する。ほとんどが見知らぬ顔の集団にあって、新斗を見つけることは容易だった。
「あ、いたいた」
 千恵は頬をほころばせる。
 着席した新斗は、外の陽射しを疎んじるように目を細め、あくびをかみ殺す。大儀そうにバッグから本を取り出すと、ページを開いた。その本が英語の単語帳であることを、千恵は知っている。午前中こそが記憶に適していると信じる彼は、いつも同じ時間に単語を覚えるのだ。『思い切り学んで、思い切り楽しむ。良き人生のために、効率を考えなければいけない』と、口癖のように語っていた。千恵が受験合格を果たしたのも、その教えがあったからこそだ。
 快活さを備えた精悍な顔立ち。自身にとって、最も頼りがいのある男性。真剣さを纏う新斗の姿を、千恵は好ましく、また、尊敬の念を抱いて眺めた。
 しばらくしたのち、新斗の席の周りに、数人の男女が集まってきた。めいめいの手には教科書が握られている。彼らに気が付くと新斗は顔を上げ、あの、呆れたように見せて朗らかな笑みで迎えた。
 受験生には、空き時間に勉強を教え合う文化がある。学校でも頼られる立場らしい新斗は、友人たちに教鞭をふるっていた。中でも集まってきた女子のひとり――千恵よりもずっとグラマーだ――は隣に陣取り、顔を寄せて教えを乞うている。高校受験が終わるまでは、千恵が代わりにいたはずの位置。じい、と千恵は様子を窺う。じい……っと。
「千恵ちゃん、なにじーっと外見てんの?」
「わひゃあっ!?」
 背後から唐突な呼びかけに、飛び上がる。
「そんなに驚かんでも……。おはよう。朝っから元気だねぇ、どしたん」
「あぁ、おはよう、樹里ちゃん。ううん、なんでもないよ」
 呼びかけの主――クラスの友人で、部活動の仲間でもある熊谷樹里に対して、ごまかすようにして笑う。樹里の三白眼気味の目が一瞬、胡乱げになるが、すぐに元のだるそうな表情に戻った。
 樹里はのっそりした動作で、千恵の隣の席に座る。彼女と仲良くなった理由はなんということはない、席が隣だったからだ。
「外は陽気があったかいねぇ」
 樹里がショートボブの髪をいじりながら、窓を眺める。
「そうだねぇ」
 千恵もつられて再び外を見る。すると、自然に視線が向かう先は決まっていた。
「ああ……そゆこと」
「え、なに?」
 呟きに反応して振り返ると、樹里の口角が得意に歪んでいる。
「いやー、千恵ちゃんの新斗先輩愛は深いなぁって思ってさ。深すぎて怖い。ちょっと病気の域に入ってるよねぇ」
「びょ、病気って。そんなことないよぅ。違うの、変な意味じゃないよ、ピュアなやつなの、純粋な愛なの、つまり純愛……ってそれもちょっと違うか」
「まぁでも、気持ちはわからんでもないかなぁ。新斗先輩、結構かっこいいしね。一年女子でも、狙ってる子いるみたいだし」
「…………それ、ほんと?」
「あたしたちからすれば三年生って大人に見えるから、恋っていうより憧れみたいなもんかもしれないけどねぇ」
 言いながら、樹里はバッグから教科書類を取り出し始めた。千恵も倣ってチャックを開け、上から順に机の棚にしまっていく。バッグの中には、教科書のほかにも、日記手帳とかおやつとかいったものが転がっている。それらを躍起になって整理しながら、
「でも、わたしとしてはオススメしないよ? だって先輩、すぐに卒業しちゃうわけだし、遠距離恋愛って大変らしいし。あとほら、案外きつい冗談言ったりするから、繊細な子だと傷ついちゃうかも。あとあと、だってほら、ほかに好きな子とかいそうな感じがね」
「狙ってるのあたしじゃないってば。あたしに忠告してどうすんの」
 樹里がおかしそうに噴き出す。
「そ、そだよね」
 千恵は血が熱くなるのを感じて、顔を伏せた。
 勉強用具をすべて出し終えると、バッグの底で、黒い布切れがひしゃげていた。ハンカチかハンドタオルだろうかと、千恵は訝しんで持ち上げる。正体を確認しようと両手で広げかけ――刹那、広げる前に看破して、慌ててバッグの中に突っ込んだ。
「ん? どしたん千恵ちゃん」
「あっ、いやっ、なんでもないよー?」
「……? へんなの」
 樹里は首を傾げるが、すぐに大きなあくびをして机に伏せった。一限目が始まるまで余さず惰眠を貪る方針は、入学時から貫かれている。春は眠りの季節だから、とは本人の談。千恵はぬくい布団のような陽気と、樹里の怠惰な性格に感謝し、バッグの底に目を移す。
(あっぶなぁ……こんなところに入ったままになってたんだ)
 まさか、友人の目に晒すわけにはいかない。黒い布切れの正体は、新斗が普段使いしているボクサーパンツだった。

――――――
――――
――

 放課後。HRを終えて女子更衣室に着くと、中はがらんどうだった。
 千恵は樹里と並んで、無人の部屋で立ちすくむ。
「ちょっと早く来すぎちゃったね」
「だねぇ……。のんびり着替えますか」
 一年生の新入部員は、手前側のロッカーを割り当てられている。縦に二段重ねられたロッカーの上段が千恵、下段が樹里。クラスが同じ関係上、着替えの時間が被るので、密接したこの配置は不便だ。しゃがんだ樹里が荷物を詰めているのを、うまく避けながら準備する。
 ねずみ色のロッカーを開けると、扉の裏に鏡が付いている。千恵はまず念入りに、自分の顔をチェックした。表情筋を引き締めて、凛々しい武人をイメージする。
 入部の理由は新斗に合わせてというだけだったが、顧問が弓を引く姿に憧れて以来、ビジュアルにはこだわりがある。弓道衣、凛とした表情、整った姿勢、それらはセットなのだ。
 しばらく鏡の前でポーズをとったりしていると、足元にいた樹里が忽然といない。無造作にロッカーからはみ出す制服を残して、彼女は長椅子に寝っ転がっていた。下着姿で。
「樹里ちゃん……だらしない」
「いいのいいのぉ、時間たくさんあるんだし、先輩たちもいないんだし」
 だらけきったまま言って、腹をかく。
「あたしってほら、家では基本裸族じゃん? 堅苦しいブレザー着てるとうっとうしくて」
「樹里ちゃんて実家住みだよね? 家の中を裸で歩き回ってたら注意されないの?」
「なんも言われない、っていうか、お父さんには口をきいてもらえない。目をそらされる」
「だろうね……」
 千恵はあらためて、樹里の体をまじまじと見る。細身の引き締まった胴から、手足がすらりと伸びている。女性らしいというよりはモデル体型に属するだろう。そっけない下着が、かえって肉体の端正さを強調している。つい最近まで中学生だったというには未熟な部分がない。
 さすがに、ためらいなく脱いでしまうだけはある。千恵は感心の溜息を漏らした。
「千恵ちゃん、なーんか、目がえっちぃよ」
「へ? い、いや、そんなことないよ」
「わかるよぉ、女から見ても、女の子の体って魅力的だよねぇ。と、いうわけで千恵ちゃんも脱ごう。あたしだけ下着姿っていうのも不公平だし」
「ちょ、ちょっと待って。わたしは恥ずかしいから……っ」
 拒否するひまもなく、長椅子の上に引きずり込まれる。樹里が衣服を剥ぎ取る手並みは、山賊もかくやという鮮やかさであった。
「ほうほう、ブラは水玉、と。下も合わせてあるのかな?」
「やだぁっ、スカートめくらないでっ……お、おか……犯されるーっ!!」
「だいじょうぶだいじょうぶ恥ずかしくないよ、なんだったらほら、あたしは下着も脱ぐし」
 言うや否や、取り外されたブラジャーが千恵の顔に落ちる。
「脱がなくていいよっ、てゆか自分が脱ぎたかっただけだよねっ!?」
 和気藹々の域を超え、もみ合いが血走った狂気に踏み入れたとき。
 更衣室の外から、声が聞こえてきた。
『新斗先輩こんにちはっ、あはっ、偶然ですねっ』
 壁を通して、室内に届いてくるほど溌剌としたあいさつ。その声に、千恵は聞き覚えがあった。
「あれって、たしか四組の」
「ああ、あの子だよ、ほら、朝言った、新斗先輩を狙ってるっていう」
「……っ!」
 千恵は、樹里のマウントを勢いよくはねのけた。立ち上がり、部屋の内部をくまなく見回す。
 視線を上げ、採光のために備えられた窓に目を留める。横長の窓は、覗き防止のため擦りガラス製だが、鍵さえ開ければ外が見えそうだ。しかし、位置はロッカーの高さよりも上、天井近く。千恵の身長ではまるで届きそうにない。ロッカーをよじ登ることさえ、一人の力では不可能だ。
「樹里ちゃん」
 千恵は、重々しい空気を纏って言った。「肩車して」
「は?」
「肩車して」

――――――
――――
――

「樹里ちゃん、もうちょっと右」
「ほいほい」
「うーん、もっと前に行けない?」
「いやぁ、もう限界」
「そっか、じゃあわたしのほうで頑張ってみるね」
 依然、二人だけの閑散とした更衣室。その端。
 高低差のある会話をこなしながらも、千恵は目の前に集中する。
 ロッカーを挟んで、窓はもう正面に見えている。あとは、クレセント錠を開けるだけ。
 なのだが。
「うぅん……っ」
 懸命に手を伸ばしても、わずかに距離が届かない。あいだに挟まったロッカーが立ちふさがって、進行を防いでいる。加えて、最も遂行を邪魔しているのは、足元の不安定さだ。
 千恵の腿が、樹里の肩に乗っている。グローバルスタンダードな肩車。樹里が脚を抱えて補助しているが、支えの心許なさはいかんともしがたい。乗る役の体重も軽いが、車役も細身の女子である。逆さに立てた箒の要領、千恵が体を傾けるたび、あっちへふらふら、こっちへふらふらと千鳥足になる。
「あとちょっとなんだけどなぁ」
「ねぇねぇ、千恵ちゃん」
「なぁに?」
「わざわざ新斗先輩の会話を盗み聞く必要、ある?」
 肩の重みに耐えかねたか、弱音を吐いた樹里に、千恵は断言した。
「わたしにはね、先輩と、先輩と仲良くする人のことを知っておく義務があるんだよ」
「あぁ、そう……」
「よし、もうちょっと」
 千恵は反動をつかい、ロッカーの上にすがりつく。上体を折り、うつ伏せのまま手探りで錠の取っ掛かりを探す。
「ねぇねぇ、千恵ちゃん」
「今度はなぁに?」
「さっきからね、千恵ちゃんが前に傾くたび、あたしの後頭部に、お股がぐりぐり当たるんだよね」
「ごめんねっ、あとちょっとだけ我慢して」
「いや、いんだけどさ。服脱がされるよりもこっちのほうが恥ずかしくない……?」
「よっ、と……開いたっ、開いたよっ」
 羞恥さえないがしろにした末、ようやく窓を開け放った。陽に温められた風が通って、千恵は歓喜の声を上げる。
「よかったね」
「ううん、まだまだ、これからだよ」
 そう、難関を越えたとはいえ、目的を果たしたわけではないのだ。盗み見、盗み聞きという崇高な目的。
 窓の外、細長く切り取られる視界に、ちょうど目標が入っている。立ったままで話し込む、新斗と女生徒の姿。更衣室に来る途中で会ったのか。あるいは、女生徒のほうが待ち伏せをしていたのかもしれない。ふたりが交わす会話に、耳をそばだてる。
『駅前のケーキ屋って≪アムール≫のことだろ? 何度か食べたことある』
『え~新斗先輩って甘いものとか食べるんですかぁ? 意外かも~』
『そうか? あんまり好き嫌いとかないぞ、俺』
 新斗と話す女生徒には、やはり見覚えがあった。一年生は入学から間もないとはいえ、短期間でも存在感を放つ人種はいる。華やかな顔つきで、自分の魅力に自覚的なタイプだろう。胸元を晒すように制服を着崩し、所々に小物やアクセサリーを光らせている。学生にしては身分不相応の感があり、オシャレとも、軽薄ともとれる外見。
(むむ……曲者っぽい)
 千恵は厳しく検分する目つきで彼女を見る。
 不真面目な服装が嫌いというのではない。自身が友人づきあいするのなら、いっこうに厭わない。が、新斗と親しくするとなれば話は別だ。もし仮に、彼女が新斗と仲を深めて。もし仮に、ふたりが付き合うことになったなら。その交際はよいものになるのか。
 華美で社交的な恋人を持つと、気苦労が絶えないというのが定説だ。それに、中高生の中に、男心を弄ぶ悪女がいないとも限らない。どこの馬の骨とも知れない者に、新斗が軽んじられるようなことがあれば……。
 疑惑を積み重ねるごと、千恵は女生徒に悪辣な幻影を見るのだった。
『じゃじゃ、新斗先輩はなんのケーキが好きなんですかぁ?』
『一択、イチゴのタルトだな』
『うっわ、マジですかっ、あたしもタルトがいちばん好きなんですっ。すっごぉ、あたしたちって気が合いますねっ』
(イチゴのタルトっていっても、全部が全部、好きなわけじゃないんだよ。下の生地がしっとりしてるやつはだめなの。歯ごたえがないとタルトとは認めないって言ってた。それに、甘味よりは酸味が優位なほうが嬉しいって。いちばん好みなのは≪シュクレ≫の――)
『おお、同志だったか。タルトとアールグレイだけで三日間はいけるよな』
『めっちゃわかりますそれっ!! いや~新斗先輩もなかなかの甘党ですね。ところで、あたしもこう見えて、お菓子とか作れるんですよ』
『へぇ……え? まさか、イチゴのタルト作れるのか?』
『そこまではちょっと……。クッキーくらいだった焼けますから、今度持ってきてあげましょっか?』
『ほんとか? 作る機会があったら、ついでに俺にも食わせてくれよ』
『食べてくれるんですか!? だったら絶対、持ってきますっ』 
(クッキーは、中に余計なフルーツとかが入ってたらだめなんだよね。粉っぽいのも嫌いで、シンプルなのがいいの。あの子はそのことわかってるのかな? わかって、ないよね。だって、出会ってからまだひと月も経ってないはずだもん。知ってるわけない。食べ物の好みも、映画とか得意なスポーツも、寝相が悪いことだって、背中にあるホクロのことだって、使ってる歯ブラシの種類だって、ぜんぶ、ぜんぶ。わたしのほうが、ずっと詳しいに違いないよね。わたしのほうが仲、いいんだから)
 考えるうち、千恵は奥歯を噛みしめていた。
「千恵ちゃーん、そろそろ降ろしてもいい? げんかーい」
 股のあいだから発せられた言葉に、ようやくわれに返る。
「あ、ごめんね。もういいよ、ありがとう」
「ほいほーい」
 協力し、慎重に肩車から降りる途中。更衣室の扉が開いた。
 入ってきた人影は、男性と見紛うほどの長身。部活動の顧問だった。
「なにしてるんだお前ら?」
 扉を押して入ってくるなり、眉をひそめる。
 あられもない姿で上下に合体する少女の図。異様な光景に対して、正常な反応である。
「せ、先生っ」
「違うんです、これは怪しいことではなく」
 とはいっても、この上もなく怪しい状況が、現にある。言い訳は空を切った。
 動揺は体勢にも及び、肩車が根元から崩れていく。
「樹里ちゃん、落ちるっ、落ちるっ」
「「うわぁ」」
 ふらつき、傾き、倒れ込むように軟着陸を果たす。
 顧問は、部員の惨事を目撃しても、仏頂面を変えていない。相方を下敷きにしたまま、千恵は尋ねた。
「あの、先生はどうして更衣室に?」
「置きっぱなしの荷物を取りに来ただけだ」
 言って、ロッカーの上に置いてあった巾着バッグを片手でつかむ。そのまま手を伸ばせば、窓の錠くらい簡単に開けられそうだ。千恵はひどい徒労感に襲われた。
「はしゃぐのは構わんがな、早く更衣室に着いたなら、さっさと着替えて準備体操でもしていろ。あと熊谷」
 顧問は少しバツが悪そうに樹里を見る。「弓道衣を着るとき、下着は付けたままでいいんだぞ。上からインナーシャツを着るんだから」
「あ、いえ、その、これは……趣味で」
「…………最近の若いやつはわからん」
 言い残し、更衣室から去っていった。


****


 ささら桁階段を上って右手の木製ドアには、手製のプレートが付けられている。薄い木板に、本人が筆ペンで記した『新斗』の名前。達筆な文字に目をやってから、千恵はためらいもなくドアノブに手をかけた。
「おじゃましまーす」
 と、言葉の割には遠慮なく、ドアの間に体を滑り込ませる。
 中に入ると、部屋には誰もいなかった。寂しげに置かれる学習椅子とローベッドが、主の不在を告げている。
 千恵は、新斗が不在であることを事前に確認済みだった。ついでに、ほかの家族がみな出かけていることも。つまり、現在、このVIP野家には千恵以外に誰もいない。――好き放題というわけだ。
 時間は、夜も本格的になってきた頃。制服はすでに着替えて、ボーダーのニットにスキニーといういでたちである。鍵のかかっていない玄関を通って、ここまでたどり着いた千恵は、口の端に笑みを浮かべた。何度立ち入っても、他人のプライベート空間というものはわくわくする。
 ローベッドの脇には、出窓が飛び出している。カーテンは引かれておらず、差し込む月明かりが片隅に置かれたサボテンを照らしている。
 千恵は窓を開いて網戸にし、空気を入れ替えた。続いて、フローリングに落ちている小さな埃をつまみ、ごみ箱に捨てる。ベッドの上の掛け布団を整え、テレビリモコンの位置までも調整する。一連の行動は、新妻のごとき雰囲気を纏って行われた。
 出しっぱなしになっていた参考書を片付けようとしたが、これは直前でためらった。あまり大きな変化を起こすと、侵入が明らかになる懸念からだ。
 新斗の部屋への侵入は千恵にとって、もはや慣れ切った日常である。学習机に隣り合う本棚に目を付けると、勝手知ったるという手際で書物を漁った。
 雑誌類の奥側を探ると、十八禁のアレコレが顔を出す。千恵の調べによれば、新斗に性のIT革命がもたらされたのは彼が高校に入ってからだ。しかし、過去の遺物もこうして大事に保管されている。
 水着のグラビアなどはピンとこないが、ストーリー性のある漫画は千恵にも訴えかけるものがある。官能的な表紙に誘われるようにして、手を伸ばした。『諧謔天』に。
 ページを捲る。黙々と。
 紙の擦れ合う音だけが部屋に響く。本棚の前にしゃがみ込んだまま、食い入るように物語に見入っていた。
「……………………はっ」
 腹の奥から、こみ上げる熱を感じたころに手を止める。後を引かれる思いで『諧謔天』を元に戻した。
(あ、危なかった……)
 何が、とは言わないけれど。自身に言い訳してから、ほかの本に目を移す。
 下から順に、折り返しながら視線を滑らせる。すると本棚の最上段に、黒色をした、背の高い冊子を見つける。
「これ……」
 金色の刺しゅうを施された外観には、覚えがあった。千恵はぐっと背伸びをして、その冊子を手に取る。胸に抱え、先ほど整えたばかりの布団の上で寝そべる。うつ伏せてページの半ばを開くと、期待していた通りの内容があった。それは、千恵の頬を自然と緩ませる内容。
 ゆっくりとページを捲りながら、まどろみに任せて、新斗の枕に鼻を埋める。そうするだけで、表しがたい懐古と安心が訪れるのだ。
 ページが最後に辿り着くよりも先に、千恵は寝息を立てはじめた。

――――――
――――
――

 下階で玄関が開く音がして、ようやく千恵は目を覚ました。「ただいま」と、独り言の呼びかけは新斗のものだ。とっさに涎を拭う。飛び跳ねるように起き上がり、部屋を見回した。おたおたしているあいだにも、下階の足音は移動している。
(やばっ、見つかっちゃう)
 足音はついに、階段を上る音に変わった。
 家族が不在と信じている新斗は、迷わず自室に入るだろう。脱出は急を要する。
 千恵は慌ててドアノブに手をかけたが、思い直して身を翻した。
(そうだ、忘れるところだった)
 扉に近い、衣装ダンスの一番上を開く。ポケットに入れてあった例のボクサーパンツを畳んで、ほかの下着の隙間にねじ込んだ。
(これでよしっと)
 そうこうしているうちにも、足音は階段の半ばを過ぎている。一刻の猶予も許されない段になって、自分が冊子を抱えたままでいることに気が付いた。
(ああ、もう間に合わない。これを元に戻すのはあきらめて……)
 イチかバチか、千恵は部屋を飛び出す覚悟を固めるのだった。

       

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