Neetel Inside 文芸新都
表紙

見開き   最大化      

Friday/パン屋ちゃん




―――――――――――――――――――――――――――――――――

 兄くんに朗報!! 今日の献立はステーキにします(^_-)-☆

 付け合わせの野菜は何にしよう?

―――――――――――――――――――――――――――――――――

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 素晴らしい。お前はもう、ただの台所担当ではない。台所担当神だ。

 付け合わせなんて、もやしでいい。

―――――――――――――――――――――――――――――――――


 俺はメールを送信して、携帯を閉じた。感激から、深い息が漏れる。
 ついに来たか、ステーキが。『凝った料理よりも、肉焼いておけば喜ぶっていうのが腹立つ』という理由で、めったに食卓に上らないステーキが。それもこれも、きのう機嫌を取っておいたおかげだろう。難解な女心も、俺の人間力の前では形無しということか。
 さて、晩飯はステーキを楽しみにするとして、昼食を確保しなければならない。下駄箱から外に出ていた俺は、歩みを再開する。
 現在は昼休み。しかし、いつものように弁当を持参しているわけではない。
 金曜日に弁当なしというのは、俺にとって定められた習慣である。理由は、パンを食べる日だから。台所担当神の名誉のために確認しておくが、弁当作りが面倒だからではない。むしろ、彼女はパン食を快く思っていない。それでも金曜日をパンの日と定めているのは、ご近所付き合いのためだ。
 というのは、俺にパンを売ってくれるのは、近所のパン屋の娘なのだ。ド田舎たるVIP野家の徒歩十五分圏内で、唯一と言っていい飲食店の、一人娘。有事の際にパンを分けてもらうため、仲良くさせてもらっている。よくよく考えれば、有事の食糧なんて辺りの畑にいくらでも生えているじゃないかと思うのだが、野暮は言うまい。俺も田舎の人間だ。地域の互助精神を尊ぶ美徳はわかる。
 はるばる学校まで出張している売り子は、本校舎から離れた場所にいる。敷地の端っこ、体育館とプールが並ぶ裏側だ。林から飛び出す枝葉を、亀甲の金網が防いでいる。その金網と、プールの石塀に挟まれ、ひっそりと陰る奥地。
 俺が足を運ぶと、最奥に達する前に駆けつけてくる音がした。
 前方から、小柄なシルエットが近づく。肩から提げた番重を抱え、おさげの髪を揺らしている。茶色に統一された頭巾とエプロンがトレードマークの清純派。彼女が、『パン屋ちゃん』である。
「新斗さんっ、新斗さんっ」
 パン屋ちゃんは人懐こい笑顔で呼んだ。
「パン屋ちゃんじゃないか」
「はい、パン屋でございますっ」
 敬礼し、眩しい笑顔のまま続ける。
「どうですか新斗さん、ちょうどいま、パンが食べたい気分ではありませんか。偶然にもあたし、多種多様なパンを持ち合わせているんですけどっ」
「キミはいつだって持ち合わせてるじゃないか、パン屋なんだから当たり前だ。それに俺だって、パンを買う用事がなくちゃ、こんな秘境みたいなところまで歩いてこない」
「えへへ」
 パン屋ちゃんは恥ずかしそうに頭を掻いた。隠れるような商売をしている自覚が、当人にもあるらしい。
 俺たちがいるのは、校内でも指折りに人通りのない場所だ。こんなところで売り子をしているのは、もちろん彼女の本意ではない。事情がある。
 俺が入学したての頃は、校門のすぐ前でパンを売っていた。数には限りがあるが、商品はどれも、味も価格も文句なし。『門のパン屋』と呼ばれ、学校の生徒たちから好評だった。しかしあるとき、校内でパンを売っている業者――『下駄箱のパン屋』と揉めたらしく、あっさり追い払われたのだ。
 とはいえ、一度掴んだ客を離したくないのが商売というもの。以来、商魂たくましい彼女は学校の秘境に潜むことを選んだ。
 ……というのが、本人から聞かされた話。
 正直に言ってマズい行為だと思うのだが、成果は上がっているらしい。『門のパン屋』時代とはいかないまでも、番重はいつ見ても空になりかけ。売り子の可愛らしい容姿のことだ、大方、下心のある男子生徒が通い詰めているのだろう。けしからんやつらだ。
「ところで新斗さん、今日はどのパンをお求めですか? あ、ちなみにおすすめは『スペシャルローストビーフサンド』ですっ♪」
 パン屋ちゃんが番重の一角を指さす。
 『スペシャルローストビーフサンド』はたしかにうまいが、値の張るメニューだ。財布の中身を確認しようとすると、
「ぜひっ、ぜひっ」
 おさげを弾ませて、畳みかけてくる。
「うーん、わかったよ。それじゃあ、『スペシャルローストビーフサンド』と『メロンパン』で」
「え、二つだけでよろしいんですか……? 新斗さん男の人ですし、もっと食べたほうがいいですよ。でないと、部活動でお腹がすいてしまうに違いありません。あたし、心配ですっ」
 またまた畳みかけてくる。
「そうかなぁ。まぁ、そうかもしれないなぁ」
 今度こそ、財布の中身を確認して考える。普段は節制しているので、金額に余裕はある。
「パン屋ちゃんの言う通りかもな。じゃあ追加で『焼きそばパン』も」
「ありがとうございますっ。…………あ、あと、えーと……ここからは、あたし個人からのお願いなのですけど……」
「うん?」
「新メニューの『マヨネーズ野菜パン』の売れ行きがあまり、良くなくて……。お母さんがたくさん作ってしまったんですけど、日持ちもしないし……。一つだけでもいいので、新斗さんに買っていただきたいなって……あ、いえ、もちろん、無理にってことではないんですよっ? でも、売れ残るとお母さんが悲しむんです……」
 と、沈んだ声。
 俺はさすがにためらった。小遣いのこともあるが、こうなってくるともはや、買ったパンを食べきれるのかという問題である。『スペシャルローストビーフサンド』は普通のパンの二倍くらいの質量なのだ。食べ盛りとはいえ、単純に、合計五つの分のパンはきつい。晩飯のために、腹の空きも確保しておきたいのに。
 悪く思いつつ、断ろうとすると、パン屋ちゃんがずいと前に出た。
「どうか、お願いします、新斗さん」
 祈るように両手を合わせる。タレ気味の眼を潤ませて、上目遣い。目端から、いまにも涙が零れそうだった。
 俺は、一瞬にして翻意した。
 ちょっと今月の小遣いが苦しくなるくらい、なんだ。パンなんて、押し込めばいくらでも腹に入るだろう。パン屋ちゃんは健気な子だ。歳は千恵と変わらないのに、学業を諦めてまで家の手伝いを頑張っている。彼女の母親だってそうだ。夫婦で必死に店を切り盛りする、家族思いのいいひとなのだ。苦労人の親子を泣かせておいて、得られる満足などあろうか。いや、ない。
「いただくよ、『マヨネーズ野菜パン』」
 俺は財布から、なけなしの硬貨を引きずりだした。
「わあっ、ありがとうございますっ」
 パン屋ちゃんは、よどみない動作で硬貨を受け取る。化粧っ気のない素朴な顔が、妖しく笑ったような気もしたが、見なかったことにした。「新斗さんてとっても、いいひとですよねっ」

――――――
――――
――

 昼飯は、パン屋ちゃんの商売を眺めながら食べることにした。
 石塀の端に腰掛けて、パンの包みを開く。背にするプールにはまだ水が入っていない。正面には鬱蒼と木々が密集していて、風景としてはいまいちだが、適度に涼しいのでよしとする。
 飯の調達にちょくちょく訪れてくる客は、やはり男子生徒が多い。「できればもう一つ買ってほしいんですけど……」、「うん、買う買う。キミのためなら痛くない出費だよ」。強烈に既視感のある会話劇を横で眺めながら、件の『マヨネーズ野菜パン』を頬張る。
 売り上げが芳しくないらしいが、味そのものは悪くない。キャベツを中心にした刻み野菜に、マヨネーズ風のソースは無難な組み合わせだろう。強いて言えば、パンチに欠けるか。あとはたぶん、学校での客層には合っていない。男子高校生なんて、肉を食わせておけば喜ぶのだ。
 というようなことをパン屋ちゃんに話したら、熱心にメモを取っている。
「なるほど、なるほど。帰ったら、お母さんにも伝えておきますね」
「あくまで素人の意見だから、当てにしないでくれよ」
「いえいえっ、新斗さんは頼りになるお兄さんですから。むかしから助けていただいてます」
 パン屋ちゃんは恭しく頭を下げる。そういえば、中学のときには勉強を教えていたこともあったっけ。近所の頼れるお兄さん、と思ってもらえているなら嬉しい限りだ。もしくは、都合のいい金づる。前者だといいなぁ。
「俺でよければいくらでも助けになるよ。ああ、そうだ、撤収するときになったら番重、運ぼうか? 力仕事なら男のほうが楽だしね」
 パン屋ちゃんの後ろには空になった番重が数段、積まれている。女の子にとっては大きくて持ちにくそうだ。もっとも、中身が入った状態のものを運んでここにいるのだから、助けなど必要ないかもしれないが。
「ありがとうございますっ。裏門の近くまで運んでいけば、そのうち車が迎えに着ますから、そこまでお願いしてよろしいですか? あ、でも、新斗さんが食べ終わってからでいいですよ」
「りょーかい」
 言いながら、俺は焼きそばパンの残りを口に放り込む。
 次なる強敵、『スペシャルローストビーフサンド』の包みを開けていると、パン屋ちゃんはあからさまな溜息をついた。
「はあ……」
「どうしたの?」
「あっ、聞こえてしまいましたか? いえあの、大したことではないんですけど、新斗さんが本当のお兄さんだったらよかったのになぁ、って思ってたんです」
「へぇ?」
「お父さんとお母さんがですね、よく言ってるんです。もうひとり、男の子を生んでおけばよかったかもしれないねって。新斗さんは知ってるかもしれませんけど、パン屋って結構、力仕事が多いんです。あたしじゃ役に立たないこともあるし、だからといって、従業員さんを雇うお金なんてないですから……」
 彼女の場合、店の経営問題はそのまま家計問題でもある。切実な眼差しはまさしく、家計簿に向かう主婦と同じ。
「男手が足りてないってことか、難儀だね。ちなみに俺としては、パン屋ちゃんが妹になるのは大歓迎だよ。なんなら、うちのと交代する?」
 手のジェスチャーでチェンジを表すと、パン屋ちゃんは慌てて両手を振った。
「そんなっ、悪いですよっ。だいたい、VIP野さん兄妹って、仲いいんじゃないですか?」
「どちらかって言ったらいい方だと思う。けど、兄妹って間柄も続けているといいことばかりじゃないから。嫌になるときもあるよ。……たまには」
 言って、俺はローストビーフにかじりつく。食事は折り返しを過ぎたところだが、すでに腹八分目の満足感がある。いや、考えるな、ひたすら食べろ。止まると食べられなくなるぞ。勢いに任せて、『スペシャルローストビーフサンド』を完食する。
「あっ、それならっ」
 俺が嚥下したころを見計らって、パン屋ちゃんは人差し指を立てた。「お試しに、新斗さんのこと『お兄ちゃん』って呼んでみてもいいですか?」
「お、お兄ちゃん……?」
 いきなりの提案に戸惑う。しかし、その呼び名を復唱してみると、なんとも言えない甘美な響きがあった。俺は兄の肩書を持っているが、実際、お兄ちゃんと呼ばれたことはない。『お兄ちゃん呼び』が、最も基本にして究極であることは、タクからさんざん聞かされている。この場にやつが居れば、小躍りするようなシチュエーションだろう。こんな可愛い年下の女の子に、兄として慕われるのは……。
 返答を待つパン屋ちゃんは、期待を込めた眼で見つめてくる。俺はわずかな背徳感を覚えつつ、お願いすることにした。
「そ、そうだな、一回だけなら。呼ばれてみたいかも、お兄ちゃん」
「セリフはどうしましょう?」
「ここは王道で『大好きだよ、お兄ちゃん』にしよう」
「はいっ♪ それでは、いきますよー……」
 俺たちは歩み寄り、顔を近づけた。
 緊張。一拍の呼吸。
 そして、パン屋ちゃんの唇が、いよいよ開かれる。スローモーションの世界で、自分が生唾を飲む音が聞こえた。
「大好きだよ、おにい「セーン、パイっ!!」
 発せられたはずの『お兄ちゃん』は、耳元での大声にかき消された。同時に、脇腹をどつかれる。
「ぐふぅ」
 筋肉の薄い部位が、的確にぶち抜かれた。呼吸が止まり、思わず崩れ落ちる。「おおおぉぉぉぉ……」
 苦悶。
 蒼い顔をゆるゆる上げると、千恵が仁王立ちで見下ろしていた。事態が呑み込めずにいるパン屋ちゃんを差し置いて、俺に笑いかける。
「先輩、こんにちはです」
「おう、こんにちは。ずいぶん元気な挨拶じゃないか。というか、どこから現れたんだ」
 俺は痛む脇腹を撫でさすり、やっとのことで立ち上がる。
「わたしはいつだって、尊敬する先輩のそばにいるんですよ」
 微妙に不気味なことを言いながら、千恵は石塀に寄っていく。上に置いてあったメロンパンを手に取って、包みを破り、かじりついた。
「尊敬する先輩の食糧を勝手に食べるな」
「いいじゃないですか。先輩、パン三つも食べたからお腹いっぱいでしょう?」
「なんで知ってるんだお前……」
 本当に、物陰に隠れて監視していたとかじゃあるまいな。
 千恵は、咀嚼をしていないのではないかという早さでメロンパンにぱくつく。見る間に、丸い生地が形をなくしていった。
 すべてを胃に収めると、俺とパン屋ちゃんを見比べて、鼻に皺を集める。
「わたし、先輩が誰とイチャついてたって不満ないですけど……」
 その後の言葉は飲み込んで、下唇を噛みしめた。「なんでもないです。自分の教室戻りますね」
 言うなり、チェックのスカートを翻した。大股で歩き去る後姿は、あきらかに怒っている様子だ。
 俺はその背を見送りながら、なぜ彼女が怒っているのか考える。
 逡巡の末、『女の子と二人で話していたから嫉妬したのだ』と結論しかけて、首を振った。まさか。希望的観測にもほどがある。それではまるで、千恵が俺を、男として好いているようではないか。そんなことは、あるはずがない。
 あるはずがない……よな?

――――――
――――
――

 裏門は正門に比べると、一回りも二回りも小さい。長いあいだ改修していないのか、寂れた雰囲気さえ漂っている。パン屋ちゃん曰く、この時間、立ち寄る人間がいないこともリサーチ済みだそうだ。さすが、不法侵入を繰り返しているだけある。
 鉄格子でできた門扉の先は、狭隘道路につながっている。しばらく待っていると、民家の隙間をのろのろと、白いバンがやってきた。
「あ、来ました、来ました」
 パン屋ちゃんが手を振る。
 バンの運転席には、彼女の父親が座っていた。あごに髭を生やした、渋めの男性。店ではいつも見かけているが、俺はなんとなく恐縮する気分で頭を下げた。ガラス窓越しに、会釈を返される。
 番重をバンの後ろに運び込んだあと。パン屋ちゃんは助手席から窓を開けて、話しかけてくる。
「新斗さん、いろいろとありがとうございましたっ」
「いいや、俺でよければいつでも頼ってくれていい」
 エンジンの振動で、車体が細かく揺れている。排気する重低音に紛れて、
「あ、そうだっ。さっきの話の続きなんですけどね、あたしが新斗さんの妹になることはできませんけど、もうひとつ方法がありますよ。新斗さんに、従業員以外でお店を手伝ってもらう方法ですっ」
「え? 方法って?」
 俺は首を傾げた。パン屋ちゃんはそれを見て、悪戯っぽく笑う。
 彼女は隣に座る父親を気にしたのか、俺の耳に唇を寄せた。吹きかけるように吐息を混ぜ、言う。
「新斗さんが、あたしの家にお婿さんにくればいいんです」
「え……」
 俺は思わず固まった。
 パン屋ちゃんはもう、妖しい笑みを隠そうともしない。
「冗談ですっ。新斗さんがとってもいいひとなので、からかってみたくなったんです。ふふっ、あたし、きっと新斗さんが考えてるよりも強欲で、強かな女の子ですよ」
 ……まあ、なんとなくわかってはいたが。
「お父さん、車、出していいよ」
 娘の合図を受けて、運転手が車を発進させる。
 遠ざかる車体の尻には、店の名を示すロゴが塗装されていた。

『yahoo野パン屋』


****


 今日の晩飯はもやし炒めだ。
 ……え? 皿の上に山盛りのもやしを前にして、俺は言葉を失う。料理を待つあいだにあった期待と、現実とのギャップに打ちのめされ、失神しそうになる。倒れ込む寸前、抗議と困惑の意を込めて、指を鳴らした。
「シェフっ、シェフを呼べっ」
「なあに、兄くん」
 責任者が、エプロンで両手を拭き拭きやってくる。「飲み物ならちょっと待ってね」
「飲み物なんてどうでもいいんだ。これはなんだ?」
 貧相な豆類でできたチョモランマを指す。胸元で、いっちょ前に湯気とか立てているが、もやし特有の水っぽいな匂いしかしない。当然だ、もやしなんだから。
「もやし炒め」
「ステーキは?」
「……もやしが安かったから」
「もやしはいつだって安いだろ。うちの家計は、もやしにかかる出費を気にしなければいけないほど逼迫していたか?」
「兄くんがもやしでいいって言ったんだよ」
「違うっ、断じて違うっ。付け合わせの野菜がもやしでいいって言ったんだ!? 肉ありきだろっ、ステーキありきじゃんか!?」
 柄にもなく荒げた声が裏返る。目元を引き締めていなければ、涙が零れそうだった。
「じゃあ、もういいよ。嫌なら食べなくていいもん」
 こちらもまた泣き出しそうな声とともに、今晩唯一の食糧が連れ去られていく。
 食料を与えてくれる存在は神だ。台所担当神だ。神の手にかかれば、人間の生殺与奪など思うがまま。神に逆らってはいけない。俺は、テーブルに頭を擦りつけて謝った。
「ああっ、待てっ、食べるからっ。食べさせてくれっ」
 今日の晩飯はもやし炒めだった。

       

表紙
Tweet

Neetsha