Neetel Inside 文芸新都
表紙

どうでもいい話集
アイマイアイデンティティ

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Monday/春は遅れてやってきた




 見慣れたはずの異性に、あるとき不意に恋をする。
 この現象の名前は、一体なんと言うのだろう。
 一目惚れとは少し違う。まっとうな恋愛の手続きを踏んだわけでも、打算を積み上げていったわけでもない。いままで隠れていた感情が、とつぜん視界を奪ったような。ずっと手に持っていたガラクタが、価値のあるものだと気が付くような。
 あるいは、それは蕾だったのかもしれない。花弁を開くときまでは、息を潜めて秘めていて。ひとたび咲けば、美しさから逃れることを許さない。
 ……だとすれば。
 俺が恋に落ちたのは、うららかな陽気のせいかもしれなかった。


****


 一時間早く起きたから、一時間早く家を出た。
 早朝と言っていい時間帯。通学路の空気はいつにも増して澄んでいる。見渡す限りの風景には、通行人はおろか、農作業を行う老人すらいない。どこからか鳴くメジロ以外、動物らしきは俺ことVIP野 新斗びっぷの にいと(変わった名前だろ?)のみ。
 足元、平べたく続く地面は草の絨毯に覆われている。放射状に差し込む光は、薄い雲の向こうから。薄明光線とまではいかないが、天使でも降りてきそうな雰囲気だ。
 静謐な朝。この辺りは元々からして、うるさくない。余りきった土地は多くが田園に使われ、背の高い建物は数える程度。民家すらまばらに点在するだけで、窮屈とは無縁である。場の広大さは、個々の動きを希釈する。大気の揺らぎさえ、一切が静止しているような錯覚はそのせいだろう。俺は止まった時間をかき混ぜるよう、大げさに息を吐いて歩いた。
 見通しの良い畦道を進んでいくと、グラデーションのようにコンクリートが混ざってくる。学校が建つところは、わずかに都会的である。植え込みの並木がつくる木漏れ日を踏んで、やがて右手に校舎が見える。茶と白のラインで彩色されたコンクリート造。周辺施設も含め、建物は近代的なデザインで統一されているものの、奥側にそびえ立つ時計台だけは古めかしい。
 高校は、敷地の広さも相まって、辺りでは飛びぬけた威容を誇っている。俺にとっては見飽きたものだが、この場所に通うのも残り一年を切ったと思うと、惜しい気もする。
 ちらほらいる制服姿の生徒たちは、早起きな連中だろう。馴染みのないメンツを横目に歩道を進む。
 平穏な登校が打ち破られたのは、ちょうど校門をくぐったときだった。
「覚悟ぉっ!」
 背後で聞こえた掛け声とともに、後頭部に衝撃。倒れ込みそうになる。
 よろめきながら振り向くと、千恵が立っていた。鈍器として使用したらしいナイロンのスクールバッグを抱えて、ふくれっ面。膨らました頬の横で、二つにまとめた髪が揺れている。
 あけ放たれた引戸門扉、学校敷地の境目を挟んで、俺たちは相対する。どうしてだろう、千恵がいる。普段よりもとびきり早い登校時刻だというのに。
 いいや、そんなことよりも。
 俺はにわかに、自分の心を疑った。目前の光景に対して、自らが抱く所感におののいた。
 口先を尖らせる千恵。その、控えめに色づいた唇。清廉な意思を放つ、水晶の瞳。陽光を吸って宿したような、透き通った肌。並木から茂る若葉を背景に、少女はいまや亡き桜を思わせて、映える。――見惚れてしまう。
「薄情者ぉ。学校行くとき置いてかないでって、いつも言ってるじゃないですかぁ」
 恨みがましい非難は涙声だ。
 なにもかも不意打ちをくらった俺は、口も利けずに呆けていた。
 しばらく黙っていると、千恵の顔が心配に変わる。
「あ、あの、強く殴り過ぎましたか? 様子がおかしいんですけど。まさか脳に異常とか……」
 いたわる手のひらが額に迫って、俺は飛び退った。
「うわあっ」
「なぜ逃げるです」
「に、に、に、逃げてないっ」
「なぜ赤くなるです」
「あ、あ、あ、赤くなってねぇよっ!?」
「……怪しい」
 千恵はジットリした目で睨んでくる。
 校門近くの往来。周囲の視線を集めていると気が付くまで、俺たちは見つめ合っていた。

――――――
――――
――

「ですから、反省してくださいよ。早起きしたからって、ひとりで勝手に学校行っちゃだめですってば。毎日一緒に登校するって約束したじゃないですか。今日なんて、後から走って追いつくために、わたし朝食も食べられなかったんですよ。おかげで、お腹ペコペコです」
 せっかく合流したことなので、俺と千恵は連れ添って歩く。といっても、校門から下駄箱までの短い距離だが。そのことについて、千恵は先ほどから文句を垂れている。滔々と、先んじて登校したことの責を言い聞かせるように。こういう場合の彼女の饒舌さには、目を見張るものがある。
「ほら、ちゃんと聞いてますか? にい――」
 と、俺に呼びかけようとして、千恵は言葉を切った。
「はっ、そうでした。学校では呼び方を変えるんでした。ほら、ちゃんと聞いてますか? セ・ン・パ・イ」
 センパイ。先輩。無性にむずがゆくなる二人称。
「恥ずかしいから、やめろってのにその呼び方」
「どうしてです? 先輩にとっては、年下の女の子から敬われることがなによりの悦びなのでは?」
「人を色魔の変態みたいに言うな。大体、先輩というならこの学校のほとんどがお前の先輩じゃないか。敬った呼び方には賛成だが、せめて、『新斗さん』とか『新斗先輩』とかにしておけよ」
「ダメです。先輩は先輩なんです。わたしにとって真に先輩たる先輩は、先輩ただひとりなんですから。ほかの年上の方々は、先輩とは呼ばないのです。つまり、先輩は固有名詞。わたしに先輩と呼ばれる権利を持つのは先輩だけなんですよ。誇らしいでしょう?」
「『先輩』がゲシュタルト崩壊してきたぞ……」
 千恵がうちの高校に入学してきてから、かれこれひと月が経つ。しかし、呼び方も含め、学校での千恵の言葉遣いには、いまだに慣れない。
 というのも、俺たちの付き合いは、一年や二年の話ではない。中学生、小学生、遡れば幼稚園時代、果ては赤ん坊の頃からの付き合いなのである。当然、プライベートであればタメ口上等。年齢での優位など、あったものではない。
 それがどうして、高校の門をくぐったとたん態度が慇懃になるのかといえば、これには現実的な理由もあるのだが――。
「ねぇ、だって、先輩」
 顔を上げると、すでに目的地に着いていた。
 無数の靴音を反響させるエントランス。その中心に立ち止まって、千恵は俺に振り返る。さっきまでのぶーたれた表情や、冗談めかした表情とは違う、哀切めいた色を瞳に浮かべて。
「わたしがこの学校に入学したのは、先輩と一緒にいたいから、ですよ。できるだけ長くそばにいて、できるだけたくさん思い出をつくりたいから。……だから、少しくらい、わがまま聞いてくれたって、いいじゃないですか」
 おろしたての制服、チェックスカートが翻る。紺色のブレザーは、千恵にはちょっと堅苦しいようだ。制服に着られている感は、三年次にはすっかりなくなってしまっているのだろうか。
 だとしたら、惜しい。
 あどけない美しさも、去りゆく季節も永遠でないのなら、彼女を抱きしめていたいと思う。薄い唇にキスをして、離さないでいたいと思う。傲慢な欲望は、尽きることなく湧き出してくる。心臓の音が高鳴って、締め付けられるような感覚を味わう。
 俺は、内心を悟られぬよう、用心深く溜息を吐いた。
「しょうがないな、わかったよ。これからはもう、勝手にひとりで登校したりしない。先輩呼ばわりも、全面的に許してやる。それでいいか?」
 言ってやると、千恵は一気に相好を崩した。
「うんっ、よいですっ」


****


 学校から帰宅後。自宅。
 俺は、玄関の扉を開けるなり、入ってすぐのささら桁階段を駆け上った。すばやく二階の自室に滑り込んで、鍵を閉める。部屋の角にあるローベッドに、体を投げ出すようにして横たわると、虚脱感がのしかかってくる。
「なんてこった……」
 枕に顔面をうずめ、呟く。
 朝一番に千恵を見てから、胸の辺りを支配している感情。結局、学校にいるあいだ、ひとときも俺を離さなかった。授業で聞いた内容など、欠片たりとも残っていない。委員長からはシャキッとしろと叱られたが、無理だ。とうてい学業どころではない。世の浮ついた若者たちは、どいつもこいつもこんな敵と戦っていたのか。そりゃあ、成績だって落ち込むわけだ。
 降って湧いた恋の病は、なにが原因だったのだろう。春のうららかな陽気か、おろしたての制服か、あるいは、後頭部をぶん殴られたことか。どれもが見事な正解で、どれもが的外れな誤解であるような気もする。もっとも、原因を突き止めたところで、手の施しようもないのだろうが。
 シャワーを浴びる気力もなく、制服をかろうじて脱ぎ捨てると、俺は瞼を閉じた。今日はもう、寝てしまおう。明日の朝にはすべてが正常に戻っているはずだ。信じるしかあるまい。
 吸い込まれていく意識の中、願ったことはただひとつ。この恋心が偽りで、「つまらない気の迷いだった」で済むことだ。
 なぜかって。
 叶わない恋ほど、無益なものはないから。

     

Tuesday/幼馴染は負けフラグ




 教室において物品の取引が行われることは、ままある。
 小学校や中学校にくらべ、高校では地理上広範の生徒が集うのもあるだろう。学校外でたやすく会えない友人同士では、もっぱら教室のみが社交の場になる。漫画の貸し借り、誕生日プレゼント、金の融通。諸々を、休み時間に済ませてしまえば効率がいい。
 厳密に言えば、娯楽品の持ち込みは校則で禁じられている。が、わが校の生徒は基本的におとなしい。風紀を乱す無茶はしないだろうと、教師陣にも見過ごされることがほとんどだ。
 しかし中には、加減を知らない者もいる。緩い規則にあぐらをかいて、やりたい放題。学業をそっちのけで、怪しげな文化振興に励む。まして、受験を控えた三年生にもなってそんなことをしているやつは、世間ズレしていると言わざるを得まい。
「新斗殿、先週お貸ししたアニメDVD、返していただくのは今日でしたな。持ってきましたか?」
 四限目の数学を終えた直後。倦怠感が漂う教室内。前に立つ男は、関数も極限も存ぜぬという顔をしている。小太りの体格、黒縁の丸眼鏡に天然パーマ。洗練と真逆をゆく風貌は、まだ見ぬキャンパスライフに備えて洒落るクラスメイトと相容れない。世間ズレしていると、言わざるを得ない。
「持ってきたとも。まってろ」
 俺は机の横のバッグを漁る。取り出したパッケージを手渡すと、男はそのまま立ち去るのかと思いきや、そのパッケージを俺の机の上に置く。窓際に立てかけてあったパイプ椅子を引っ張ってきて、対面にどっかと腰を下ろし、爆竹みたいな笑みを咲かせた。
「さてっ、オタク談義といきましょうぞ、新斗殿」
「しょうがないな、付き合ってやろう、タク」
 俺はこなれた呆れ顔で、弁当の包みを開いた。
 こいつはタク。重度の二次元オタクにして、俺の愛すべき友人である。
「今回お貸しした『空の鍋を混ぜて!』はおもしろい作品だったでしょう。ハーレムの恋愛ものと聞けば珍しくもないかもしれませんが、あれほど意欲的な展開はそうありません。そもそも、『空混』は恋愛アドベンチャーゲームが原作になっていまして、そこでのコンセプトというのが――」
 タクが語る内容は、パンピー(あるいはにわかオタク)の俺にとって、八割方が意味不明だ。けれど、構わない。瞳に宿る情熱と、声にこもる変態性を楽しむだけでも、十分鑑賞の価値がある。
 噂によればこの男、入学後一週間のうちに、学校中の隠れオタクをあぶり出したとか出さないとか。タクというあだ名はもちろん、『オタク』からきている。オタクから敬意を取り除いてタクというわけだ。半ば蔑称のような呼び名だが、こいつを信奉するオタク仲間からは御御御おみおタクと呼ばれているとかいないとか。なにもかも真偽は定かでないが、とにかく、一部界隈でカリスマ的存在らしい。
 進路への不安が先走りがちな三年次では、こういうズレたやつほど友人としてありがたい。さながら、受験ストレスを緩和する一服の清涼剤(それにしては汚らしいが)である。
 友人の種類はなるべく多い方がいい。人生が豊かになる。俺の持論だ。
「で、新斗殿としては、どのような感想を抱かれましたか?」
 さんざん喋りまくったあと、タクが水を向けてくる。俺は、きのうまで見ていたアニメの内容を思い返した。腕を組んで、考え込む。
「うーむ……。俺としては、そうだな。主人公のことをむかしからずっと好きだった子がいたじゃないか。あの子が報われなかったのは可哀そうだったな。たいそう献身していたのに」
「なるほど、ごもっともです。しかし、まあ、致し方ありません。『幼馴染は負けフラグ』ですからな」
「負けフラグ?」
 俺が疑問符を浮かべると、タクは中指で眼鏡を押し上げた。
「幼いころから主人公と親しいヒロインは、恋に破れるのが常ということです。大昔から変化のない関係が、進展する道理はなかなかありませんからな。あと、一歩メタに踏み込んでしまえば、新興ヒロインの当て馬にしやすいという理由もあります。身も蓋もないですがね」
「ふぅむ、なるほどな」
 説明は不思議と胸に落ちた。『幼馴染は負けフラグ』。オタクの世の格言は的を射ているかもしれない。俺が千恵と付き合えないのも、要はそういうことなのだ。長い時間を共有した二人のあいだで、恋愛は禁忌になる。性欲やら愛欲やらは劇薬だ。過去の関係までもぶち壊してしまいそうな恐怖が、情動を押しとどめるのだろう。
「新斗殿が幼馴染萌えということであれば、おすすめのアニメがありますよ。ほら、ちょうどここに。『西鳩』、往年の名作ですよ」
 タクがどこからともなく新たなパッケージを取り出したとき、声が掛かった。
「ちょっとっ、そこっ!!」
 見れば、教室の隅から委員長が指さしている。
「あんたたちね、なに堂々と教室に私物を持ち込んでるのよ。やるならもっと、陰でこそこそやりなさい。没収するわよ、没収」
 立ち上がり、肩をいからせやってくる。『西鳩』が彼女の手にかかると、タクは激しい抵抗をみせた。
「引っ張るなぁっ、やだっ、拙者やだぁっ! 初代『西鳩』の奥ゆかしい空気感はオンリーワンなのですっ、至高なのですっ、絶妙の間とセル画の色合いで表現されたノスタルジーはまさに美少女アニメ界の幼馴染っ、記号的キャラクターの中にセピア色の魂が吹き込まれているのですっ、三次元女には遥かに届かぬ領域なのですっ、二十周年がめでたいのですっ、離せぇっ」
「知るかっ」
 二人はやかましく言い争っている。
 委員長は、洗練された目鼻立ちにスクエア型の眼鏡を引っかけた恐美人。低めでまとめられた団子髪もいかにも神経質そうだ。見るからに正反対なタクとは相性が悪い。黙っていれば、争いは果てなく続くだろう。俺はしぶしぶ、割って入ることにした。可能なかぎり控えめに。
「ま、まあまあ委員長、ここは俺との仲に免じて……」
「あんたと私の仲ってなによ。ただの腐れ縁じゃない」
「友達、友達、ユーアーマイフレンド。俺たちの友情は最高じゃないか、なあ?」
 肩を抱き、必死の懐柔を試みる。腕はすぐに払いのけられた。
「なれなれしく触んないでよ。私、彼氏持ちなんだから。男女の友情とかお呼びじゃないの。はあ、まったく、もう」
 声色は変わらず刺々しいが、一応効果はあったようだ。委員長は『西鳩』から手を引っ込める。舌打ちをひとつくれてから、吐き捨てた。
「しょうがないわね、今回だけは見逃してあげる。次から気を付けなさい」
 鋭い眼鏡を反射で光らせ、歩き去っていく。勇ましい後ろ姿。室内用スリッパを履いているはずなのに、ヒールのような靴音が鳴る。恐ろしい女だ。彼氏はさぞ包容力のある男性に違いない。
 ともあれ、ようやく危機は去ったらしい。安堵する俺の横で、タクが呪いのように呟いた。
「……『眼鏡は不人気』。言われる理由がよくわかりますな」
「ハァン?」
 聞きとがめた委員長が振り返るまで、コンマ一秒とかからなかった。
 てゆーかタク、お前も眼鏡だろ。

――――――
――――
――

 もはや処置なし。
 眼鏡のツルで血だるまにされるタクを眺めながら、俺は食事を再開した。
 ステンレスの弁当箱には、タコさんウィンナー、卵焼き、から揚げ、プチトマト。王道のおかずラインナップのほかに、鶏の照り焼き、キンピラごぼう、ほうれん草の卵とじがひしめき合っている。おそらく、弁当箱を逆さにしても落ちてこないだろう。それくらい隙間なく詰められている。
 明らかに一食分を超えた物量に顔をしかめる。ふと目を移すと、弁当箱の蓋に、メモ用紙が貼られているのを見つけた。丸く可愛らしい文字でメッセージが添えられている。

 『兄くんへ。きのう兄くんが食べなかった分の夜ごはんも入れておいたよ。ちゃんと残さず食べること(怒)』

 わが家の台所担当からお達し。きのう、晩飯を食べずに寝てしまったことに怒っているらしい。(怒)と付いているのだから間違いない。それにしたって、わざわざ二食分を詰めずとも、晩飯の残りだけを弁当にすればいいのじゃないかと思うのだが、家族の栄養管理を担う彼女とすれば許せないのだろう。なにはともあれ、今日の弁当は残せないということだ。
 苦しい食事たたかいになる。覚悟し、まずは卵焼きから片付けてやろうと箸を伸ばした。
 そのとき。
「へぇ~、先輩って、わたしに隠れてこういうアニメ見てたんですね」
 背後の頭上から声が降った。
「ぉっ……!」
 音もなく驚嘆を発する俺を無視して、声の主は回り込み、机上のパッケージ――『空の鍋を混ぜて!』を左手に取った。
「このちっちゃい女の子かわいいですね。わー、このひと胸おっきい。あ、真ん中の子はわたしにちょっと似てるかも。ねぇねぇ先輩、先輩はどの子がいちばん好みなんですか? もしかして、真ん中の子だったりしません?」
 顔を寄せ、まんまるの目を宝石みたいに輝かせる女の子。一晩たったら恋情がなくなるとかいう算段は甘かった。今日も今日とて、千恵はかわいい。アニメの女の子よりもお前のほうが好みだぞ。……と言ってやりたいところだが、冗談には冗談で返すのが俺たちのルールだ。
「千恵に似てる真ん中の子? ああ、そいつ一番ロクでもないやつだったぞ。人とか刺したりする。はぁん、なるほど、たしかにお前そっくりだな」
「わたし人とか刺しませんからっ!?」
「そんなことよりお前、いったいどうしてここにいるんだ。三年生の教室だぞ」
「たまには一緒にお昼でも食べようかと思って。かわいい後輩が訪ねてきたんですよ、もっと歓迎してください」
 悪びれる仕草もなく、右手に持った弁当箱を見せびらかす。空席になっていたパイプ椅子に腰掛けると、俺と向かい合うかたちになった。「都合よく椅子まで用意してあるなんて、もしかしてわたしが来ること期待してましたか?」なんて世迷言をのたまう。むしろいまは間が悪い。俺とて、千恵と昼食をとることはやぶさかでなかったが、告げねばなるまい。
「無理だな。お前とは同席できそうにない」
「え」
 千恵が、弁当箱を開ける手を止める。
「どうしてですか。せっかく、一年生の教室からはるばるやって来たのに。もしかして先輩、わたしとごはん食べたくないんですか。正面にいると食欲を失う顔だって言いたいんですか。ひどい。たしかに、アニメの女の子ほどかわいくないかもしれないけど、そこまで言うことないよ。わたしだって年頃の女の子だよ。面と向かって気持ち悪いなんて言われたら傷つくよ。デリカシーに欠けるよ。配慮が足りないよ」
 相当気分を害したらしい、敬語すら忘れてまくし立てる。
「いや、そういうことじゃなくてだな」
 俺は、千恵の肩越し、向こう側に目をやった。
 奥では、血の制裁が済んだところだった。
 もの言わぬタクが床に伏して死んでいる。その横、委員長がまるで幽鬼のように立ち上がる。獲物に飢え、炯々とくりぬかれた双眸が、千恵の背を捉えた。
「あらぁ、千恵ちゃん」
「あ、いいんちょさんじゃないですか、お久しぶりです」
 千恵は座ったまま、振り向いて対応する。
「久しぶりねぇ。あなたが中学生のとき以来かしら」
「ですです」
「ちょっと見ないあいだに美人になっちゃって」
「いえいえ~、いいんちょさんほどでは~」
 眼鏡の奥から放たれる剣呑さに、千恵は勘付いていないようだ。のん気な態度が場をほだすかとも思ったが、そうそう上手くはゆくまい。いつもの委員長ならいざ知らず、現在の彼女は校則の鬼、ルールの暴走機関車だ。有名無実化した些細な決まりも妥協しない。
「でもね、千恵ちゃん。ゆっくり旧交を温めたいところだけれど、ひとつ言っておかなくちゃいけないことがあるの。
 休み時間に関する校則は知ってるかしら。『他クラスの教室への出入りは原則禁止』。生徒手帳に書いてあったでしょう。入学からひと月で校則破りとは、ずいぶん大胆になったものね、いい度胸だわ」
 言葉の最後にはドスを効かせ、千恵の襟元を掴む。力任せに、軽々とパイプ椅子から引きずり下ろした。
「え? え?」
 戸惑う千恵。抵抗する暇すらなく、扉のほうへ引きずられていく。
「お昼ごはんなら、私と一緒に食べましょう。いくらでも楽しくお話してあげるわ。わが校の風紀と規則について、ね」
「あわぁぁぁぁ……。センパーイ、たすけてくださーい」
 断末魔のような悲鳴が遠ざかって消えていく。
「……南無」
 卵焼きを頬張りながら、合掌。俺にできたことはそれだけだ。


****


 今日の晩飯はオムライスだ。
 ガラス製のテーブルに配膳された料理は二人分。花柄のランチョンマットの上に、隣り合って置かれている。うちは両親ともに仕事人間のため、基本的に兄妹だけでの食卓だ。料理を作って食べる妹、作られた料理を食べるだけの兄。残念ながら、貢献度の違いは明白である。食事に関することについては、俺は常に、頭を低くしていなければならない。
「兄くん、なんか食べるの遅いね。おいしくない?」
 およそ三分の一を残したオムライスを前に、俺はスプーンを止めていた。
「おいしくないことはない。だが知っての通り、昼食の弁当が重かったからな」
「ああ、弁当、そっか。きのうの夜ごはんも入ってたもんね」
「入ってたもんね、とは他人事みたいに言うじゃないか。入れたのはお前だろう?」
 隣の席の皿をうかがうとすでに、きれいに平らげられている。作った料理は廃棄しないのがVIP野家における鉄の掟だ。よって、食べきれなければ次回に持ち越し。
「いい? 今日の夜ごはんを食べきらないと、明日のお弁当もその分、重くなるよ」
 俺は唸った。
「ぐぅっ……。作る量を調節する選択肢は?」
「ううん」
 強権なる台所担当はかぶりを振る。ミディアムの髪が静かに揺れた。「ない」
「なぜ?」
「料理の量はね、愛情の量なの。兄くんには、妹が心を込めて作った料理をぜんぶ食べる義務があるんだよ」
「愛が重い」
 俺は、オムライスの小山を崩して弄び始めた。チキンライスと卵の部分を分解し、味に変化をつける作戦だ。『食べ物で遊ぶな』、という非難の視線が、隣から刺さっているような気がしないでもない。
「食器洗いたいから、なるべく早く食べちゃってね」
 視線の主は催促して、テーブルの上で脱力する。ガラス製の天板に、ミディアムヘアが垂れ落ちた。饅頭みたいな頬っぺたを横たえて、じっとこちらを見てくる。早く食べろ。早く食べろ。繰り返される無言の圧力。針の筵である。
 ちょうどそのとき。唐突に軽快な電子音が鳴った。流行りの女性歌手が歌うJ-POPは、俺の携帯の着信ではない。
 電話ならば助け船だと思ったのだが、着信はメールだったようだ。それでも、食事から話題を逸らすチャンスと踏んで、尋ねる。
「父さんか母さんからか?」
「ううん、中学の友達からだった。……ふむふむ、えっとね、彼氏と喧嘩しちゃって破局の危機なんだって。大変だね」
「ふぅん、大変だな。知らんけど」
「……そういえばさ」
「ん?」
「兄くんて、ひょっとして恋愛のことで悩んでたりするの?」
 俺は、チキンライスをチキンとライスに分解する手を止めた。
「なんだ、藪から棒に」
「だって、きのう明らかに様子おかしかったから。兄くんが勉強で思い詰めることってあんまりないし、もしかしたらって。当たってた?」
「……さ、さあな」
 こいつ、妙なところで鋭い。
「わわ、図星なんだ。あーっ、わかった、わかったよっ。もしかして相手は、yahoo野さんちの子じゃない? 近所の幼馴染の女の子に、ある日とつぜんドキドキしちゃってどうしよう、みたいなっ。そっか、そっか、兄くんも年頃だもんね、恋愛のひとつやふたつくらいするかぁ。
 ……うーん、けど、兄くんて女の子の扱いは上手そうじゃないなぁ。だって、変なトコで真面目なんだもん。うん、ムリムリ、うまくいかない。付き合ってもきっと、長いこと手も繋がないでいて、そのうち愛想尽かされちゃうよ。ああ、兄くんかわいそう……。でも、だいじょうぶっ、悲しまないでっ、兄くんには一生独身のまま、かわいい妹を可愛がって生きる将来もあるよっ」
 ……戯言を。俺はスプーンを握り直した。
 平皿の上、バラバラ死体になったオムライスをいっぺんにかき込んで、立ち上がる。空になった食器をまとめて、台所に放った。
「皿洗いは頼んだぞ」
 そのまま、逃げるようにして部屋を後にする。
 ダイニングの扉を締める直前。背中から、勝ち誇ったような呟きが追いかけてきた。
「なぁんだ、ちゃんと食べられるんだね」

     

Wednesday/境界線を超えるまで




 正鵠を射る――。
 俺は射場の定位置に立ち、的を視界に収めた。ゆっくりと呼吸を整えて、動作に入る。
 普段は森閑とした弓道場。校舎の喧騒から離れ、隔絶された空間。いまは、暗くなるごとにいや増す雨音が辺りを覆っていた。
 専心。
 水煙をあげる激しい雨を、俺は意識から追い出そうとは思わない。受け入れるのだ。包括して、集中する。煩わしい雑音や他人の気配さえ孕んで、心象世界は白んでいく。俺以外のなにもかもが消えていく。閉じていく。……独りになる。
 むかし、正月の席で東京に住む叔父が言っていた。若者たちよ、ぜひともインドに旅に行ってこい。遅くとも大学を卒業する前に、バックパックひとつを背負って。本物の孤独というものを味わってこい。
 いかにも前時代的な価値観だと、思わないでもない。
 リスク管理が何にもまして尊ばれる昨今、治安の悪い海外へ、ガイドも付けずに行ってこいと。とても賢明な判断とは言えない。実際、叔父は大学時代インドに飛んで、しばらく消息不明になったらしい。なんでも、現地で大麻に激ハマりして、解脱しかけていたとかなんとか。当時に気を揉まされた親戚一同にとってみれば、インド旅行の勧めなど「どの口が」という話であって、叔父は年明けから総攻撃を受けていた。
 けれども、そのとき苦し紛れに出てきた言い訳が、妙に説得力があったのだ。叔父からすれば、若き日の過ちを正当化するおためごかしだったのかもしれないが、俺の記憶には鮮明に残っている。
 曰く、青年期になすべきこととは、アイデンティティの確立らしい。
 人間はふつう、状況に応じた複数の自己を持っている。たとえば、決まりを守るしっかり者の自分と、無頓着でだらしない怠惰な自分。まったく相反する性質に思えても、それらは同居し得るのだ。基準は、場所によって、立場によって、ノリによって。社会生活を送る上で、自然と使い分けられる。外では冗談を言う明るいやつが、家だと無口で暗いとか。それほど極端でないにせよ、俺にも少しは心当たりがある。
 多重人格というほど明確ではない。曖昧に溶け合った自己が、ときには自分自身に混乱をきたすこともある。仰々しい言い方だが、要は、人間はややこしいということだ。
 そして、アイデンティティの混乱を解消するには、孤独になるのが手っ取り早い。あらゆる社会的拘束から逃れ、解き放たれた自分を見つめ直せば、モラトリアムに回答を与えられる。と、いうのが叔父の主張だった。
 海外へ『自分探し』に行く連中なんて胡散臭い気もするが、言われてみれば理屈は通っている。バックパッカーはテイの良い引きこもりみたいなものだ。なるほど。
 あいにく、俺はごく平凡な高校生である。バックパッカーになる行動力も、引きこもりになる忍耐強さもない。けれども、弓を握っている短い間は、孤独を味わうことができる。
 射法八節――矢を放つまで一連の動作は、ほとんど無意識下で行われる。外界に気を散らすことなく空白に。あらゆる雑念を捨て去ることが理想である。「道」と名のつく鍛錬は総じて精神性を尊ぶが、弓道というのはいかにもではないか。見通し遮る霧を払い、己の中心を貫く一本の矢。叔父の話にぴったりだ。
 ところで、ここで深遠な懸念が一つ。複雑な自己を持つのは、俺ひとりではないということ。人間は、ゲームやアニメのキャラクターほど単純でない。俺と関わる人物の誰もが、捉えがたい人格を有している。俺はいったい、どれほどそれを理解しているだろうか。俺が知っているつもりの人間はいったい、どういう一面を隠しているだろうか。
 ス、と風が破れる音がした。
 意識を起こすと、弦の緊張が解けている。
 残心。
 正面を見やると、放たれた矢は的を外れ、安土に突き刺さっていた。

――――――
――――
――

 プレハブの更衣室を出ると、一帯が薄暗くなってきていた。雨脚はすでに弱まっていて、トタン屋根からは細かいしずくだけが滴っている。水たまりを揺らす波紋も、秒にひとつというところ。明日には乾いているだろう。
 重く瞬きをして、薄闇に目を慣らす。見回すと、運動場にも校舎にも人影が見当たらない。遠く山際では夕陽が紫色に滲んでいる。しまったな、更衣室でのんびりし過ぎたか。
「おそーい、ですよ」
 突っ立っていると、案の定、横からお叱りがかかった。
 ずっとそこで待っていたのだろう。制服姿の千恵が、すのこに座って膝を畳んでいる。地面を指でつついてイジイジ。雨をしのいで待ちぼうける様は、捨て猫じみてみえる。
「スカート汚れるぞ」
「先輩のせいです」
 たいして恨めしくもなさそうに言うと、立ち上がって尻を払った。
「……帰るか」
「帰りましょー」
 部活動後のきもち疲れた笑顔で、千恵は俺の腕を引く。すると、湿った草木のにおいに混じって、制汗剤の香りが漂ってきた。首筋の汗はもう乾いているようだが、千恵の、生物としての生々しさを想像するだけで、居ても立っても居られないような気分になる。いかんいかん。鎮まれ俺。
「なに変な顔してるんですか。早く帰りましょうよ」
 俺が己の欲望と一騎打ちしているのを見つけて、首を傾げる千恵。無垢なお前に男性的葛藤などわかるまいよ。といっても、まさか性欲と対決していますとは白状できない。
「いや、お前の体から匂い立つエイトフォーを嗅いでいたら、柑橘系のジュースが飲みたくなってな」
「なんですかその突飛な変態発言」
「自販機に寄っていく」
「別にいいですけど。……ていうか、部活の後はあんまりにおいとか嗅がないでください。恥ずかしいので」
 自分の腕で体を抱いて、俺から距離を取る。
「乙女みたいなこと言いやがって、生意気な」
「乙女ですからっ」
 実のない会話を交わしながら、校舎の端をつたって歩く。雨は止みかけで、折り畳み傘も持ってきているが、なんとなく雨空の下には出たくない。
 どうせ飲み物を買うだけだ。同行なんて必要ないというのに、千恵は俺の後ろにぴったり着いてくる。思えば学校で、授業中の時間以外は、ほとんど顔を合わせているような気もする。昼食はたいてい別々に済ませるとはいえ、登下校から休み時間、部活動までも。恋愛を抜きにすれば懐かれている自覚はあるが、その執念たるや見上げたものだ。
 千恵が弓道部に入ると言い出したのは、たしか、入学して幾日も経たないうちだった。せっかく体験入部の期間が設けられているのだから、いろいろ周ってみてはどうだと勧めたのに聞く耳持たず。俺と同じ学校に通えるのなら、同じ部活に入るのは当然だと豪語した。冥利に尽きるといえば、まあ、尽きる。
 しかし同時に、これが面倒の種なのだ。
 部活動で先輩後輩の関係になることは構わない。問題は、弓道部そのものの体質、もっと言えば、顧問の性格だ。中・高・大と弓道の舞台で名をはせ、畏れられたらしい『女傑』は、称号に恥じない峻厳な人柄の持ち主である。つまり、ゴリゴリの体育会系である。
 部内間の上下関係には特に厳しい。一年生が三年生にタメ口を聞こうものなら即刻、つるし上げをくらうだろう。さらに、部での立場は学校生活全体に波及し、部員全員を巻き込んだ一種の相互監視社会を作り上げている。「先生、あの後輩が調子こいてました。しめちゃってください」ってなぐあいに。そういうわけで、千恵は、俺に敬語を使うことを強いられているわけだ。面倒なことこの上ないと思うのだが、本人が束縛を楽しんでいるふうなのだからたくましい。
 駐車場から渡り廊下を横切って、中庭に入る。石畳が敷かれた円型の庭には、囲うように植え込みが配置され、ツツジが短い満開期を迎えていた。植え込みの真横、微妙に景観を損なう場所に自販機が並ぶ。ここにも屋根テントが覆っているのが幸いだ。
 迷わずダイドー自販機の前に立つ。運動後の柑橘系ジュースといえば『さらしぼ』しかない。儲けを度外視した七十円の衝撃価格は、学校運営側の介入が成せるワザだろう。
 俺が財布から十円玉をかき集めていると、千恵が急にそわそわしだした。周囲をやけに警戒し、首を巡らせている。
「どうかしたか?」
「いえ、その、なんか気配が。たぶん気のせいだと思いますけど……。先輩、さっさと買って行きましょう」
「?」
 慌てるような様子に困惑しながら、自販機のボタンを押す。
 ドンガラガッシャン。缶が転がり落ちる音。それが合図だったかのように、背後から怒号が届いた。
「オイっ!!」
 噂をすればというやつか。入部から二年間で飽きるくらい聞いた声に、俺は電撃的反射で振り返り――後方に例の鬼顧問を見つけ、流れるような動作でお辞儀した。角度はきっちり三十度。
「「お疲れ様ですっ!!」」
 隣で千恵も頭を下げている。新入部員にしてはなかなか堂に入った礼だ。
 顧問は、背中に鉄板を差し入れたような姿勢のまま歩み寄り、直立不動になった俺をねめつける。
「新斗ぉ、学ランのホックを締めろ」
「はいっ」
 慌てて言われた通りにする。
 サイズの合わなくなった制服は首を締めあげる凶器だ。非常な圧迫感が襲う。
 圧迫感といえば、正面に立つ女性もなかなかのもの。平均的青年男性よりも背の高い俺よりもさらに長身。かつ、引き締まった四肢の筋肉は荒々しくも思えるのに、深黒の長髪と合わさると、彫刻じみた硬質を示す。
「部活動が終わったらさっさと家に帰れと言ってあるだろう。それに、弓道衣を脱いでからも身だしなみに気を抜くな。普段の緩んだ態度を見逃してくれるほど、武道は甘くない。ほら、ベルトも見せてみろ」
 言って、顧問は切れ長の目を尖らせる。こうなればもはや逃れられない。されるがまま、全身のチェックを受ける。
 コルコバードのキリスト像よろしく立つ俺。それを横目に、千恵が遠慮がちに主張した。
「あのぅ……わたしはどうすれば……」
 顧問は一瞥して、
「うむ。お前は問題ないようだからヨシ。先に行っていい」
「やった」
 千恵はあっさりと解放され、小さくコブシをつくって去っていく。その途中、しかるべき距離をとってから、俺にだけ見えるよう親指を立てた。グッドラック。そういうことらしい。離れていても確認できるドヤ顔には、安全圏にいる人間特有の安い同情が滲み出ている。俺は睨みを利かせ、さっさと行けと促す。教育するぞ、先輩として。
「ところで先生、千恵にはずいぶん甘いんですね……?」
 ベルトを締めあげられながら尋ねると、顧問は鼻を鳴らした。
「新入部員にはな。最初の内は優しくしておくんだよ。新斗が一年のときも同じだったはずだ」
「……ああ」
 なるほど。そうして部活をやめづらくなったころに、ゲロを吐くほどしごくんですね。わかります。俺は自身の忌々しい記憶を掘り当てた。哀れ千恵よ。俺が引退したあとの弓道部で、世間の厳しさを知るがいいさ。

――――――
――――
――

 顧問から身柄を解放されるころには、夕日が沈みきっていた。
 希望小売価格よりもよほど高くついた『さらしぼ』を飲みながら、校門へと向かう。雨雲はいつの間にやら失せていたので、折り畳み傘は役目を免れた。ここまできたら、一切濡れてなるものか。コンクリートに溜まった水を、注意深く避けていく。
 斑に濡れる敷地を跳ねながら進んで、やがて門柱が見えた。目を凝らし、柱のシルエットの横に、寄りかかる人影を見つける。誰、とはさすがに疑問に思わない。俺を待つ人物は決まっている。
 大きく手を振ってアピールすると、同じように手を振って返してくる。一日に二度も待たせてしまったのは気が引ける。俺は小走りで駆け寄った。
「先に帰ってなかったのか」
「とーぜんですよ、帰る方向おんなじですし。登下校は欠かさず一緒にって、約束ですから」
 千恵は門柱から背を離し、引戸門扉のレールを踏んだ。
「もう部員も顧問も誰もいないぞ。タメ口でいい」
 学校は間もなく施錠されるだろう。校門の向こうでは、薄闇に包まれる町が、刻一刻と静けさを増している。道路を挟んで反対側に、買い物帰りとおぼしき女性がいるが、まさか千恵の口調を責めるまい。
「いいえ、先輩。周りに誰も居なくても、この境界を超えるまでは『後輩モード』なのです」
 レールの上をつたって歩き、端までいくと、千恵はその境界を飛び越えた。『後輩』を離れた先で向き直り、俺の方へと手を差し伸べる。
「ねぇ、ほら、帰ろっ」
 学校での彼女から、親しんだ彼女に切り替わる瞬間。心臓を鷲掴みにされる感覚を味わいながら、一回り小さい手を取る。そのまま門の外へ、連れられるまま躍り出た。
「あ、わたしも『さらしぼ』飲みたい」
「はいよ。ちょっとしか残ってないぞ」
 俺たちは、手のひらで互いを確かめながら帰路につく。
 だんだん深くなっていく夜を、一日の終わりを、恐ろしいと感じていたのは過去のことだ。幼少の頃は、二人の身を守るために、手をつなぐ必要があると信じた。しかし、時が経って恐怖が消えても、俺たちはまだ手を握っている。
 それはたぶん、必要を終えた絆にも、体温が残っているからだ。手放してしまうには、温かさに慣れ過ぎたのだろう。俺はその温度に、新たな意味を与えたいと思う。幸福そうな千恵の横顔を見ながら、繰り返し考えていた。


****


 今日の晩飯は中華定食だ。
 両親がともに定時上がりだったので、珍しく家族そろっての団らんとなる。一週間に一回あるかないか、賑やかな食卓。四人分の料理を作る台所担当は、今夜は台所担当大臣に格上げ。機嫌もよく、よって豪華メニューである。
 カウンターの向こうから、香ばしい油のかおりが漂ってくる。
「やあ、子どもたちとごはんを食べられるなんて久しぶりじゃないか。楽しみだねぇ、早く食べたいねぇ、母さん」
 と、父。
「そうねぇ、さっきからお腹の虫が鳴きやまないわ。完成はまだかしらねぇ、お父さん」
 と、母。
 ダイニングの食卓。ガラス製のテーブルを囲むのは父、母、俺の三人だ。対面に座る両親は仕事の疲れなど微塵も見せず、能天気な笑顔を浮かべている。いかにも勤め人然とした、堅い風貌からは不釣り合いなほど。
 仕事を家に持ち込まない態度は結構だ。たまの団らん、存分に楽しむのもよかろう。しかし、俺は言わずにはいられなかった。
「なあ、父さんも母さんも、恥ずかしいとは思わないのか?」
「どうした新斗」
「なんの話かしら?」
 すっとぼける二人に、視線でキッチンを示してみせる。カウンター奥に見える頭は、例の見慣れたミディアムヘア。
 ちっこい体が慌ただしく動き回っている。大量の食材をまな板で切り、洗い、ザルで水を切り、コンロの火加減を調節……している途中で、電子レンジになにやら放り込む。料理は、物事を並行で行うマルチタスクだ。肩まで垂れた髪が、跳ねては揺れ、跳ねては揺れ、休まることがない。
 食卓に座し、あほのように餌を待つこちら側とは大違い。腹が減ったと急かす無礼は万死に値するといえる。
「よりにもよって、家族の最年少に料理をぜんぶ投げるかね。せめて、手伝おうかという気概くらいみせたらどうだ。年長者の威厳が台無しだぞ」
 ちなみにこの発言、一言一句漏らさず俺にも突き刺さるブーメランである。……いや、一応掃除とかは俺が担当しているんだが。
「申し訳ないなぁ。父さん料理はからっきしなんだ」
「申し訳ないわぁ。母さん家事全般がダメなのよ」
 うーむ、なんて屈託のない表情なんだ。今後一切、あらためようという気がないな。
「コラ、兄くんだめだよ、パパとママいじめたら」
 文句を言い連ねようかというところで、テーブルの中央にチンジャオロースが配膳される。瞬間、熱気にもたらされた食欲の大波が、俺の口を塞いだ。
「パパママはお仕事を頑張ってお金を稼ぐ。兄妹ふたりは勉強を頑張って、家事をこなす。それがVIP野家の役割分担だよ。お互いに感謝と尊敬の念を忘れないこと。でしょ、兄くん」
 大臣からのありがたい訓辞。エプロンに大きくプリントされたウサギが、赤い眼でこちらを睨んでいる。役割分担の中で一番、割を食っていそうな人物が言うのだから、反論の余地もない。
「わかったよ。俺が悪かった」
「うむ、感謝と尊敬の念を忘れないことだぞ、新斗」
「ええ、感謝と尊敬の念を忘れないことよ、新斗」
 立ち上る湯気に向こうで、夫婦がそろって胸を張る。春巻きの到着を待つあいだ、俺は相当な渋顔をしていただろう。

     

Thursday/委員長




 恋愛相談にふさわしい相手方には、三つの条件がある。
 一つ、恋愛経験が豊富であること。
 二つ、異性の生態についてよく知っていること。
 三つ、口堅く秘密を漏らさないこと。
 俺は知り合いが多く、顔が広いことを自称しているが、これらの条件を満たす友人となると限られる。たとえば、タクなどはまったく範囲外の人物と言っていい。日頃から恋人をとっかえひっかえする、経験豊富な友人も何人かいる。しかし、そういう輩に限って口が軽く、秘密を打ち明けるには向かないのだ。
 恋愛に無頓着では参考にならない。おちゃらけた奴では信用ならない。異性を最も知っている人間は、簡単に考えれば異性。つまり、俺にとっては女性。改めて条件を鑑みると、『彼氏持ちの理性的な女性』というのが選択肢として浮かび上がる。男子高校生の知人像としてはいささか異質だが、友人関係をソートしてみたところ、ぴったりな人物が見つかった。
「と、いうわけで、相談に乗ってくれ、委員長」
「はあ」
 校舎裏。体育用具倉庫の入口に備えられた、低い石段。その上に腰掛けたまま、俺は隣に体を向けた。
「あんたが恋愛相談ねぇ。珍しいこともあるのね」
「意外か?」
「ええ」
 委員長は四角いレンズ越しに俺の顔を見返した。
 日が高くから照らす、昼食あとの空き時間だ。運動場のほうから、かすかに男子生徒たちのはしゃぎ声が聞こえてくる。体育用具倉庫には二つあり、俺たちがいるほうは部活動専用のものなので、サッカーに興じているらしい彼らがこっちまでやってくることはないだろう。
 努めて人気のない場所を選んだのは、誰にも話を聞かれないためだ。ただ相談をするだけのことで、われながら徹底しているというか、ビビりすぎというか。こういうことには慣れない。
「いきなり校舎裏に呼び出しだなんて、果たし合いでもするのかと思ったわよ」
「ないない。喧嘩売ってどうするんだ」
「委員長の座に取って代わりたいのかと」
「喧嘩に勝ってなるものじゃないだろ。そうじゃなくて、いちばん頼りになりそうなのが委員長だったんだよ。ほら、付き合いも長いし」
 俺と委員長との交友は、中学校入学以来、かれこれ五年になる。彼女が腐れ縁と呼ぶ縁は腐っているにしては強固なもので、出会ってから一年も欠かさず、俺たちは同じクラスになった。そのうえ、過ごしたすべてのクラスにおいて、彼女は学級委員長を務めていた。俺にとっては、まさに筋金入りの委員長なのである。
「委員長の意見を聞きたいんだ」
「ふぅん。ま、いいわよ。話してみなさい」
 柄じゃないが、今回の件は真剣だ。俺が前のめりになると、委員長もようやく話を聴く気になったらしい、脚を組み替えて眉間を狭める。
「実は、好きな人がいるんだ」
「なるほど。それで?」
「…………ええと、好きな人がいて……それで」
 見切り発車で口を開いて、俺はすぐに固まってしまった。いったい、どこまで情報を明かしていいものか。委員長を信頼しているとはいえ、具体的に語るには憚られる事柄もある。
 しばらく考え込んでから、おっかなびっくり再開する。
「うーん、切り口を変えて、そうだな。たとえば、たとえばの話だぞ? 委員長は、長い間ずっと親しかった相手に告白されたらどう思う。けれど、恋愛感情は全然ないんだ。そういう邪な心は互いに持ち込まないことになっている。だとすれば、俺は間違っているか? 迷惑だと感じるか?」
「えらく抽象的な例えね」
「悪い」
「いいわよ別に。要は、こういうこと? 新斗には好きな相手がいる。けれど恋が成就する望みは薄で、告白することによって、かえって現在までの関係が崩れてしまうのが怖い。玉砕覚悟で猛進するか、すっぱり諦めて現状を維持するか、どちらを選べばいいのか意見が欲しい、と」
「さすが、簡潔な要約。概ねそんな感じだ」
「そうねぇ……」
 委員長はますます眉をひそめ、天を仰ぐ。つられて見上げると首の長い野鳥――サギの仲間だろうか――が倉庫の遥か真上を横切っていった。甲高い鳴き声が届き、過ぎ去ったあとで、視線を戻す。
「私としては、告白してしまえばいいと思うけれどね」
「どうしてそう思う?」
「まず、告白したら現在までの関係が崩れてしまうというのは、正しいでしょうね。告白が失敗する前提だけれど、その相手が告白されたことを気にしようが、気にしまいが、同じことなのよ。だって、どちらにしろ新斗は必ず気にするもの。振られたからってあっさり気持ちを切り替えられるようなら、私に深刻な顔して相談なんてしないでしょう」
「まあ、だろうな。でも、だったら……」
「重要な問題は別にあるの。まさか忘れているわけじゃないでしょう? 私たちって、今年で卒業なのよ。しかも、新斗は東京の大学に進むつもりなんでしょ。相手が誰かは知らないけれど、現在と変わらない関係でいられるなんてあり得ないじゃない。あんたを取り巻く環境だって変わるし、相手だって、いつまでも都合の良い存在でいるわけじゃない。現状維持なんて、そもそも幻想なのよ。放っておいても人間関係は変わるんだから。違う?」
「…………」
 言い含めるような委員長の指摘に、思わず口を噤む。
 俺としても、卒業・進学の事実をすっかり忘れていたわけではない。明確な思考として現れなかったのは、無意識のうちに目を逸らしていたからだろう。大学に進学してしまえば、千恵と常に一緒ではいられなくなる。告白を先延ばしにするあいだに、千恵に想い人か、あるいは恋人ができないというのも希望的な観測だ。
 数日前、千恵が口にしていた言葉を思い出す。

 『先輩と一緒にいたい。できるだけ長くそばにいて、できるだけたくさん思い出をつくりたい』

 めったに見せることのない、物憂げな表情で言っていた。
 少なくとも彼女は、時間の有限さから逃げていない。受け入れて、できる限りの手を打とうとしている。
 ならば、俺は……?
「行動派のあんたが、好きな子に告白するくらいでどうして悩むのかもわからないけど」
 黙りこくっている俺を見かねたのか、委員長が石段の上に立ち上がる。
「後ろめたい気持ちは捨ててしまえばいいんじゃない? だって、恋愛は自由だもの」
 『恋愛は自由』と、委員長はそれが真なる命題であるように主張する。規則と倫理を重んじる彼女のキャラクターからは程遠く、また、言い聞かせるような口調でもあった。俺は引っかかりを覚え、疑問を口にする。
「なあ、委員長の彼氏ってどういう人なんだ?」
「社会人よ」
「年齢はいくつくらい?」
「……二十代後半」
 衝撃の事実発覚だった。
「それって、条例とかに反しないのか」
「失敬な。清く正しい男女交際よ。他人にとやかく言われる筋合いはないわ」
 委員長が立ったまま胸を張ると同時、低い振動音が鳴った。マナーモードの呼び出しだ。はじめは自分の携帯かとポケットを探るが、ブツはない。バッグの中に置きっぱなしのままらしい。じゃあ発生源はどこなのだと見上げると、委員長が携帯を耳に押し当てていた。
 俺と距離を取りながら、電話口の相手と会話する。応対の声は普段よりオクターブ以上も高く、こちらまで容易に聞こえてきた。
「あ、ダーリン♪ 電話してくれてアリガトっ、ずっと寂しかったぞっ…………うん、うん、そだね…………わかった、じゃあ放課後にいっしょに行こっ…………わかってるってっ、めいっぱいオシャレしていくから…………え~、ダーリンが買ってくれた下着~? だってあれ恥ずかしいんだもん。あんな穴あきのエッチなやつ女の子に履かせるなんてセクハラだよ~…………ふ~ん、やっぱり我慢できないんだ。じゃあ、甘えんぼさんのダーリンのためにたっぷりサービスしちゃうから、今日の夜、楽しみにしててねっ、ふふっ…………うん、うん、じゃあね~…………うん、もう切るよ~」
 話し終えると、涼しい顔で帰ってくる。
「やっぱり犯罪じゃねぇのっ!?」
「失敬な。清く正しい男女交際よ」
 泰然として言ってのけた。
 意地でも合法を突き通すつもりのようなので、追及は諦める。
 『彼氏持ちの理性的な女性』という条件で委員長に相談したが、俺は人選を大きく誤ったのでは?
 目の前で起こった現実を受け止めきれない。混乱した頭でぐるぐる考えていると、委員長が切り出した。
「話は終わり? もうすぐ昼休み終わるから教室に戻りましょ、ほら」
「俺はもう少し頭を冷やしてから行くよ……」
「あら、そう」
 委員長はローファーで砂利を鳴らして去っていく。
 悠々とした後姿が、角を曲がって消えようというとき、ごく自然な調子で尋ねられる。
「そういえば、あんたの好きな人って誰なの?」
 声色には、しぶとく詮索するような響きはなかった。ただ単純に気になっただけという感じ。言いたくないと回答を断れば、何事もなく済んだだろう。だというのに、自分で気が付いたときには、俺は言葉を返してしまっていた。動揺の直後で油断していたのか、あるいは、本当は吐き出してしまいたかったのか。
「千恵のことが好きなんだ」
 言うと、委員長の背中が小さく跳ねて、立ち止まる。長い沈黙のあと、身を翻した。正面を捉えた顔が、怒っているような、悲しんでいるような、沈んだ表情をしている。
「やめときなさい」
「え?」
「告白するのはやめておきなさいって言ったの。別に、いい加減に相談に乗ったわけじゃないけれど、さっき私がアドバイスしたことはぜんぶ忘れなさい」
「なんだよ、それ」
「私は千恵ちゃんと面識があるし、多少、彼女のことを知っているからこそ言うけれど、やめておきなさい。『恋愛は自由』といってもね、恋愛には二種類あるわ。つまり、幸せになれる恋愛と不幸にしかならない恋愛よ。あんたのは後者。腐れ縁とはいえ、友人が不幸になるのをみすみす見逃すのも寝覚めが悪いわ。わかったわね? 忠告はしたわよ」
 委員長は言いたいことだけさんざん喋って、返事も聞かずに角を曲がった。姿が見えなくなると、ぬるい風が通り過ぎる。
「……なんだよ、それ」
 取り残された俺はひとり、八つ当たりのように呟いた。


****


 今日の晩飯は『こだわり黒豚チャーシューメン』だ。
 場所は自宅ではない。個人経営の古びたラーメン屋。店主が無口でメニューも少ない、質素を突き詰めたような店だ。全体を赤と茶で統一された店内は、調理場を二辺で囲むカウンター席と、三つのテーブル席から成る。俺はカウンター席の端に腰掛けて、板切れのようなチャーシューにかぶりついた。
「うまいかい?」
 右隣から、同じく『こだわり黒豚チャーシューメン』を食う男が尋ねてくる。鼻にかかった高音の話し声は、中年男性ばかりの店内で聞き取りやすい。
「うまいな」
 口に残る肉の繊維を飲み込んで再び、「うまいぞ、王子」
 特別やわらかいわけでも、味が染みているわけでもないが、チャーシューには溢れんばかりの野性味があった。肉は肉々しくあるべし。この手のスタンスは俺の好みだ。
「そりゃあ、よかった。キミの好みに合うだろうと見込んでいたからね。ぜひ一度つれてきたかったんだ」
 言って、隣の男は勢いよく麺を啜った。彼が、俺をこの店に誘った人物。ブロンドに染めた髪色と長いまつ毛、細い顎がどこか挑戦的な優男。黒のポロシャツに対比される肌の白さは、女子でもそうそう見かけない。スープに浮き上がる背脂とあまりに馴染まないその容貌こそ、『ラーメン王子』の呼び名の由来だ。
「しかし、よくも次々とうまい店を見つけてくるな」
「趣味だからね。でもまあ、ここらは栄えていないから、店を見つけるのは難儀だよ。いよいよ自転車圏内の店は制覇してしまったかもしれない」
 王子は自嘲気味に言う。俺は確かに、と頷いた。
 ラーメン王子のラーメンに懸ける情熱は同級生の誰もが認めるところで、俺が店に誘われることも頻繁にある。ゆえに、回を重ねるごと、店までの距離が長くなっているのも実感していた。
「まあ、でも、あと一年の辛抱だろう。東京には山ほどラーメン屋があるさ」
 王子も俺も東京進学組(希望)である。
「ああ、キミの言う通りだね。楽しみだ、とても。ようやくこの片田舎ともおさらばか」
 言いながら、丼を持ち上げてスープを飲み始める。麺と具はもう平らげてしまったらしい。
「王子の住んでるところって学校のすぐ近くだろう? 俺から言わせれば、その程度で田舎を名乗るのは甘いな。俺の家からの景色を見たら卒倒するぜ」
「あれ、キミんちってそんなに辺鄙なところだっけ」
「すごいぞ。なにせ、生まれてこのかた、玄関の鍵を閉めた覚えがないからな」
「へぇっ、じゃあ、今日も?」
「もちろん。東西南北、どの方角からでも侵入可能だ」
 自慢みたいに言ってやると、王子は「くっくっく」と忍び笑いをした。
「平和で結構なことじゃないか」
「泥棒なんていやしないからな」
「……どうだろう。家に侵入するのが、泥棒だけとは限らないけどね」
 王子は透明のコップに、水をなみなみ注いでいる。スープを飲み、口がしょっぱくなったら水を飲み、物足りなくなったらまたスープをがぶ飲みする。ラーメンを隅々まで愛する男の、不摂生な贅沢だ。俺も自分のコップを差し出して、水を注いでもらう。
「泥棒だけじゃないって、どういうことだ?」
「なあに、一つのありふれた実例さ。僕の親戚に警察関係者がいるんだけどね。そのおじさんから聞いた話でおもしろい事件がある」
 心底おかしげに前置きして、話し出す。
「捕まったのは四十がらみの男だよ。アパート下階の住人の部屋に、十回以上も不法侵入を繰り返していた。けれど、逮捕された後で侵入された部屋の住人に話を聞いてみても、盗られたものはないって言うんだ。通帳や印鑑はもちろん、タンスとかが荒らされた形跡も一切ない。じゃあ、なんのために何度も侵入したんだって、問い詰められた男が白状したのさ。
 部屋の私物とか食べ物とか、あらゆるところに唾を付けていたんだって。侵入された部屋の住人っていうのは女子大生だったんだけどね。彼女の手が触れるところとか、口に入るものを狙って、ばれない程度の少量を、口から垂らしていたらしい。
 男が言うには、唾液を相手に触れさせるのは、セックスの代償行為なんだそうだよ。自分が出した体液を女の子に受け入れさせるんだ。僕は感心したよ、すごい発想だと思わないかい」
「おい、やめろよ、飯食ってるときに」
「ごめんごめん」
 俺は想像してしまった。毛むくじゃらの中年男が、口内に唾をためて徘徊する様。全身が嫌悪感にブルと震える。一方、王子は気にする様子もなく、大盛りの丼を干していた。満足そうに腹を撫で、息を吐く。
「なにも、侵入者が中年のおっさんとは限らないさ。今頃、キミの部屋に、キミのことが大好きなかわいい女の子が歩き回っているかもしれない。そう考えると、ちょっとしたロマンじゃないか」
「ロマンか……?」
 仮にかわいい女の子でも、気持ちのいいものではないような。
 急激に食欲が失われた。残った分のチャーシューを睨みつけていると、携帯がメールの着信を告げる。
「親から帰宅の催促かい?」
「いいや、妹から」
 文面はこうだ。

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 ラーメン、おいしい?

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 液晶に映し出される、簡素な文言。簡素ゆえに、含蓄を察する必要がある。しばらく考え込んでから、俺は返事を送った。

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 晩飯、家で食えなくてごめんな。

 ラーメンうまいぞ。でも、きのうのチンジャオロースの方がうまかった。

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 返信は三十秒と経たないうちにきた。
 
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 べつに怒ってメール送ったわけじゃないよ(汗)

 無理やり褒めなくてもいい(>_<)

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 怒っていたわけではないと言うが、さて、本当かどうか。最初の文面に顔文字の類が無かったあたり怪しいものだ。昼の時点で外食の旨は伝えておいたから、不義理はないはずなのだが。とにかく、機嫌をとっておくに越したことはない。女心はミステリー。常に推理が必要なのだ。
「そっか。そういえばキミ、夜はいつも妹と食べるって言ってたっけ。悪かったね、強引に誘ってしまって」
「俺が来たいから来たんだよ。妹も、だったら自分も友達と外食してくる、って言ってたしな。問題ない」
 俺は携帯をポケットにしまって、再びラーメンに向かい合う。すると不思議、食欲はすっかり蘇っていた。

――――――
――――
――

 春とはいえど、夜が深まればさすがに冷える。ラーメン屋の引き戸を開けて外に出ると、俺は半そで一枚で来たことを後悔した。
「おお、けっこう冷えるね」
 王子も同感だったらしく、さっさと電動自転車にまたがった。俺の愛車はトレックのクロスバイク。
 暗闇のなかを、車輪を横に並べて走りはじめる。
 街灯のない幅広い道を、ヘッドライトの照明が滑っていく。目を凝らし、轢きつぶさないようカエルを探す。ペダルを踏みこむたびに、夜風を切って寒さが増していく。早く家で体を温めたいなぁと思いかけ、しかし家までの距離を考えると、到着時には汗をかいている可能性もある。いや、いずれにしても、風呂に入れば済む話なのか。VIP野家は基本、風呂の後に晩飯を食べる習慣なので、今日は変な感じがする。
 ふと頭上を見上げると、空には雲が覆っている。でっぷりとして居座る灰色の雲は、昼間から心中に居座る言葉を思い出させた。

 『不幸にしかならない恋愛』

 外気とは異なる感覚が肌を冷やして、俺は肩をすくめた。

     

Thursday(2)/千恵




 高校の校舎の形状は、鳥瞰するとフックのようになっている。
 千恵が所属する一年二組は、ちょうどその先端、直角に折れ曲がった位置にあたる。新斗と睦まじい登校を終え、教室に着いた彼女は、窓の外を眺めることが習慣だった。都合よく、席は窓際後方。スクールバッグを机に置いて、教科書も出さず目を向ける。
 目標は向かい側上方、二階の三年二組だ。ぎりぎり詳細を目視できる距離にある教室内には、体躯の大きい上級生たちがひしめいている。カクテルパーティ効果に代表される選択的注意は、視覚においても存在する。ほとんどが見知らぬ顔の集団にあって、新斗を見つけることは容易だった。
「あ、いたいた」
 千恵は頬をほころばせる。
 着席した新斗は、外の陽射しを疎んじるように目を細め、あくびをかみ殺す。大儀そうにバッグから本を取り出すと、ページを開いた。その本が英語の単語帳であることを、千恵は知っている。午前中こそが記憶に適していると信じる彼は、いつも同じ時間に単語を覚えるのだ。『思い切り学んで、思い切り楽しむ。良き人生のために、効率を考えなければいけない』と、口癖のように語っていた。千恵が受験合格を果たしたのも、その教えがあったからこそだ。
 快活さを備えた精悍な顔立ち。自身にとって、最も頼りがいのある男性。真剣さを纏う新斗の姿を、千恵は好ましく、また、尊敬の念を抱いて眺めた。
 しばらくしたのち、新斗の席の周りに、数人の男女が集まってきた。めいめいの手には教科書が握られている。彼らに気が付くと新斗は顔を上げ、あの、呆れたように見せて朗らかな笑みで迎えた。
 受験生には、空き時間に勉強を教え合う文化がある。学校でも頼られる立場らしい新斗は、友人たちに教鞭をふるっていた。中でも集まってきた女子のひとり――千恵よりもずっとグラマーだ――は隣に陣取り、顔を寄せて教えを乞うている。高校受験が終わるまでは、千恵が代わりにいたはずの位置。じい、と千恵は様子を窺う。じい……っと。
「千恵ちゃん、なにじーっと外見てんの?」
「わひゃあっ!?」
 背後から唐突な呼びかけに、飛び上がる。
「そんなに驚かんでも……。おはよう。朝っから元気だねぇ、どしたん」
「あぁ、おはよう、樹里ちゃん。ううん、なんでもないよ」
 呼びかけの主――クラスの友人で、部活動の仲間でもある熊谷樹里に対して、ごまかすようにして笑う。樹里の三白眼気味の目が一瞬、胡乱げになるが、すぐに元のだるそうな表情に戻った。
 樹里はのっそりした動作で、千恵の隣の席に座る。彼女と仲良くなった理由はなんということはない、席が隣だったからだ。
「外は陽気があったかいねぇ」
 樹里がショートボブの髪をいじりながら、窓を眺める。
「そうだねぇ」
 千恵もつられて再び外を見る。すると、自然に視線が向かう先は決まっていた。
「ああ……そゆこと」
「え、なに?」
 呟きに反応して振り返ると、樹里の口角が得意に歪んでいる。
「いやー、千恵ちゃんの新斗先輩愛は深いなぁって思ってさ。深すぎて怖い。ちょっと病気の域に入ってるよねぇ」
「びょ、病気って。そんなことないよぅ。違うの、変な意味じゃないよ、ピュアなやつなの、純粋な愛なの、つまり純愛……ってそれもちょっと違うか」
「まぁでも、気持ちはわからんでもないかなぁ。新斗先輩、結構かっこいいしね。一年女子でも、狙ってる子いるみたいだし」
「…………それ、ほんと?」
「あたしたちからすれば三年生って大人に見えるから、恋っていうより憧れみたいなもんかもしれないけどねぇ」
 言いながら、樹里はバッグから教科書類を取り出し始めた。千恵も倣ってチャックを開け、上から順に机の棚にしまっていく。バッグの中には、教科書のほかにも、日記手帳とかおやつとかいったものが転がっている。それらを躍起になって整理しながら、
「でも、わたしとしてはオススメしないよ? だって先輩、すぐに卒業しちゃうわけだし、遠距離恋愛って大変らしいし。あとほら、案外きつい冗談言ったりするから、繊細な子だと傷ついちゃうかも。あとあと、だってほら、ほかに好きな子とかいそうな感じがね」
「狙ってるのあたしじゃないってば。あたしに忠告してどうすんの」
 樹里がおかしそうに噴き出す。
「そ、そだよね」
 千恵は血が熱くなるのを感じて、顔を伏せた。
 勉強用具をすべて出し終えると、バッグの底で、黒い布切れがひしゃげていた。ハンカチかハンドタオルだろうかと、千恵は訝しんで持ち上げる。正体を確認しようと両手で広げかけ――刹那、広げる前に看破して、慌ててバッグの中に突っ込んだ。
「ん? どしたん千恵ちゃん」
「あっ、いやっ、なんでもないよー?」
「……? へんなの」
 樹里は首を傾げるが、すぐに大きなあくびをして机に伏せった。一限目が始まるまで余さず惰眠を貪る方針は、入学時から貫かれている。春は眠りの季節だから、とは本人の談。千恵はぬくい布団のような陽気と、樹里の怠惰な性格に感謝し、バッグの底に目を移す。
(あっぶなぁ……こんなところに入ったままになってたんだ)
 まさか、友人の目に晒すわけにはいかない。黒い布切れの正体は、新斗が普段使いしているボクサーパンツだった。

――――――
――――
――

 放課後。HRを終えて女子更衣室に着くと、中はがらんどうだった。
 千恵は樹里と並んで、無人の部屋で立ちすくむ。
「ちょっと早く来すぎちゃったね」
「だねぇ……。のんびり着替えますか」
 一年生の新入部員は、手前側のロッカーを割り当てられている。縦に二段重ねられたロッカーの上段が千恵、下段が樹里。クラスが同じ関係上、着替えの時間が被るので、密接したこの配置は不便だ。しゃがんだ樹里が荷物を詰めているのを、うまく避けながら準備する。
 ねずみ色のロッカーを開けると、扉の裏に鏡が付いている。千恵はまず念入りに、自分の顔をチェックした。表情筋を引き締めて、凛々しい武人をイメージする。
 入部の理由は新斗に合わせてというだけだったが、顧問が弓を引く姿に憧れて以来、ビジュアルにはこだわりがある。弓道衣、凛とした表情、整った姿勢、それらはセットなのだ。
 しばらく鏡の前でポーズをとったりしていると、足元にいた樹里が忽然といない。無造作にロッカーからはみ出す制服を残して、彼女は長椅子に寝っ転がっていた。下着姿で。
「樹里ちゃん……だらしない」
「いいのいいのぉ、時間たくさんあるんだし、先輩たちもいないんだし」
 だらけきったまま言って、腹をかく。
「あたしってほら、家では基本裸族じゃん? 堅苦しいブレザー着てるとうっとうしくて」
「樹里ちゃんて実家住みだよね? 家の中を裸で歩き回ってたら注意されないの?」
「なんも言われない、っていうか、お父さんには口をきいてもらえない。目をそらされる」
「だろうね……」
 千恵はあらためて、樹里の体をまじまじと見る。細身の引き締まった胴から、手足がすらりと伸びている。女性らしいというよりはモデル体型に属するだろう。そっけない下着が、かえって肉体の端正さを強調している。つい最近まで中学生だったというには未熟な部分がない。
 さすがに、ためらいなく脱いでしまうだけはある。千恵は感心の溜息を漏らした。
「千恵ちゃん、なーんか、目がえっちぃよ」
「へ? い、いや、そんなことないよ」
「わかるよぉ、女から見ても、女の子の体って魅力的だよねぇ。と、いうわけで千恵ちゃんも脱ごう。あたしだけ下着姿っていうのも不公平だし」
「ちょ、ちょっと待って。わたしは恥ずかしいから……っ」
 拒否するひまもなく、長椅子の上に引きずり込まれる。樹里が衣服を剥ぎ取る手並みは、山賊もかくやという鮮やかさであった。
「ほうほう、ブラは水玉、と。下も合わせてあるのかな?」
「やだぁっ、スカートめくらないでっ……お、おか……犯されるーっ!!」
「だいじょうぶだいじょうぶ恥ずかしくないよ、なんだったらほら、あたしは下着も脱ぐし」
 言うや否や、取り外されたブラジャーが千恵の顔に落ちる。
「脱がなくていいよっ、てゆか自分が脱ぎたかっただけだよねっ!?」
 和気藹々の域を超え、もみ合いが血走った狂気に踏み入れたとき。
 更衣室の外から、声が聞こえてきた。
『新斗先輩こんにちはっ、あはっ、偶然ですねっ』
 壁を通して、室内に届いてくるほど溌剌としたあいさつ。その声に、千恵は聞き覚えがあった。
「あれって、たしか四組の」
「ああ、あの子だよ、ほら、朝言った、新斗先輩を狙ってるっていう」
「……っ!」
 千恵は、樹里のマウントを勢いよくはねのけた。立ち上がり、部屋の内部をくまなく見回す。
 視線を上げ、採光のために備えられた窓に目を留める。横長の窓は、覗き防止のため擦りガラス製だが、鍵さえ開ければ外が見えそうだ。しかし、位置はロッカーの高さよりも上、天井近く。千恵の身長ではまるで届きそうにない。ロッカーをよじ登ることさえ、一人の力では不可能だ。
「樹里ちゃん」
 千恵は、重々しい空気を纏って言った。「肩車して」
「は?」
「肩車して」

――――――
――――
――

「樹里ちゃん、もうちょっと右」
「ほいほい」
「うーん、もっと前に行けない?」
「いやぁ、もう限界」
「そっか、じゃあわたしのほうで頑張ってみるね」
 依然、二人だけの閑散とした更衣室。その端。
 高低差のある会話をこなしながらも、千恵は目の前に集中する。
 ロッカーを挟んで、窓はもう正面に見えている。あとは、クレセント錠を開けるだけ。
 なのだが。
「うぅん……っ」
 懸命に手を伸ばしても、わずかに距離が届かない。あいだに挟まったロッカーが立ちふさがって、進行を防いでいる。加えて、最も遂行を邪魔しているのは、足元の不安定さだ。
 千恵の腿が、樹里の肩に乗っている。グローバルスタンダードな肩車。樹里が脚を抱えて補助しているが、支えの心許なさはいかんともしがたい。乗る役の体重も軽いが、車役も細身の女子である。逆さに立てた箒の要領、千恵が体を傾けるたび、あっちへふらふら、こっちへふらふらと千鳥足になる。
「あとちょっとなんだけどなぁ」
「ねぇねぇ、千恵ちゃん」
「なぁに?」
「わざわざ新斗先輩の会話を盗み聞く必要、ある?」
 肩の重みに耐えかねたか、弱音を吐いた樹里に、千恵は断言した。
「わたしにはね、先輩と、先輩と仲良くする人のことを知っておく義務があるんだよ」
「あぁ、そう……」
「よし、もうちょっと」
 千恵は反動をつかい、ロッカーの上にすがりつく。上体を折り、うつ伏せのまま手探りで錠の取っ掛かりを探す。
「ねぇねぇ、千恵ちゃん」
「今度はなぁに?」
「さっきからね、千恵ちゃんが前に傾くたび、あたしの後頭部に、お股がぐりぐり当たるんだよね」
「ごめんねっ、あとちょっとだけ我慢して」
「いや、いんだけどさ。服脱がされるよりもこっちのほうが恥ずかしくない……?」
「よっ、と……開いたっ、開いたよっ」
 羞恥さえないがしろにした末、ようやく窓を開け放った。陽に温められた風が通って、千恵は歓喜の声を上げる。
「よかったね」
「ううん、まだまだ、これからだよ」
 そう、難関を越えたとはいえ、目的を果たしたわけではないのだ。盗み見、盗み聞きという崇高な目的。
 窓の外、細長く切り取られる視界に、ちょうど目標が入っている。立ったままで話し込む、新斗と女生徒の姿。更衣室に来る途中で会ったのか。あるいは、女生徒のほうが待ち伏せをしていたのかもしれない。ふたりが交わす会話に、耳をそばだてる。
『駅前のケーキ屋って≪アムール≫のことだろ? 何度か食べたことある』
『え~新斗先輩って甘いものとか食べるんですかぁ? 意外かも~』
『そうか? あんまり好き嫌いとかないぞ、俺』
 新斗と話す女生徒には、やはり見覚えがあった。一年生は入学から間もないとはいえ、短期間でも存在感を放つ人種はいる。華やかな顔つきで、自分の魅力に自覚的なタイプだろう。胸元を晒すように制服を着崩し、所々に小物やアクセサリーを光らせている。学生にしては身分不相応の感があり、オシャレとも、軽薄ともとれる外見。
(むむ……曲者っぽい)
 千恵は厳しく検分する目つきで彼女を見る。
 不真面目な服装が嫌いというのではない。自身が友人づきあいするのなら、いっこうに厭わない。が、新斗と親しくするとなれば話は別だ。もし仮に、彼女が新斗と仲を深めて。もし仮に、ふたりが付き合うことになったなら。その交際はよいものになるのか。
 華美で社交的な恋人を持つと、気苦労が絶えないというのが定説だ。それに、中高生の中に、男心を弄ぶ悪女がいないとも限らない。どこの馬の骨とも知れない者に、新斗が軽んじられるようなことがあれば……。
 疑惑を積み重ねるごと、千恵は女生徒に悪辣な幻影を見るのだった。
『じゃじゃ、新斗先輩はなんのケーキが好きなんですかぁ?』
『一択、イチゴのタルトだな』
『うっわ、マジですかっ、あたしもタルトがいちばん好きなんですっ。すっごぉ、あたしたちって気が合いますねっ』
(イチゴのタルトっていっても、全部が全部、好きなわけじゃないんだよ。下の生地がしっとりしてるやつはだめなの。歯ごたえがないとタルトとは認めないって言ってた。それに、甘味よりは酸味が優位なほうが嬉しいって。いちばん好みなのは≪シュクレ≫の――)
『おお、同志だったか。タルトとアールグレイだけで三日間はいけるよな』
『めっちゃわかりますそれっ!! いや~新斗先輩もなかなかの甘党ですね。ところで、あたしもこう見えて、お菓子とか作れるんですよ』
『へぇ……え? まさか、イチゴのタルト作れるのか?』
『そこまではちょっと……。クッキーくらいだった焼けますから、今度持ってきてあげましょっか?』
『ほんとか? 作る機会があったら、ついでに俺にも食わせてくれよ』
『食べてくれるんですか!? だったら絶対、持ってきますっ』 
(クッキーは、中に余計なフルーツとかが入ってたらだめなんだよね。粉っぽいのも嫌いで、シンプルなのがいいの。あの子はそのことわかってるのかな? わかって、ないよね。だって、出会ってからまだひと月も経ってないはずだもん。知ってるわけない。食べ物の好みも、映画とか得意なスポーツも、寝相が悪いことだって、背中にあるホクロのことだって、使ってる歯ブラシの種類だって、ぜんぶ、ぜんぶ。わたしのほうが、ずっと詳しいに違いないよね。わたしのほうが仲、いいんだから)
 考えるうち、千恵は奥歯を噛みしめていた。
「千恵ちゃーん、そろそろ降ろしてもいい? げんかーい」
 股のあいだから発せられた言葉に、ようやくわれに返る。
「あ、ごめんね。もういいよ、ありがとう」
「ほいほーい」
 協力し、慎重に肩車から降りる途中。更衣室の扉が開いた。
 入ってきた人影は、男性と見紛うほどの長身。部活動の顧問だった。
「なにしてるんだお前ら?」
 扉を押して入ってくるなり、眉をひそめる。
 あられもない姿で上下に合体する少女の図。異様な光景に対して、正常な反応である。
「せ、先生っ」
「違うんです、これは怪しいことではなく」
 とはいっても、この上もなく怪しい状況が、現にある。言い訳は空を切った。
 動揺は体勢にも及び、肩車が根元から崩れていく。
「樹里ちゃん、落ちるっ、落ちるっ」
「「うわぁ」」
 ふらつき、傾き、倒れ込むように軟着陸を果たす。
 顧問は、部員の惨事を目撃しても、仏頂面を変えていない。相方を下敷きにしたまま、千恵は尋ねた。
「あの、先生はどうして更衣室に?」
「置きっぱなしの荷物を取りに来ただけだ」
 言って、ロッカーの上に置いてあった巾着バッグを片手でつかむ。そのまま手を伸ばせば、窓の錠くらい簡単に開けられそうだ。千恵はひどい徒労感に襲われた。
「はしゃぐのは構わんがな、早く更衣室に着いたなら、さっさと着替えて準備体操でもしていろ。あと熊谷」
 顧問は少しバツが悪そうに樹里を見る。「弓道衣を着るとき、下着は付けたままでいいんだぞ。上からインナーシャツを着るんだから」
「あ、いえ、その、これは……趣味で」
「…………最近の若いやつはわからん」
 言い残し、更衣室から去っていった。


****


 ささら桁階段を上って右手の木製ドアには、手製のプレートが付けられている。薄い木板に、本人が筆ペンで記した『新斗』の名前。達筆な文字に目をやってから、千恵はためらいもなくドアノブに手をかけた。
「おじゃましまーす」
 と、言葉の割には遠慮なく、ドアの間に体を滑り込ませる。
 中に入ると、部屋には誰もいなかった。寂しげに置かれる学習椅子とローベッドが、主の不在を告げている。
 千恵は、新斗が不在であることを事前に確認済みだった。ついでに、ほかの家族がみな出かけていることも。つまり、現在、このVIP野家には千恵以外に誰もいない。――好き放題というわけだ。
 時間は、夜も本格的になってきた頃。制服はすでに着替えて、ボーダーのニットにスキニーといういでたちである。鍵のかかっていない玄関を通って、ここまでたどり着いた千恵は、口の端に笑みを浮かべた。何度立ち入っても、他人のプライベート空間というものはわくわくする。
 ローベッドの脇には、出窓が飛び出している。カーテンは引かれておらず、差し込む月明かりが片隅に置かれたサボテンを照らしている。
 千恵は窓を開いて網戸にし、空気を入れ替えた。続いて、フローリングに落ちている小さな埃をつまみ、ごみ箱に捨てる。ベッドの上の掛け布団を整え、テレビリモコンの位置までも調整する。一連の行動は、新妻のごとき雰囲気を纏って行われた。
 出しっぱなしになっていた参考書を片付けようとしたが、これは直前でためらった。あまり大きな変化を起こすと、侵入が明らかになる懸念からだ。
 新斗の部屋への侵入は千恵にとって、もはや慣れ切った日常である。学習机に隣り合う本棚に目を付けると、勝手知ったるという手際で書物を漁った。
 雑誌類の奥側を探ると、十八禁のアレコレが顔を出す。千恵の調べによれば、新斗に性のIT革命がもたらされたのは彼が高校に入ってからだ。しかし、過去の遺物もこうして大事に保管されている。
 水着のグラビアなどはピンとこないが、ストーリー性のある漫画は千恵にも訴えかけるものがある。官能的な表紙に誘われるようにして、手を伸ばした。『諧謔天』に。
 ページを捲る。黙々と。
 紙の擦れ合う音だけが部屋に響く。本棚の前にしゃがみ込んだまま、食い入るように物語に見入っていた。
「……………………はっ」
 腹の奥から、こみ上げる熱を感じたころに手を止める。後を引かれる思いで『諧謔天』を元に戻した。
(あ、危なかった……)
 何が、とは言わないけれど。自身に言い訳してから、ほかの本に目を移す。
 下から順に、折り返しながら視線を滑らせる。すると本棚の最上段に、黒色をした、背の高い冊子を見つける。
「これ……」
 金色の刺しゅうを施された外観には、覚えがあった。千恵はぐっと背伸びをして、その冊子を手に取る。胸に抱え、先ほど整えたばかりの布団の上で寝そべる。うつ伏せてページの半ばを開くと、期待していた通りの内容があった。それは、千恵の頬を自然と緩ませる内容。
 ゆっくりとページを捲りながら、まどろみに任せて、新斗の枕に鼻を埋める。そうするだけで、表しがたい懐古と安心が訪れるのだ。
 ページが最後に辿り着くよりも先に、千恵は寝息を立てはじめた。

――――――
――――
――

 下階で玄関が開く音がして、ようやく千恵は目を覚ました。「ただいま」と、独り言の呼びかけは新斗のものだ。とっさに涎を拭う。飛び跳ねるように起き上がり、部屋を見回した。おたおたしているあいだにも、下階の足音は移動している。
(やばっ、見つかっちゃう)
 足音はついに、階段を上る音に変わった。
 家族が不在と信じている新斗は、迷わず自室に入るだろう。脱出は急を要する。
 千恵は慌ててドアノブに手をかけたが、思い直して身を翻した。
(そうだ、忘れるところだった)
 扉に近い、衣装ダンスの一番上を開く。ポケットに入れてあった例のボクサーパンツを畳んで、ほかの下着の隙間にねじ込んだ。
(これでよしっと)
 そうこうしているうちにも、足音は階段の半ばを過ぎている。一刻の猶予も許されない段になって、自分が冊子を抱えたままでいることに気が付いた。
(ああ、もう間に合わない。これを元に戻すのはあきらめて……)
 イチかバチか、千恵は部屋を飛び出す覚悟を固めるのだった。

     

Friday/パン屋ちゃん




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 兄くんに朗報!! 今日の献立はステーキにします(^_-)-☆

 付け合わせの野菜は何にしよう?

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 素晴らしい。お前はもう、ただの台所担当ではない。台所担当神だ。

 付け合わせなんて、もやしでいい。

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 俺はメールを送信して、携帯を閉じた。感激から、深い息が漏れる。
 ついに来たか、ステーキが。『凝った料理よりも、肉焼いておけば喜ぶっていうのが腹立つ』という理由で、めったに食卓に上らないステーキが。それもこれも、きのう機嫌を取っておいたおかげだろう。難解な女心も、俺の人間力の前では形無しということか。
 さて、晩飯はステーキを楽しみにするとして、昼食を確保しなければならない。下駄箱から外に出ていた俺は、歩みを再開する。
 現在は昼休み。しかし、いつものように弁当を持参しているわけではない。
 金曜日に弁当なしというのは、俺にとって定められた習慣である。理由は、パンを食べる日だから。台所担当神の名誉のために確認しておくが、弁当作りが面倒だからではない。むしろ、彼女はパン食を快く思っていない。それでも金曜日をパンの日と定めているのは、ご近所付き合いのためだ。
 というのは、俺にパンを売ってくれるのは、近所のパン屋の娘なのだ。ド田舎たるVIP野家の徒歩十五分圏内で、唯一と言っていい飲食店の、一人娘。有事の際にパンを分けてもらうため、仲良くさせてもらっている。よくよく考えれば、有事の食糧なんて辺りの畑にいくらでも生えているじゃないかと思うのだが、野暮は言うまい。俺も田舎の人間だ。地域の互助精神を尊ぶ美徳はわかる。
 はるばる学校まで出張している売り子は、本校舎から離れた場所にいる。敷地の端っこ、体育館とプールが並ぶ裏側だ。林から飛び出す枝葉を、亀甲の金網が防いでいる。その金網と、プールの石塀に挟まれ、ひっそりと陰る奥地。
 俺が足を運ぶと、最奥に達する前に駆けつけてくる音がした。
 前方から、小柄なシルエットが近づく。肩から提げた番重を抱え、おさげの髪を揺らしている。茶色に統一された頭巾とエプロンがトレードマークの清純派。彼女が、『パン屋ちゃん』である。
「新斗さんっ、新斗さんっ」
 パン屋ちゃんは人懐こい笑顔で呼んだ。
「パン屋ちゃんじゃないか」
「はい、パン屋でございますっ」
 敬礼し、眩しい笑顔のまま続ける。
「どうですか新斗さん、ちょうどいま、パンが食べたい気分ではありませんか。偶然にもあたし、多種多様なパンを持ち合わせているんですけどっ」
「キミはいつだって持ち合わせてるじゃないか、パン屋なんだから当たり前だ。それに俺だって、パンを買う用事がなくちゃ、こんな秘境みたいなところまで歩いてこない」
「えへへ」
 パン屋ちゃんは恥ずかしそうに頭を掻いた。隠れるような商売をしている自覚が、当人にもあるらしい。
 俺たちがいるのは、校内でも指折りに人通りのない場所だ。こんなところで売り子をしているのは、もちろん彼女の本意ではない。事情がある。
 俺が入学したての頃は、校門のすぐ前でパンを売っていた。数には限りがあるが、商品はどれも、味も価格も文句なし。『門のパン屋』と呼ばれ、学校の生徒たちから好評だった。しかしあるとき、校内でパンを売っている業者――『下駄箱のパン屋』と揉めたらしく、あっさり追い払われたのだ。
 とはいえ、一度掴んだ客を離したくないのが商売というもの。以来、商魂たくましい彼女は学校の秘境に潜むことを選んだ。
 ……というのが、本人から聞かされた話。
 正直に言ってマズい行為だと思うのだが、成果は上がっているらしい。『門のパン屋』時代とはいかないまでも、番重はいつ見ても空になりかけ。売り子の可愛らしい容姿のことだ、大方、下心のある男子生徒が通い詰めているのだろう。けしからんやつらだ。
「ところで新斗さん、今日はどのパンをお求めですか? あ、ちなみにおすすめは『スペシャルローストビーフサンド』ですっ♪」
 パン屋ちゃんが番重の一角を指さす。
 『スペシャルローストビーフサンド』はたしかにうまいが、値の張るメニューだ。財布の中身を確認しようとすると、
「ぜひっ、ぜひっ」
 おさげを弾ませて、畳みかけてくる。
「うーん、わかったよ。それじゃあ、『スペシャルローストビーフサンド』と『メロンパン』で」
「え、二つだけでよろしいんですか……? 新斗さん男の人ですし、もっと食べたほうがいいですよ。でないと、部活動でお腹がすいてしまうに違いありません。あたし、心配ですっ」
 またまた畳みかけてくる。
「そうかなぁ。まぁ、そうかもしれないなぁ」
 今度こそ、財布の中身を確認して考える。普段は節制しているので、金額に余裕はある。
「パン屋ちゃんの言う通りかもな。じゃあ追加で『焼きそばパン』も」
「ありがとうございますっ。…………あ、あと、えーと……ここからは、あたし個人からのお願いなのですけど……」
「うん?」
「新メニューの『マヨネーズ野菜パン』の売れ行きがあまり、良くなくて……。お母さんがたくさん作ってしまったんですけど、日持ちもしないし……。一つだけでもいいので、新斗さんに買っていただきたいなって……あ、いえ、もちろん、無理にってことではないんですよっ? でも、売れ残るとお母さんが悲しむんです……」
 と、沈んだ声。
 俺はさすがにためらった。小遣いのこともあるが、こうなってくるともはや、買ったパンを食べきれるのかという問題である。『スペシャルローストビーフサンド』は普通のパンの二倍くらいの質量なのだ。食べ盛りとはいえ、単純に、合計五つの分のパンはきつい。晩飯のために、腹の空きも確保しておきたいのに。
 悪く思いつつ、断ろうとすると、パン屋ちゃんがずいと前に出た。
「どうか、お願いします、新斗さん」
 祈るように両手を合わせる。タレ気味の眼を潤ませて、上目遣い。目端から、いまにも涙が零れそうだった。
 俺は、一瞬にして翻意した。
 ちょっと今月の小遣いが苦しくなるくらい、なんだ。パンなんて、押し込めばいくらでも腹に入るだろう。パン屋ちゃんは健気な子だ。歳は千恵と変わらないのに、学業を諦めてまで家の手伝いを頑張っている。彼女の母親だってそうだ。夫婦で必死に店を切り盛りする、家族思いのいいひとなのだ。苦労人の親子を泣かせておいて、得られる満足などあろうか。いや、ない。
「いただくよ、『マヨネーズ野菜パン』」
 俺は財布から、なけなしの硬貨を引きずりだした。
「わあっ、ありがとうございますっ」
 パン屋ちゃんは、よどみない動作で硬貨を受け取る。化粧っ気のない素朴な顔が、妖しく笑ったような気もしたが、見なかったことにした。「新斗さんてとっても、いいひとですよねっ」

――――――
――――
――

 昼飯は、パン屋ちゃんの商売を眺めながら食べることにした。
 石塀の端に腰掛けて、パンの包みを開く。背にするプールにはまだ水が入っていない。正面には鬱蒼と木々が密集していて、風景としてはいまいちだが、適度に涼しいのでよしとする。
 飯の調達にちょくちょく訪れてくる客は、やはり男子生徒が多い。「できればもう一つ買ってほしいんですけど……」、「うん、買う買う。キミのためなら痛くない出費だよ」。強烈に既視感のある会話劇を横で眺めながら、件の『マヨネーズ野菜パン』を頬張る。
 売り上げが芳しくないらしいが、味そのものは悪くない。キャベツを中心にした刻み野菜に、マヨネーズ風のソースは無難な組み合わせだろう。強いて言えば、パンチに欠けるか。あとはたぶん、学校での客層には合っていない。男子高校生なんて、肉を食わせておけば喜ぶのだ。
 というようなことをパン屋ちゃんに話したら、熱心にメモを取っている。
「なるほど、なるほど。帰ったら、お母さんにも伝えておきますね」
「あくまで素人の意見だから、当てにしないでくれよ」
「いえいえっ、新斗さんは頼りになるお兄さんですから。むかしから助けていただいてます」
 パン屋ちゃんは恭しく頭を下げる。そういえば、中学のときには勉強を教えていたこともあったっけ。近所の頼れるお兄さん、と思ってもらえているなら嬉しい限りだ。もしくは、都合のいい金づる。前者だといいなぁ。
「俺でよければいくらでも助けになるよ。ああ、そうだ、撤収するときになったら番重、運ぼうか? 力仕事なら男のほうが楽だしね」
 パン屋ちゃんの後ろには空になった番重が数段、積まれている。女の子にとっては大きくて持ちにくそうだ。もっとも、中身が入った状態のものを運んでここにいるのだから、助けなど必要ないかもしれないが。
「ありがとうございますっ。裏門の近くまで運んでいけば、そのうち車が迎えに着ますから、そこまでお願いしてよろしいですか? あ、でも、新斗さんが食べ終わってからでいいですよ」
「りょーかい」
 言いながら、俺は焼きそばパンの残りを口に放り込む。
 次なる強敵、『スペシャルローストビーフサンド』の包みを開けていると、パン屋ちゃんはあからさまな溜息をついた。
「はあ……」
「どうしたの?」
「あっ、聞こえてしまいましたか? いえあの、大したことではないんですけど、新斗さんが本当のお兄さんだったらよかったのになぁ、って思ってたんです」
「へぇ?」
「お父さんとお母さんがですね、よく言ってるんです。もうひとり、男の子を生んでおけばよかったかもしれないねって。新斗さんは知ってるかもしれませんけど、パン屋って結構、力仕事が多いんです。あたしじゃ役に立たないこともあるし、だからといって、従業員さんを雇うお金なんてないですから……」
 彼女の場合、店の経営問題はそのまま家計問題でもある。切実な眼差しはまさしく、家計簿に向かう主婦と同じ。
「男手が足りてないってことか、難儀だね。ちなみに俺としては、パン屋ちゃんが妹になるのは大歓迎だよ。なんなら、うちのと交代する?」
 手のジェスチャーでチェンジを表すと、パン屋ちゃんは慌てて両手を振った。
「そんなっ、悪いですよっ。だいたい、VIP野さん兄妹って、仲いいんじゃないですか?」
「どちらかって言ったらいい方だと思う。けど、兄妹って間柄も続けているといいことばかりじゃないから。嫌になるときもあるよ。……たまには」
 言って、俺はローストビーフにかじりつく。食事は折り返しを過ぎたところだが、すでに腹八分目の満足感がある。いや、考えるな、ひたすら食べろ。止まると食べられなくなるぞ。勢いに任せて、『スペシャルローストビーフサンド』を完食する。
「あっ、それならっ」
 俺が嚥下したころを見計らって、パン屋ちゃんは人差し指を立てた。「お試しに、新斗さんのこと『お兄ちゃん』って呼んでみてもいいですか?」
「お、お兄ちゃん……?」
 いきなりの提案に戸惑う。しかし、その呼び名を復唱してみると、なんとも言えない甘美な響きがあった。俺は兄の肩書を持っているが、実際、お兄ちゃんと呼ばれたことはない。『お兄ちゃん呼び』が、最も基本にして究極であることは、タクからさんざん聞かされている。この場にやつが居れば、小躍りするようなシチュエーションだろう。こんな可愛い年下の女の子に、兄として慕われるのは……。
 返答を待つパン屋ちゃんは、期待を込めた眼で見つめてくる。俺はわずかな背徳感を覚えつつ、お願いすることにした。
「そ、そうだな、一回だけなら。呼ばれてみたいかも、お兄ちゃん」
「セリフはどうしましょう?」
「ここは王道で『大好きだよ、お兄ちゃん』にしよう」
「はいっ♪ それでは、いきますよー……」
 俺たちは歩み寄り、顔を近づけた。
 緊張。一拍の呼吸。
 そして、パン屋ちゃんの唇が、いよいよ開かれる。スローモーションの世界で、自分が生唾を飲む音が聞こえた。
「大好きだよ、おにい「セーン、パイっ!!」
 発せられたはずの『お兄ちゃん』は、耳元での大声にかき消された。同時に、脇腹をどつかれる。
「ぐふぅ」
 筋肉の薄い部位が、的確にぶち抜かれた。呼吸が止まり、思わず崩れ落ちる。「おおおぉぉぉぉ……」
 苦悶。
 蒼い顔をゆるゆる上げると、千恵が仁王立ちで見下ろしていた。事態が呑み込めずにいるパン屋ちゃんを差し置いて、俺に笑いかける。
「先輩、こんにちはです」
「おう、こんにちは。ずいぶん元気な挨拶じゃないか。というか、どこから現れたんだ」
 俺は痛む脇腹を撫でさすり、やっとのことで立ち上がる。
「わたしはいつだって、尊敬する先輩のそばにいるんですよ」
 微妙に不気味なことを言いながら、千恵は石塀に寄っていく。上に置いてあったメロンパンを手に取って、包みを破り、かじりついた。
「尊敬する先輩の食糧を勝手に食べるな」
「いいじゃないですか。先輩、パン三つも食べたからお腹いっぱいでしょう?」
「なんで知ってるんだお前……」
 本当に、物陰に隠れて監視していたとかじゃあるまいな。
 千恵は、咀嚼をしていないのではないかという早さでメロンパンにぱくつく。見る間に、丸い生地が形をなくしていった。
 すべてを胃に収めると、俺とパン屋ちゃんを見比べて、鼻に皺を集める。
「わたし、先輩が誰とイチャついてたって不満ないですけど……」
 その後の言葉は飲み込んで、下唇を噛みしめた。「なんでもないです。自分の教室戻りますね」
 言うなり、チェックのスカートを翻した。大股で歩き去る後姿は、あきらかに怒っている様子だ。
 俺はその背を見送りながら、なぜ彼女が怒っているのか考える。
 逡巡の末、『女の子と二人で話していたから嫉妬したのだ』と結論しかけて、首を振った。まさか。希望的観測にもほどがある。それではまるで、千恵が俺を、男として好いているようではないか。そんなことは、あるはずがない。
 あるはずがない……よな?

――――――
――――
――

 裏門は正門に比べると、一回りも二回りも小さい。長いあいだ改修していないのか、寂れた雰囲気さえ漂っている。パン屋ちゃん曰く、この時間、立ち寄る人間がいないこともリサーチ済みだそうだ。さすが、不法侵入を繰り返しているだけある。
 鉄格子でできた門扉の先は、狭隘道路につながっている。しばらく待っていると、民家の隙間をのろのろと、白いバンがやってきた。
「あ、来ました、来ました」
 パン屋ちゃんが手を振る。
 バンの運転席には、彼女の父親が座っていた。あごに髭を生やした、渋めの男性。店ではいつも見かけているが、俺はなんとなく恐縮する気分で頭を下げた。ガラス窓越しに、会釈を返される。
 番重をバンの後ろに運び込んだあと。パン屋ちゃんは助手席から窓を開けて、話しかけてくる。
「新斗さん、いろいろとありがとうございましたっ」
「いいや、俺でよければいつでも頼ってくれていい」
 エンジンの振動で、車体が細かく揺れている。排気する重低音に紛れて、
「あ、そうだっ。さっきの話の続きなんですけどね、あたしが新斗さんの妹になることはできませんけど、もうひとつ方法がありますよ。新斗さんに、従業員以外でお店を手伝ってもらう方法ですっ」
「え? 方法って?」
 俺は首を傾げた。パン屋ちゃんはそれを見て、悪戯っぽく笑う。
 彼女は隣に座る父親を気にしたのか、俺の耳に唇を寄せた。吹きかけるように吐息を混ぜ、言う。
「新斗さんが、あたしの家にお婿さんにくればいいんです」
「え……」
 俺は思わず固まった。
 パン屋ちゃんはもう、妖しい笑みを隠そうともしない。
「冗談ですっ。新斗さんがとってもいいひとなので、からかってみたくなったんです。ふふっ、あたし、きっと新斗さんが考えてるよりも強欲で、強かな女の子ですよ」
 ……まあ、なんとなくわかってはいたが。
「お父さん、車、出していいよ」
 娘の合図を受けて、運転手が車を発進させる。
 遠ざかる車体の尻には、店の名を示すロゴが塗装されていた。

『yahoo野パン屋』


****


 今日の晩飯はもやし炒めだ。
 ……え? 皿の上に山盛りのもやしを前にして、俺は言葉を失う。料理を待つあいだにあった期待と、現実とのギャップに打ちのめされ、失神しそうになる。倒れ込む寸前、抗議と困惑の意を込めて、指を鳴らした。
「シェフっ、シェフを呼べっ」
「なあに、兄くん」
 責任者が、エプロンで両手を拭き拭きやってくる。「飲み物ならちょっと待ってね」
「飲み物なんてどうでもいいんだ。これはなんだ?」
 貧相な豆類でできたチョモランマを指す。胸元で、いっちょ前に湯気とか立てているが、もやし特有の水っぽいな匂いしかしない。当然だ、もやしなんだから。
「もやし炒め」
「ステーキは?」
「……もやしが安かったから」
「もやしはいつだって安いだろ。うちの家計は、もやしにかかる出費を気にしなければいけないほど逼迫していたか?」
「兄くんがもやしでいいって言ったんだよ」
「違うっ、断じて違うっ。付け合わせの野菜がもやしでいいって言ったんだ!? 肉ありきだろっ、ステーキありきじゃんか!?」
 柄にもなく荒げた声が裏返る。目元を引き締めていなければ、涙が零れそうだった。
「じゃあ、もういいよ。嫌なら食べなくていいもん」
 こちらもまた泣き出しそうな声とともに、今晩唯一の食糧が連れ去られていく。
 食料を与えてくれる存在は神だ。台所担当神だ。神の手にかかれば、人間の生殺与奪など思うがまま。神に逆らってはいけない。俺は、テーブルに頭を擦りつけて謝った。
「ああっ、待てっ、食べるからっ。食べさせてくれっ」
 今日の晩飯はもやし炒めだった。

     

Saturday/ただし二次元に限る




 恋愛感情に閾値があるとは知らなかった。
 唐突だった。朝に目を覚ましたとき、俺は限界に達していた。今すぐにでも千恵に迫り、情熱的な告白をし、その身体を押し倒さなければいけないと断じた。前夜までたゆたっていた心の趨勢が、完全に決してしまっていたのだ。
 起床直後だというのに、意識はハッキリと覚醒していた。すみやかにベッドから半身を起こし、隣のカーテンを開ける。
 出窓の外に見える遠景は、町全体を囲う山林。若い緑が競うように生い茂っている。
 ほんのひと月かふた月前までは、桜が景色の主役だったはずなのに。淡く、優しい色合いは見る間に儚く散ってしまって。いま視界を支配しているのは、厳然とした緑。
 俺は眩暈を感じた。陽射しにくらむ強烈な夏の気配が、鼻の奥に広がっていく。そうだ。季節が俺を急かしているのだ。もはや猶予はないのだと。
 カーテンを閉め、ベッドから立ち上がる。
 今日中には必ずケリをつける。自らに誓いを立て、両頬を張った。

――――――
――――
――

 受験生にとって、貴重な休日を棒に振る行為は犯罪に近しい。勉強をサボるだけならまだしも、気晴らしすらできていないのならなおさら。しかし、今回ばかりは仕方がなかった。机にかじりついたところで集中などできるはずがないし、千恵のことがある限り、気が晴れるはずもない。
 可動式の学習椅子を転がして、壁時計を見れば時刻は夕方。
 今日一日で成したことといえば筋トレくらい。残りの時間はタクとメールでやり取りしていた。
 休日を棒に振ることにかけては、やつのほうが先達だ。何か語れと催促してから、、ノンストップでメールがきている。『美少女文化の沿革と、ライトノベルが担う役割について』、俺はむやみに詳しくなってしまった。
 急かすように、秒針が音を刻む。日没が近づくにつれて、俺は落ち着きを失っている。数分前にトイレに立ったばかりだというのに、また尿意を催す。苛立ちながら椅子を離れた。
 そうして、用を済ませて部屋に戻ると、ベッドが占領されていた。
「兄くーん、おじゃましてるよー」
「おわぁ」
 俺は思わず悲鳴を上げる。
「なに驚いてるの」
 不躾な侵入者は、手元に視線を落としたまま言った。既に風呂に入った後なのだろう、パジャマに着替えてリラックスモード。手に持っている小説は、俺の本棚にしまってあったものだ。布団の上に我が物顔で居座って、読みふけっている。休日を最高に満喫していやがるなコイツ。俺は気が気でないというのに。
「お前なぁ、ずいぶん前に言っただろ、ひとの部屋に勝手に入るなって。俺は年頃の男なんだよ。プライベートが確保されるべきなの。ていうか、堂々とくつろぎすぎだ」
「いや、堂々としてれば逆に怒られないかなって思って」
「怒るわ。せっかく自分の部屋があるんだから、帰れよ。もう子どもじゃないんだから」
「やだー、兄くんの部屋のほうが広いんだもん」
 脚をバタバタと叩きつけ、ベッドの占有権を主張する。子どもだ、子どもがいる。
「どうせ寝転がってるだけじゃないか。それくらいのスペース、自分の部屋にもあるだろう。本なら貸してやるから」
 理屈を説いて帰らせようとすると、
「……どーして、かわいい妹を追い出そうとするの」
 乱暴に本を置いて、見上げるように睨んでくる。どうやらきのうから、ご機嫌がよろしくないようである。晩飯の献立もステーキのはずから、もやし炒めに格下げになっていたし。しかもその怒り方というのが、冷淡な感じではない。俺のことを疎んじているというよりは、むしろ逆。構ってもらえなくて拗ねているような。そう、まるで――。
 いずれにせよ、俺は譲歩を選ぶしかなかった。観念せざるを得なかった。
「ああ、わかった、わかった。悪かったよ。ベッドは好きに使っていいぞ」
「……むふ。ありがとっ」
 許可を与えると、すぐさま笑顔に切り替わった。ゲンキンなやつ。
 俺はそのままの流れでなんとなく、ベッドの端に腰を下ろす。
「今日のお前、まるでちっこい頃に戻ったみたいだな」
 思ったままを口にしてみたところ、
「む、ワガママってこと? なぁに、さっきから。兄くんは妹の機嫌を損ねるのが、休日の趣味なの?」
「違う違う、責めてるわけじゃない。ただ、むかしは甘えんぼうで泣き虫なやつだったな、と」
「えぇ? うぅん、そうだったかなぁ」
 不満げな声。
 けれど、たしかに、そうだった。むかしの俺は、甘えんぼうで泣き虫な妹だから、守ってやらねばと思ったのだ。
 俺たちが幼いころから、両親は家を空けることが多かった。かといって、ありがちなように祖父母家に預けられたわけでもない。核家族化の弊害か、過去の記憶では大抵、家に大人はいなかった。
 家にいたのは俺以外にはたったひとり、幼い妹だけ。作り置きの料理を温め直すことすらおぼつかないような。しかし、俺はいつまで自分が守ってやっているとうぬぼれていたのだろう。電子レンジも扱えなかったドンクサが、いまでは一家の台所を担っている。VIP野家という家族を成立させるために、欠かせない一員になった。
 実のところ、自分が中学に上がるころには気が付いていた。ずっと、助けられていたのは俺のほうだった。『妹を守る兄』としての役割を与えられてやっと、俺はまともでいられたのだ。寂しさを埋めてもらっていたのは、こちらのほうだった。
 だからなのだろう――こんなにも、輝かしく目に映るのは。
「う~ん、そうだったかなぁ。そんなことないと思うけどなぁ」
 などと、まだ疑わしげに傾げている頭を撫でる。
「うにゃう……」
 子猫みたいにむずがる仕草が愛らしくて、髪をかき混ぜた。「兄くんなにすんのぉ、髪くずれるー」
「かわいい妹を撫でてるんだよ」
「なにそれぇ、もぉ」
 言うものの、抵抗される気配はない。俺は乱れさせた髪を、また手櫛で丁寧に解いていった。そうするだけで、部屋の空気まで弛緩していくのがわかる。
「そういえばお前、純文学なんて読むんだな」
「あ、またバカにしようとしてる」
「してない、してない」
 俺は腰を傾げて、表紙を覗き込む。
 間違いない。記されているタイトルは、本棚にあるなかでも難しめのものだ。読み進めるのにも、結構な時間を要するはずである。だというのに、開かれているページはもう中盤を過ぎたところだ。不審に思い、俺は推理を働かせた。……計算が合わない。以前、この小説を貸した覚えはないし、小説を途中から読み始める人間などおるまい。
「なあ、おい。さては、俺の部屋に侵入するのは初めてじゃないな?」
 しかも、この図々しさとくつろぎっぷりからして、二回や三回でもない。おそらく常習犯だ。
 俺が小説を取り上げて詰め寄ると、哀れなほどに視線が泳いでいる。
「ウ、ウウン、侵入してないよ。わたしそんなに無神経じゃないもん。雑誌の裏に隠されたエッチな本なんて知らない」
 語るに落ちる、とはこのことか。
「……成敗っ!!」
 俺はテーブルクロス引きよろしく、ベッドシーツを引きずり出した。芋虫のように転がった不届き者に、掛け布団を使って襲い掛かる。
「わーっ、やめてやめてっ、ごめんなさいっ!! 悪気はなかったのっ、出来心だったのっ!!」
「嘘をつけっ!!」
 激しいもみ合いになる。スプリングが叫びのように軋みを鳴らす。布団もシーツもめちゃくちゃになり、小さな埃がそこら中に舞った。子どものように騒ぎ立てながら、くんずほぐれつ。暴れたって大声を出したって、叱る親はいないのだ。俺たちのあいだには、妨げるものがなにもない。ずっと、二人だけの世界がある。
 格闘がひと段落すると、互いに汗をかいている。
「もー、お風呂はいったばっかりなんだよー」
「しょうがないさ」
「兄くんのせいだよ」
「しょうがない」
「あーあ……でもなんか、こんなふうにじゃれ合うのって、久しぶりな感じするね」
 言って、荒く吐き出す息が熱い。風呂上がりで、しかも暴れ回った後だ。近くにいるだけでも、体温が移ってくるよう。俺は、その熱源に覆いかぶさるように、四つん這いになる。
「ん? どうしたの兄くん?」
 問いかける瞳を見据えて、俺は言った。今しかチャンスはないと感じたから。

     


















「好きだ、千恵」



















     


     

 自分で想像していたよりも、はっきりと言えた。真剣味を帯びた言葉が千恵の瞳に吸い込まれて、消える。
 短い沈黙があった。
 千恵は何回か瞼をしばたかせる。その後、普段と変わらない笑顔になった。
「そうでしょうとも。かわいいかわいい妹だもんね」
 屈託のない表情。
 やはり、真意は伝わっていない。柄にもないほど真面目に告白したというのに。まあ、当然と言えば当然か。
 俺は、千恵の体を抱きしめた。
「わ」
 衣服ごしに、柔らかい感触が伝わってくる。一見してわからないなだらかな輪郭も、触れると確かに知ることができる。けれど、足りない。もっと知りたいと願う。もっと、もっと。すべてを。
 千恵は小さく驚嘆したきり、それでも逃れようとはしない。俺とベッドに挟まれて窮屈そうにしているが、抱擁に反意を唱えない。おそらくは、単なる親愛の情として受け取っているのだろう。俺の背中に腕を回して、
「兄くんも今日、ちょっと変だよ。なんかヤなことでもあったの? あぁ、もしかして失恋? 振られちゃった? そっかそっか、よぉし、そういうことだったら、存分に妹の胸を貸すよ。慰めてあげる」
 違う。むしろ、これから振られて失恋する予定なのだ。
 千恵の髪に顔を埋め、耳元で言った。
「千恵のことが好きなんだよ。だから変になってる。おかしいか?」
 髪の中からはシャンプーと、わずかに汗の混ざった匂いがする。頭の奥がぼうっとして、理性を失わせる匂いだ。
「変じゃないよ? わたしだって兄くんのこと好きだよ。家族なんだし、当たり前だよ」
「………………」
 この分では、言葉でどれだけ訴えても無駄なようだ。
 俺は覚悟を決め、千恵に触れる手を蠢かせる。左手をパジャマの裾から、中へと差し入れる。
「わ、え、ちょ……っと、きゃふ」
 くすぐったそうな声にもためらわない。
 右手で、白い首元をさすった。薄く、キメの細かい肌を愛で、むき出しの鎖骨に指を滑らせる。じゃれ合っているときの、稚気を込めた動作とは違う。まったく別の応答を期待した愛撫。なぞるたびに、肌は敏感に反応を表す。触れ方の変化に気が付いたらしく、千恵は解いていた身を縮こまらせた。
「兄くん、だ……だめ」
 言葉で制止を受けても、触るのをやめない。鎖骨を下りた右手がパジャマに触れ、胸のふくらみに達して。
 千恵の声色は、尋常ならざる響きを帯びた。
「やめてぇっ……!!」
 次の瞬間、乾いた音。頬に衝撃を受ける。
 瞠目する千恵と、その体勢を見て、平手を打たれたのだとわかった。
「わ、わたしっ、自分の部屋に戻るね。あの……勝手に兄くんの部屋はいってごめんなさい……」
 顔を背け、ベッドから抜け出ていく。それを引き留めることはできない。華奢な腕をとって、「待ってくれ」と言うだけでいいのに。
 俺の気勢はもう失われていて、指先一つたりとも動かせなかった。金縛りのように固まったままで、扉の閉まる音を聞く。動けなくなった俺の周りで、細かい埃が舞っている。蛍光灯を反射して踊るように漂うさまが、ひとをバカにしているようだった。
 つまり、告白は失敗した。わかっていたことだ。

――――――
――――
――

 学習机の上で、携帯が静かに震えている。
 見ると、受信箱にメールが溜まっていた。差出人はすべてタクだ。俺が失恋しているあいだにも、オタク談義は延々続いていたらしい。傷心を紛らわせたい一心、俺は長たらしい文章を読みふけった。
 読んでも読んでも相変わらず、内容の大半は理解できない。しかし、ある一つの文言が俺の目を奪った。途中で挿入されていた、タクお得意のオタク的格言。キャラクターの属性について説く文脈で用いられていた。

『妹は二次元に限る』

 言葉を二、三度噛みしめて、携帯を閉じる。
「まったく、その通りだ」
 呟くと、痛いくらいに口元が引きつった。

     

Sunday/愛妹アイデンティティ




 橙色の豆電球が弱々しく光っている。仰向けになって見える天井を、これほど長く眺め続けたことはあっただろうか。皺だらけになったシーツに寝て、かれこれ数時間。布団と背中が一体化するのじゃないかというほど、俺はじっと耐えていた。何に耐えているのかは知らない。たぶん、無力感とか罪悪感とか、そういうものだ。
 ほの暗い部屋の中で視線を動かし、壁時計を探す。なんとか目視できた文字盤は、ちょうど日を跨いだことを示している。今日は日曜日になったばかり、休日のど真ん中だ。いろいろと予定を立てることができるぞ。……と気持ちを奮い立たせてみても、一向に胸は軽くならない。
 おそらく、今夜は眠れないだろう。ここで寝転がっているよりは、集中できないなりに勉強でもしようか。
 そんなことを考えていると、扉をノックする音が聞こえた。控えめに二回、叩いた後に、更にか細い声が続く。
「兄くん……起きてる……?」
 千恵だ。俺はベッドから跳ね起きた。
「起きてるぞ、ちょっと待ってくれ」
 扉を開けると、廊下から一条の光が差す。隙間から見えた千恵の顔は憔悴しているようだった。腫れぼったい目を歪めて、力なく笑う。
「いま、大丈夫?」
「あ、ああ、もちろん」
 蛍光灯を全灯にして、部屋に招いた。
 中に入ったものの、千恵は居心地悪そうにして、動こうとしない。中心の絨毯に佇んで、うつむいている。俺からかける言葉も見つからず、しばらくは同じように突っ立っていた。
「まあ、とにかく座れよ」
「うん……」
 学習椅子のほうを勧める。俺はベッドに座った。
 狭い空間で距離を取り、向き合うかっこうになる。立っていても座っていても気まずさが軽減されるわけでもない。ふたりの身じろぎや呼吸の音が、やけに耳についた。とにかく、なんでもいいから話さなければ。わざとらしく天気の話題でも振ろうかと顔を上げてようやく、俺は千恵が抱えているものに気付いた。大判の黒い冊子。厚めの表紙に、金色の刺繍がされている。
「それ、アルバムか?」
 指さすと、千恵も顔を上げた。
「う、うん。前に勝手に借りちゃったから、返そうと思って。ごめんなさい」
「いや、別にいいんだが」
 そして、また会話が途切れてしまう。
 居たたまれなく座り直すと、千恵が小さい声で言った。
「み、見る?」
「え?」
「アルバム、一緒に見る?」
 うかがうような問いかけに、俺は頷いた。

――――――
――――
――

 ベッドの上にアルバムを広げ、間に挟んで座る。
「わー、さすがにこのころは背、小さいね。幼稚園くらいかぁ」
 最初から順にページを捲っていく。
 アルバムは主に、旅行や遊びに行ったときの写真で構成されていた。ふつう家族写真は両親の部屋に保管されているはずだが、何かで俺の本棚に混ざったのだろう。
 千恵はぺたん座りの体勢ではしゃいでいる。アルバムを見始めると元気を取り戻したようだ。写真のひとつひとつを指で示し、いついつの、どこに行ったときのやつだとか解説を加えている。もしかしたら無理して空元気でいるのか、わからないが、いずれにせよありがたい。
「あ、兄くん、これ覚えてる? 夏休みに四国巡ったときのだよ」
「いや、あんまり」
「えー、うそー」
 幼いころの出来事に関しては、千恵のほうが鮮明に覚えているようだった。小学校低学年くらいの物事でも詳細に話してみせるのは大したものだ。俺などは、中学の出来事すらあやしい。
「兄くん薄情だなぁ。ねぇねぇ、この写真見て。わたし大泣きしてるよ。兄くんは木の棒を持ってポーズ取ってる。なんだったかなぁ、これ」
 千恵は顎に手を当てて考え込む。
 写真を見ると言う通り、千恵が泣いて、俺は誇らしげにしている。妹が泣いてる横でカッコ付ける意味も分からないが、それを写す両親もよくわからん。背景にひまわりが群生しているので、これも夏に旅行したときの様子らしい。
「あ、思い出したよっ。これね、大群の毒蛇に襲われたわたしを、兄くんが戦って救出したときのだよ。そうだった、そうだった。いやぁ、あのときの兄くんは頼もしかったなぁ。迫りくる毒牙の群れをバッタバッタと――」
「そんな、物騒な」
 それほどの大事ならさすがに覚えているだろう。
 頭をひねると、似たような記憶を思い出すことはできた。だが、
「違う違う。訳の分からない脚色しすぎだぞ、お前。蛇はたしか一匹だけだったし、種類はアオダイショウだ。毒はない。噛まれたって、腫れるくらいのものだろ」
 写真を見るかぎり、腫れや噛まれた跡はないようだ。なら、守れたことは事実なのだろうか。
「そうだったっけ。ま、どっちでもいいの。大切なのは、兄くんがかっこよかったってことだもん」
 千恵は悪気なさそうに笑った。この分では、ほかの解説も話半分に聞いておかなければいけない。
 さらにページを捲っていく。
 被写体の年齢が上がるにつれて、写真の数は減っているようだ。学校などでの活動が増えると、家族で出かける頻度は少なくなる。中学生ともなれば、家族旅行よりも友達と遊ぶことを優先するものだ。特に俺は、両親と距離を取っていた時期が長かった。家庭を顧みない人間が、気が向いたときに子どもと思い出づくりなど、ちゃんちゃらおかしいじゃないか。と、まあ、思春期全開だったわけだ。今となっては反省している。
 中学校に入ったすぐには、千恵にも反抗期らしきものがあった気がする。夜遊びとか、情緒が乱れていたわけではない。ただ、何につけても「ひとりでできるから」「大丈夫だから」と言って、俺のことを突っぱねていた。当時は寂しく感じたものだが、あそこは転機だったのかもしれない。その時期を過ぎてからというもの、千恵は家族に尽くすようになった。俺は台所を追放され、VIP野家の料理の質は格段に向上した。彼女なりに、自分の役割を確立させたかったのだろう。
 写真をすべて見終えると、アルバムの裏表紙にいきつく。俺はまた黙ってしまったが、千恵のほうから口を開いた。
「さっきのこと、ね」
 言われて、腹に力が入る。俺たちにとって『さっきのこと』といえば、内容はひとつしかない。告白についてだ。
「さっきのことで、どうした」
「このまま放っておいて、ずっと気まずくなっちゃうの嫌だから、もう一回、聞いておきたいの」
 アルバムに手を置いたまま、眉宇に憂いを浮かべて、「兄くんは、わたしのことが好きなんだよね?」
「ああ」
「それは、ひとりの女の子として……っていう意味で、だよね」
「ああ」
 この点に関しては、いまさら適当な嘘はつけない。正面を見返して、真摯に答える。
 千恵はまた少し動揺したようだった。
「うぅ……」
 顔を伏せ、指を落ち着きなく擦り合わせる。髪の隙間から、朱く染まっている頬がのぞく。
 再び訪れた沈黙。しかし、俺のほうは段々と、平静を取り戻しつつあった。考えてみれば、俺から伝えられることは伝えきった。いまは、返答を待つときだ。ジタバタしても仕方がない。
 千恵が、背後にある本棚をちらと見た。
「じゃあ、兄くんはわたしを見て、えと、エッチな気持ちになるんだよね?」
「う……まあ、な」
「だ、だったら、そのエッチな気持ちが満足したら、元の兄くんに戻るの?」
「え?」
 言っている意味がいまいちつかめない。俺が困惑していると、千恵がロボットみたいに立ち上がった。見開かれた眼が、正体不明の決意を帯びている。
「千恵……?」
「わ、わたしが兄くんの……をシてあげたら、いいんだよね? そうしたら、兄くんは前みたいに戻るんでしょ? 大丈夫だよ、覚悟はしてきたから。だいじょぶ、だいじょぶ」
 何かに取り憑かれたように繰り返し呟く。
 未だに状況がわからず、俺は硬直する。千恵はその肩を押し、のしかかるようにベッドに押し倒した。這うように下半身に下りて、ズボンのチャックに手をかける。
「ちょっと、待て、待て待て」
「わたし、こういうことよくわからないんだけど……手ですればいいのかな。それとも、く、口?」
 問いかける声は震えている。目を合わせるのは我慢ならないらしい。頑なに顔は伏せている。
 質問の意味を吟味して、俺はようやく事態を把握した。同時に、邪な期待が脳裏をかすめる。このまま身を任せていれば、千恵の奉仕を受けることができるのだろうか。俺が望めば、彼女は従順に言うことを聞くのだろうか。
 欲望に呑まれかけて、首を振る。さすがにこの局面で、勢いのまま、というわけにはいかない。
 だって、俺は見てしまった。下半身の方、目を向けると、紺色のチノパンに黒い染みができている。小さな水滴が、雨粒のように滴っているのだ。
 俺は両手で肩を掴み、千恵を遠ざけた。すると、目が合う。想像通り、丸い大きな瞳が、涙を湛えていた。
「いいんだ千恵、そんなことしなくても。ごめんな」
「だっでぇ……」
 頭を撫でると、本格的に決壊する。ぐしゃぐしゃに歪んだ顔に沿って、幾筋の川ができている。
「ねぇ、兄くん、教えて。わたしはどうしたら、『兄くんの妹』でいられる?」
 絞り出された懇願は、瞬間的に理解をもたらした。俺は電撃のような理解に射貫かれて、呼吸を止める。
 俺の妹でいること。千恵が泣いているのはなぜか。俺は、酷い勘違いをしていた。その間違いに、ようやく気付いた。
 涙ながらに訴える千恵には、性的嫌悪の色など見えない。どころか、近親相姦に対する禁忌すら滲ませるところがない。違ったのだ。彼女が唯一恐れているのは、俺の妹でなくなること。『兄に愛される妹』としての自分を奪われること。あのアルバムから連続する地点に、目の前の千恵はいる。
 俺は、己のわがままがいかに罪深いことなのかを知った。これほど信頼され、慕われておきながら。守るべき妹を存在ごと奪おうというのか。愛する女の子を悲しませようというのか。それでは、優先すべきことはき違えている。俺は、妹を幸せにすると誓ったはずではないか。
 決意が、心の深層に鍵をかける。昂ぶっていた気持ちが穏やかに冷めていった。
「千恵、ごめん。もう、大丈夫だから」
 俺は妹を抱きしめる。長らく連れ添ってきた兄として。
 千恵ははじめ身をすくませたが、こちらの意をくみ取ると、安心したように力を抜いた。全身を通して、千恵の鼓動が伝わってくる。心臓の拍は俺のものと重なって、やがて溶けていった。

――――――
――――
――

 ローベッドの上。出窓側の壁を背にして、俺たちは並んで座っている。
 シーツは綺麗に整えてある。脚を冷やさないために、掛け布団をふたりで分け合って使う。年長らしく、3:7くらいの割合で譲ってやった。おかげで足先がちょっと冷える。
 一通り泣いた千恵はすっきりしたらしく、晴れやかな面持ちだ
「ごべんで、いっぱい泣いで。布団、汚しじゃった」
 ……鼻はまだ詰まっているようだ。
 俺は、枕元のティッシュ箱から二、三枚取り、渡してやる。千恵は遠慮なく音を立てて鼻をかむと、丸めたティッシュをゴミ箱に放った。ナイスシュート。
 さっきまで重々しかった空気はすっかり弛緩している。いまならば、言いたいことが言えそうだ。
「でもなぁ、千恵にだって原因の一端はあるんだぞ?」
「え、なんのこと?」
「だってお前、高校に入ってからやたらベタベタするというか、懐いてくるじゃないか」
「ああ、そっかぁ」
 千恵は布団を一割、俺に寄越した。これで4:6。「ブラコンの自覚はあります……」
「スキンシップも激しかったしな。関係を知らない周囲からすれば、兄妹よりも恋人同士に見えただろうさ」
「だってぇ……。せっかくおんなじ高校通えるようになったのに、兄くん東京の大学行っちゃうんでしょ? そう思ったら寂しくて」
「大学ったって、あと丸々一年はあるじゃないか」
「でも、想像するだけで寂しいのっ。兄くんと違って、わたしは生まれたときから兄くんと一緒なんだよ? 兄くんが出てったらひとりぼっちでごはんだよ? そんなの、寂しくて死にそう……。兄くんは寂しくないの?」
 言って、俺の肩に寄りかかってくる。ついでに、布団も一割くれた。これで半々。
「寂しくない……と言えば嘘になるな」
 思うに、俺が千恵に恋した原因も、直接には来たる別れだったのだろう。失う怖さが、求める強さに変わったということ。「miss you」を愛していると訳するようなものか。それこそ気の早い話だが。ともあれ、いまとなっては「つまらない気の迷いだった」で済ませたのだ。考えるのはよそう。
「兄くん、ほんとに東京行っちゃうの?」
「仕方ないんだよ。家の近くには大学なんてまったくないし、いずれにせよ実家は出なくちゃならない。まあ、受験に通るのかという問題は、また別にあるんだが」
「浪人すればいいじゃん。そうすれば一年延長して実家にいられるよ。それか、留年して」
 本気か冗談かわからない調子で言うと、布団をぜんぶ引っ張っていった。
「おい」
「ふーん、だ」
 布団を頭から被って、お化けみたいになっている。反論は受け付けないらしい。
 少し黙ったあと、分厚い殻の中からくぐもった声がする。
「……向こう行っても電話してね」
「もちろん」
「毎日」
「それはちょっと」
「毎日するの」
「はいはい」
「あ、忘れてたけどわたし、兄くんに怒ってるよ。yahoo野さんちの子に妹かわってもらおうとしてた」
「い、いや、違うんだよあれは……。ていうか、やっぱり盗み聞きしてたのか」
「ツーン」
 こうして。
 長い時間、カーテンから朝焼けが漏れるまで、俺たちは話し続けていた。
 とはいえ、意味のある会話をしていた時間は長くない。まどろみが忍び寄るごと口数は減り、夢うつつの発言は泡のように消えていった。最後にはふたりとも、瞼を閉じかけていた。
 自分の部屋に帰るとき。千恵は提案をしてきた。
「せっかくだし、久しぶりに、おんなじベッドで寝よっか」
「兄の固い決意を台無しにするつもりか、お前は」
 言って断ったが、ほんの少し後悔している。

――――――
――――
――

 油が弾ける音に混ざって、ベーコンの香りが漂ってくる。続いて卵が割られ、フライパンに投下される音。暇をみてレタスがちぎられ、食器が取り出される。
 俺はダイニングの席で目をこすりつつ、台所の様子を察する。踊るように調理をこなしているのは、わが家の台所担当であり、俺の妹でもあり、ついでに高校の後輩でもある女の子――千恵。揺れるウサギのエプロンから、その上機嫌がうかがえる。
 南側の大きな窓から、陽光が差している。俺の半身を焼く太陽は、頂点近く。きのう夜更かししたせいで兄妹ふたり、どちらも盛大に寝坊した。千恵が作っているのは朝食兼の昼食だ。
 夏を予感させる陽射しを浴びながら、感慨に浸る。俺は日常を取り戻したのだ。ほんの数時間前まではどうなることかと思っていたが。事態は一夜にして急転し、また急速に収束していった。体感では、夢でも見ていたような気さえする。
「はい、ごはんできたよ、兄くん。まだ眠そうだね」
 俺の顔を覗きながら、千恵は隣の椅子に座る。
 配膳された大皿には、さっきまで調理していた料理が乗っている。朝昼両方分だけあって量は多い。しかし幸い、俺は気分がいいので食欲がある。さっそく、目玉焼きに醤油をかけてかじりついた。
 食卓に父と母の姿はない。残されたメモによると、俺たちが全然起きてこないので、夫婦でデートに出かけたそうだ。つまり、今日も兄妹ふたりきり。
 千恵はレタスにマヨネーズをかけながら、内緒めかして言った。
「きのうの話の続きなんだけどね?」
「ん、おう」
 もはや、やましいことなどないとはいえ、なんとなく身構える。
「やっぱり、わたしのために兄くんが浪人とか留年するのはよくないと思うの。家計にも優しくないし、兄妹で足を引っ張り合うような関係にはなりたくないもん」
 そのことかよ。やっぱり冗談じゃなかったのか、あれ。
「考えてみれば、高校受験のときとおんなじだよ。兄くんは大学で先に待ってて。今度も絶対、頑張って勉強して、追いついてみせるから。……だからね」
 千恵は口に運びかけたレタスを置いて、口ごもる。
「だから?」
「うん。だから……もしだよ? 大学に行っても兄くんが全然モテなくて、彼女もできそうになくって、わたしが大学に行ったときにも、寂しい生活を送ってるんだったら……わたしが恋人になってもあげても……いいかも」
「お前……」
 俺は、思わず箸を取り落とした。
「か、勘違いしないでね。わたし、兄くんの妹をやめるつもりはさらさらないから。でもね、でも、もしかしたら妹のままでも、恋人にもなれるのかもしれないって。それは、すごく難しいことなのかもしれないけど……。兄くんのためなら、そういう自分も見つけられたらいいなって、思うから。つまり、わたしが言いたいのは――」
 今度こそレタスを食べるのかと思いきや、千恵はケチャップを手に取る。容器の腹を絞ってマヨネーズと混ぜ、オーロラソースを仕上げてみせた。
「兄くんには一生独身のまま、かわいい妹を可愛がって生きる将来もあるよって、ことっ!!」



(了)

       

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Neetsha