Neetel Inside ニートノベル
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ここではないどこかにて(仮題)
第一話「ここではないどこかにて」

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 朝起きた私は、まだ私ではなかった。
 それに随分と、ここではないどこかにいた気がする。
 私の名前は山上美子。女子高生。
 八月の終わり、つくつくぼうし。そろそろ夏休みも終わる頃。朝起きたら、私はまだ本当の私ではなかった。
 何を言っているのか、自分でもさっぱりだった。私が私じゃないっていうのは、一体どういうことなんだろう? あまりに哲学的すぎて、自分でも何を言っているのかよくわからない。
 朝になったことに気付いた私は、窓を開けることにした。すると窓の奥の方から冷たく透き通った風が私の髪を揺らしていく。冷たくて、透き通った朝の空気が私の喉を通り抜けていく。
 窓を開けた私の目の前に広がっていたのは、いつも通りの朗らかな鳥の鳴き声と、いつも通りの青い空だった。窓の外に目をやると、そこには青々と生い茂る一面の青紅葉があって、青紅葉と青紅葉の間から差す木漏れ日は、幼子を諭す母のように優しく私を包み込んでくれる気がする。
 深い森に囲まれている私の家、というより小屋のような風貌の私の住み家は、人里から随分離れた場所にある。だから私の家には誰も来ないし、きっと今日も誰も来ない。
 私の家には誰も来ない。その理由は、私に親しい友達や恋人がいないからでもなく、私の家が人里から随分と離れた辺鄙な場所にひっそりとただずんでいるからだった。……もしかしたら、本当に私を慕ってくれている人であれば、こんな辺鄙な場所にある私の家に押しかけてくれるのかもしれないけれど。まあ、元々友達なんてこの世に一人もいないのだけれど。
 誰も来ない家に住み始めたのは、数日前のことだった。誰も家に来ない家での生活は、最初の頃はちょっぴり寂しかった。だけど誰も家に来ない寂しさにさえ慣れてしまえば、この深い森の中でひっそりとたたずむ家での生活は、案外心地良かった。


 深い森の中にたたずむ家での生活は、心地良かった。私は、ただただ私として生活していればよかったからだ。だから居心地もよかったし、楽だった。それに、私の世界に干渉してくる登場人物だってもういない。この家に住み続ける限り、私の世界は、いつだって私だけのものだった。それがどれだけ心地良いことか。
 私の世界が、ずっと私だけのものであることがどれほど心地良いかということを、私は知っている。
 私の世界に容赦なく干渉してくる人物の一人は、私の母親だった。私の母は、私の人生という名の小さな物語における主要な登場人物の一人で、肉親で、私が間違いなく一番大嫌いな人物で、だけど肉親である以上は縁も切れなくて、厄介な存在だった。
 幼少の頃の私には、自由というものがなかった。何をしても母親に怒られたし、かといってその理不尽な母の怒りに怒りで対抗したら、もっとこっぴどく怒られた。
 お肉を食べたら、こっぴどく叱られた。鶏肉でも、豚肉でも、牛肉でも、私にはどんな肉を口につけることさえも許されなかった。お魚だって、私は一切食べさせてもらえなかった。母に理由をたずねると、「肉を食べるとケガレるから」という答えが返ってきたことをよく覚えている。
 友達を作ることも、私には許されていなかった。だから私は、この世に生まれ落ちてから高校生に至るまで、一人も友達ができたことがない。
 友達になれそうな人もそれなりにいたけれど、友達になれそうな人と私が、友達になれそうなくらいに仲良く振る舞っていると、決まって母はばつの悪い顔をして、私と友達になれそうな人の仲を引き裂いた。
 小学校の時に、友達になれそうなくらいに仲良くなった穂積ちゃんは、私と仲良くしているところを通学路の途中に偶然通りかかった母に見つかったしまったせいで、母から罵詈雑言を浴びてしまった。母から罵詈雑言を浴びた穂積ちゃんは、私の家の前にある石垣を背にして、その場で泣き崩れてしまった。泣き崩れた穂積ちゃんが、涙声交じりに私の母に言い放った、「何もあんなにひどいこと言わなくてもいいのに」という言葉がずっと忘れられなかった。そして私は今でも穂積ちゃんのその言葉を覚えている。
 「何もあんなにひどいこと言わなくてもいいのに」
 この言葉を心の内で幾度も反芻した私は、小学生の私なりの精一杯の勇気を振り絞って、寝る前によく抱いていたくまのぬいぐるみを抱きかかえながら、母に抗議した。
 だけど母は何も変わってくれなかった。穂積ちゃんのことを「出来の悪い子」とあまりにも罵るものだから、そんなことないよ、と思わず口答えしてしまったら、その日の夕ご飯を抜きにされた。
 母が穂積ちゃんに罵詈雑言を浴びせた次の日の休み時間、少し暗い表情で教室の窓の外を見つめていた穂積ちゃんに、昨日の母の罵詈雑言を謝ってみた。私のお母さん、いつもあんな風なの、ごめん、って。
 すると穂積ちゃんは、少し微笑んだあと、何も言わずにお手洗いの方へと立ち去ってしまった。
 穂積ちゃんとは、それっきりだった。それ以後、私は一言も穂積ちゃんと言葉を交わしていない。穂積ちゃんはどうやら私と同じ高校に通っているようだけれど、見かけたこともなければ、当然話したこともない。私と穂積ちゃんは、それっきりだった。
 そんな母に育てられた私は今、神に奉げられようとしている。
 十五、十六になった処女の娘を、神に奉げる。これが私の生まれ落ちた村に古くから残る俗悪な慣習だった。
 お願い、私を助けて。誰か、お願いします。
 私、まだ死にたくないよ。神様お願い、どうか私を助けてください。
 生きて何かやりたいことがあるわけじゃないけど、だけど私はまだ死にたくないの。だからもしも神様がいるのなら、神様、どうかこんな愚かな私を助けてください。
 私の名前は山上美子。まだ年端もいかない十六歳の女の子で、普通の女子高生生活に憧れを抱く女子高生だった。


       

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