Neetel Inside ニートノベル
表紙

約束の地へ
第23話

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 もう二度と馬に乗ることはないと思ってた。
 目の前を、同じく馬に跨る彼女が常歩(なみあし)でエスコートしてくれている。乗馬からもう十年以上離れているらしいのに、そうとは思えないくらいに上手い。
 柵の外でこちらをニヤつきながら見ている朝川さんたちに、一瞬だけ苦笑いを送る。なんだか気恥ずかしくなる。その一瞬の間に、彼女と馬の姿が小さくなっていた。
 速歩(はやあし)になってる!
 常歩では馬は歩いているだけだが、速歩ではもう軽く駆け始めている段階だ。
「アリスちゃん、マジか……」
「五島ー、早く追いかけないと捕まえられなくなるぞ!」
 分かってますよ、朝川さん……でも俺はもうおっさんに入り始めてるの。認めたくないけど。二十歳そこそこの子と比べたら身体の切り替えのスピードも遅くなってるんですよ! そもそも馬に乗る感覚からして、相当失ってるのもあるし……
 なんて、心の中で愚痴っても何も始まらない。身体の使い方も、何となくだが思い出してきた。馬を動かす。応えて、馬も速歩に移行してくれた。リズムに合わせて、自分の体を上下させる。そうそう、こんな感じだった……

「二人ともやっぱ経験者だけありますねー……」
 朝川はアリスと五島の乗馬風景を見て、心底から感心していた。それには両隣の戸田と吾妻も同意しているようで、
「アリスちゃんもゴシくんも昔ジョッキー目指してたってだけあるわねぇ。いやすごいわ」
「…有栖さんは小柄ですし、騎手に向いている要素もあるのは理解できますが、長身の五島君も、器用に馬を操縦していますね……やるな、二人とも……」
 朝川は、柵の内と外、自分も含めた五人みんなが楽しめているのを感じて嬉しくなった。本当の狙いとは少しずれているかもしれないが、良いんじゃないだろうか。
 月曜の午前中、この五人が美浦トレーニングセンターからほど近い乗馬場に集うこととなったのは、昨日の食事会でのあるやり取りがきっかけだった--

※  ※  ※

「--結局さ、安斎買ってりゃ儲かるんだよね!! 空しくなるくらい! でも、ちょっとやりすぎだよねっ!?」
 いつになく明美さんが酔ってる。朝川は焼酎お湯割を一口含みながら、正面の戸田の様子を見ていた。
 しかし誰も怪訝そうに見てはいなかった。むしろ同情的でさえあった。今日のメインレースの中山記念、戸田の本命馬は、安斎騎乗の馬に最終コーナーで文字どおり"弾き飛ばされ"失速、大敗した。安斎はこれで三週連続の重賞勝利。全国リーディングも二位に大差をつけて独走しており、ノリにノっている。しかし、今日の騎乗はクリーンさを欠いているのは確かで、騎乗停止には至らなかったものの戒告処分を受けている。
 今日のレースぶりからは、安全を多少犠牲にしてでも勝利を優先しているように、朝川からも見えた。調子が良すぎるため、細部への気配りが欠けることがあるのはよくあることではあるものの。
「今の安斎騎手はキレキレですけど、だからこそもっと気をつけて騎乗できるようになれば、さらに評価を高められると思いますけどね」
 戸田に同意するように、アリスが言う。
「そう! ファンからしたらありがたい騎手よ〜。でもね! 競馬は一瞬の動きで命の危険が生じる危険な競技! 荒い騎乗は見過ごしたくないよね!」
「ホントそうです、そこはしっかりしてもらいたいですよ」
 あの日の夜から、アリスの様子がまた少し変わった。安斎のことを、少なくとも表向きにはそこまで意識していないように見せるようになった。もちろん、心のうちは分からないけれど。色々考えて学んでるんだろう、と朝川はそれを好ましく思っていた。
「僕の叔父も落馬事故で引退したんです」
 ポツリと言ったのは、五島だった。現在調教師の五島の叔父は、落馬事故で右腕を複雑骨折し、神経も損傷。それから二十年以上経った現在も若干動かしづらさが残っているという。
「だから、というわけでもないけど、荒い騎乗をする騎手はどうしても好きになれないんですよね……まぁ、騎手は勝ってナンボの世界なんで、結果を出している以上はそこはあまり触れられなかったりもするんですけども」
「五島大騎手、懐かしいですね……結局、引退レースは、出来ませんでした。復帰に向けて、懸命に頑張っていたそうですが……」
 吾妻は斜め上を見て、目を瞑った。五島大は関東のスタージョッキーとして、多くのファンにその名を知られていた。リーディング上位に常時名を連ねるタイプではなかったが、忘れた頃に大レースを勝ち、明るい性格も相まって、見ているファンに多大なインパクトを与えていた。しかし、その最後は落馬事故という、あっけない幕切れだった。
「…ここ数年、降着ルールの変更もあり、騎手のラフプレーが以前より目立っているように見受けられます。今は、ほとんど降着になりませんからね。勝利が剥奪されることがないなら、騎手は、多少制裁金を食らおうが、騎乗停止になろうが、大レースを勝ちにいくものでしょう。GⅠを勝つことで、自分や馬のその後の生き方が、変わってくるのも事実ではありますし。
 ただ、私は、五島騎手のような人が、これ以上増えないで欲しいと、願わずにはいられません……単純に悲しいですし、それに、競馬の楽しさをスポイルしてしまいますから……」
 吾妻は神妙に語った。
「…私はたまに、五島君が、身長のハンデも厭わずに、騎手になってくれれば良かったのに、と、思うことがありますよ。貴方なら、危険な騎乗はしないと、信じられますから」
 吾妻からそう向けられると、五島は照れからか、目を逸らして呻くように呟いた。
「やめてくださいよ、吾妻さん……確かに騎手目指してた時期もありますけど、もう二十年も前の話ですから!」
「えっ」
 驚いていたのはアリスだった。どうやら、五島がかつて騎手を志望していたことを、今初めて知ったらしかった。
「そうなんですか!?」
「あ、言ってなかったっけ……てか言う機会もなかったよね。そうそう、確かに中学くらいまでは目指してて、乗馬もやってた。美浦には、乗馬施設もたくさんあるし、たまに叔父さん所縁の厩舎の馬にも跨らせてもらったりね。ヒミツだけど……」
 五島の話を聞いたアリスは、朝川がこれまでに見たこともないほど嬉しそうな顔をしていた。自分と同じ元ジョッキー志望者が、社内にいるとは思っていなかったのだろう。自然と話が口を突いて出ていた。
「私も小学生の頃までは騎手になりたいと思って、美浦の乗馬クラブに通ってました! 途中で諦めましたけど……」
「えっマジで? なんで諦めちゃったの? 俺みたく一八〇センチもあるならともかく、アリスちゃんの身長なら減量も楽勝だったろうに」
「あ、それは……その、安斎騎手が……」
 さすがに、アリスもまだその話は言いづらそうにしていた。瞬間、助け舟を出してやろうと朝川は考えたが、どうせならもう一つ、新たな展開を作ろうと考え付いたのだった。
 アリスは多分、安斎騎手にそこまで恋愛感情を持っているわけじゃない。気がする。なら。
 五島。いつか、お前言ってただろ。どうなるか分からないけど、アシストはしてやるよ。
「そういえば、二人とも乗馬の心得あるわけだ。じゃあさ--」

※  ※  ※

 話はそうして、トントン拍子に進んだ。そして今に至る。
「…良いですね、馬って」
 朝川は、心底からの思いを呟いた。
「競馬じゃなくても、馬が走っているのを見ているだけで、なんだか心が洗われる感じがします。やっぱり俺は馬が好きなんだなって、再確認できたというか……」
「だよね」
 戸田は頷いて、続けた。
「昨日のメインは正直腹立ったけど……でも、やっぱり馬っていいよね。私は今後の人生、何があっても、馬を見ることはずっと辞めずに続けていくんだろうなって、そう思うよ。ノリちゃんもそうじゃない?」
 戸田から言葉を向けられた吾妻も同じくして、馬上のアリスと五島を目で追いながら、話し始めた。
「…高校生の頃、ちょうど、競馬ブームが来て。女子も含めた周囲も、競馬の話題をしていることがありましたが、私は、その話題には、ちっとも、食いつきませんでした。何故なら、その頃には、もう、競馬専門紙や、競馬週刊誌を購入し、ミーハーを超えたレベルでのめり込んでいたからです。馬券も買わないのに、あそこまでのめり込めたのも、今となっては不思議ですが……私の運命は、あの頃には、決まっていたように思います……明美さんと同じです。私も一生、競馬と、馬と、共にありたいと、心から願っています……」
 私も、乗馬を習おうかな。明美がそうこぼして、吾妻も、良いですね、と続けた。
 朝川にも、忸怩たる思いがあった。自分は馬に乗ったことがない。それなのに、あの騎手の乗り方はどうだ、と講釈を垂れている。もちろん、事実そうだと思うから言っている。だが、『馬に乗ったこともないヤツがなんか言ってるぞ!』と言われたとしたら、返す言葉が思いつかないのもまた事実だった。表現者と評論家は違う、と言えなくもなかったが、それで収めてしまうのも何だか違う気がしていた。
 俺も乗ろうかな……あいつらに教わって。
 これから益々時間がなくなるというのに、どこで習えばいいのかは、さっぱり思いつかなかったが。

 昔取った杵柄、とかいう言葉があるけど、まんざらデタラメでもなかったな。
 アリスちゃんには追いついた。今はお互い、駈歩(かけあし)で並走している状態だ。懐かしい揺れが下半身から全身に伝わっている。
 好きだ。俺は、馬に乗ることが。
 身長が伸びすぎて、俺は騎手を諦めた。そう周囲には言っていた。
 でも、本当は違う。怖かった。叔父さんが、五島大が、どうしようもない大怪我を、自身の責でなく負ってしまったことが。自分がどんなに気をつけていても、決して避けようのないアクシデントが時に起こる、競馬の騎手という世界が。
 だけど、だからこそ、俺は忘れてしまっていた。自分の芯になる部分を。初めて馬に乗った時の気持ち。
『--面白い!!』
 強烈だった。それまでとは全く違う世界が、馬の上にあった。その時の感動が、興奮が、スタージョッキーの血縁者である、という以上に、俺を騎手の世界へと誘おうとしてくれていた。
 でも、結局騎手にはならなかった。恐れて、恐れて。でも、それでも、競馬自体からは離れられず、俺はいまここにいる。
 もしかして、アリスちゃんもそうなんじゃないか? そんなことを考えながら、並走する馬上のアリスちゃんに目を向けると、アリスちゃんも、俺の方を見ていて、ちょうど目が合って、どきりとした。
 アリスちゃんはいつもより、気持ち柔らかそうな微笑みを見せてから、手綱を持つ両腕を激しくアクションさせた。
「はッ!!」
 襲歩(しゅうほ)!
 アリスちゃんの迸らせた声とアクションに応えるように、馬はあっという間に速度を上げ、それこそ競馬で走る馬と近いようなスピードで加速して行った。
 追い掛けるべきか? あそこまでスピードを上げると、落馬した際の危険も伴う。大丈夫なのか?
 …いや、大丈夫だ。
 乗馬用に使われているだけあって、この馬は丈夫な脚元をしているし、気性も穏やかだ。たとえ競馬に近いスピードで走ったとしても、指示は従順に聞くだろう。それを察したからこそ、アリスちゃんも飛ばした。そんなバカな子じゃない。
 社内に乗馬で彼女と伍してやり合えるとしたら、きっとそれは俺だけだ。俺が追いかけないで、誰が彼女を追い掛けるんだ--
「はッ!!!」
 こんなに大きな声を出すのも、何だか久し振りのようだ。トップスピードに近い速度で柵にぶつからないよう曲がっていく。スリリングだが、だからだろうか、楽しい。
 アリスちゃんに並んだ。彼女は大体笑っている。今もそうだが、若干狂気を含んだ笑みにも見えて、背筋がゾクッとした。でも、そんな彼女も愛おしい。
 思っているだけじゃ何にもならない。察してくれ、なんて子供の取る態度だ。
「アリスちゃん!」
「はい?」
「好きだから俺と付き合って欲しい!!」
「そうですか! ありがとうございます!」
 --いけるのか?
「…とりあえずもうしばらく走りましょう!」
「とりあえず? ああうん! とりあえずね!」
 よく分からない。断られてもいないが、でもハッキリと受け入れられてもいない。一番モヤモヤするヤツじゃないか!!
「一緒に走れる人がいると、すごく楽しいですね!」
「ああうん! まあね!」
 どうなんだろう? どうなんだ?
 気持ちが落ち着かないまま、ひたすらに模擬レースのようなものを続けた。

 何か話してたなぁ。ごっちゃん。頑張れよ!
 時折吹いてくる風が、春を知らせてくれる。今週はついに弥生賞。三歳クラシックロードの幕開けを告げるレース。
 その前に、もう一つの幕開けが無事行われるといい、と朝川は可愛い後輩二人の姿を眺めながら、思わずにはいられなかった。

       

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