Neetel Inside ニートノベル
表紙

約束の地へ
第2話

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「うーん……」
競馬専門紙『駿馬』編集部。時計の針は1時を示していた。節電のため、編集室内の灯りは全て消されており、深夜まで作業に励む社員はデスクライトを用いていた。まるで蛍の光のように点々と仄めく室内に、呻き声が小さく響く。
朝川だった。迷いに迷っていた。
土曜東京競馬場メインレースの古馬混合重賞戦。重賞というのは名ばかりで、出走馬の半数近くは未だ最上クラスであるオープンまで出世していなかった。それでいて、オープン馬もまだ重賞で好走した経験が少ないメンバーが中心という、実質オープンより一段落ちるレベルのレースだった。さらに、ハンデ戦であり、背負う騎手の重さも各馬で異なるところもその予想の難しさに拍車をかけていた。
要するに、どこからでも予想に入れるレースである。だからこそ難しい。日本競馬の中心である東京競馬場でこういったレースは珍しい。
しかし、朝川は呻きながらも笑顔だった。

オーディオワールドは前走の準オープン戦で不利がありながらも勝ち切ったのは地力の証明だろうし、東京芝1,600メートルという今回と同条件、マイルの新馬戦を勝ってもいる。もちろん新馬とは相手も違うが、開催時期が重要だ。オーディオワールドの勝った新馬戦は昨年秋の開催。つまり今回と同時期。その日行われた古馬のマイル戦の勝ち時計は先週日曜のマイル戦とほぼ変わらない時計。つまり馬場の差はあまりない可能性が高い。即ちそれは、自身の力を出せる条件であるということ。
だがしかし……

…展開面を考えれば、有利に働くのはやはり先行。先週の東京芝では先行馬が多く残った印象だ。週中は雨ももらわず、馬場の状況はさほど変わらないと予測できる。オーディオワールドは追い込み一辺倒の脚質であり、レースのペース次第で差し損ねる危険性も考えられる。自分でレースを作れる先行馬の方が、軸としては適切なのかもしれない。そしてこのレース、前に行く馬が少ない。先行したり、差したりといった自在タイプが多く、徹底逃げ先行タイプがほとんどいないのだ。唯一、そのタイプといえるのがスイーツガールだ。この馬はデビューしてからこれまで、全てのレースを道中3番手以内で走っている。また、勝ち鞍の全てが最終コーナーを回り終わって先頭に立っていた時だ。今回のレースでも、直線入り口で先頭にいる可能性は高いだろう。また、現在準オープンの身であるため、ハンデも軽い。オーディオワールドの方は、今回が重賞初挑戦であるにも関わらず、前走が評価されてか57キロのハンデを背負わされる。追い込み脚質に加えて、この重さで走るのが初めてという点も不安が残る。馬体が小さいため、影響も大きいだろう。51キロで走れるスイーツガールはほとんど裸同然だ。
だが……

…そんな簡単に考えていいのか?

無意識のうちに、唇に右手の人差し指と中指を当てていた。脳が煙を欲した時に出るサインだった。

喫煙所といっても、室内ではなく、会社2階のベランダであった。美浦の深夜の風は冷たく、否応無く年末に向かって時は動いていると感じさせられる。こうやって、あっという間に今年も有馬記念になるんだよな、とぼんやり考えながら、朝川は煙草に火を点けた。外は真っ暗である。それは当たり前のことで、競馬関係者の夜は一般人より早く更けるのである。その代わり、朝がとても早い。もうじき、厩舎関係者は動き出すだろう。
自分達は朝も夜もない。今日の昼過ぎには土曜版の新聞が売り出され、ファンが購入し明日の競馬予想に用いる。不夜城、とまでは言わないが、美浦の中では過酷な部類に入る仕事ではないか、と常日頃から思っている朝川だったが、それでもこの仕事を自分から辞めようと思ったことは一度たりともなかった。もし辛いと感じた時には、入社した年のことを思い出す。
今も在籍している先輩、別の場所へ旅立っていった先輩。その全てが、競馬を心底愛し、全精力を注いで向き合い続けてきた人達だった。
「俺は、目指していた場所に辿り着けた!」
--そう心から思えたことを、朝川は今も忘れていない。
ただし、実際には「まだスタート地点に立っただけ」であることにすぐ気付かされたのだが。
ゴールはまだまだ遠い。というか、どこにあるかさえ未だ見えてこない。
競馬はブラックホールだ。向き合えば向き合うほど、答えなんて簡単には出せないと突きつけられる。散々悩んで、吐きそうになる程脳をこねくり回して出した結論が、ほんの2分足らずで全否定されることなど珍しくもないのだ。
競馬という巨大な渦にかかれば、自分の乗る小船など、あっという間に海の藻屑とされてしまう。
それでも、どうにかこうにかそこから抜け出すんだよ。そしてまた陸に這い上がって、船を組み立てる。その繰り返しだ。
煙草を吸い殻入れに押し入れた。休憩終わり。
必ず当てる。未来を捉えてやる。
必ずなんてない。それでもそう信じて、また予想ゲラの敷かれた机に戻るのだった。

その週末、朝川の◎は、見事に吹き飛んでいった。その馬は、オーディオワールドでもスイーツガールでもなかった。

       

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