Neetel Inside ニートノベル
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約束の地へ
第9話

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竹淵幸二郎厩舎。
中央競馬での通算勝ち星は1,000をゆうに超え、GⅠ勝利数も20に迫る、押しも押されもせぬ関東のトップ厩舎である。これでまだ、70歳の調教師定年まであと10年を残しているのだ。今後もこの記録は止まることなく更新され続けていくだろう。
朝川にとって、竹淵厩舎は「思い描く限りの理想の厩舎」であった。
強い馬がいる。それが一頭や二頭ではない。
たくさん勝っているということは当然経済力も磐石である。調教師の収入は主にレース賞金で得たものだが、配分は総賞金の10パーセントである。竹淵厩舎の今年ここまでの総賞金は17億円を超える。その10パーセントだ。そしてそれを20年近く続けている。
日々馬を管理する馬房の全てにクーラーや冷風扇がセットされ、与える餌も栄養バランスが極限まで考え抜かれた非常に高価なもの。水も水道水ではなく名水地から取り寄せたものを飲ませているなど、得た金を馬に還元することでさらに好成績を残すべく下地を作る。
そして何より、人材が揃っている。それが全ての礎であると、朝川は考えている。
競馬を離れた各種メディアにも露出があるほどの一般知名度とカリスマを誇る竹淵調教師が厩舎の看板としてどっしり座り、脇を古城を始めとした腕利きの調教助手がガッチリと固める。厩務員の名前も、数多の一流馬に携わってきた実績豊富な人間がズラリと並んでいる。
そして、今時珍しく、新人騎手も積極的に所属させている。新人は当然ながら技術的に未熟なことが多く、昨今のビジネスライクな馬主は一部の条件を除いてあまり歓迎しないことが多く、勝ち鞍ランク上位の騎手を乗せたがるものである。ただ、竹淵厩舎は新人が多少ミスをしても勝てるレベルの馬を多く預かっている。もちろん勝負どころでは有力騎手を使ってくるが、下級条件では所属の新人を重用し、結果を出させ、信頼を積み重ねていく。そうすることで「この子には大事な馬を任せられる」というコンセンサスが形成され、次第に大きなレースも任されるようになっていく。そうして新人騎手の「新人」が取れ、「一流」の冠がついていく。
そして今、昇り竜の如く勢いで超一流ジョッキーへの道を駆け上がっている者が、竹淵厩舎にいる。
安斎咲太(しょうた)。騎手としてデビューしてまだ5年目の若武者だが、すでに関東ジョッキーのトップを独走している。
競馬学校在学時からその才能は傑出しており、「10年に1人の逸材」として競馬メディアでは早くから騒がれていた。安斎は関東の安斎調教師の息子だが、父親の厩舎ではなく、チャンスはあるものの、所属騎手を多く抱え、その中での競争も激しい竹淵厩舎をあえて選択していた。
デビュー初日には、1日だけで4勝を挙げるという驚異的な活躍を見せた。リーディングの首位を走るような騎手が1日4勝ならそこまで珍しいことではないが、新人、それもデビュー初日に4勝は前代未聞のことだった。物事は初めが肝心、と竹淵調教師が張り切って初日に確勝級の馬を揃えたとはいえ、全くミスなく全て勝ち切ったのである。ある意味、この日だけで安斎の将来は約束されたと言っても過言ではなかった。竹淵厩舎内の競争を勝ち抜くことが、イコール関東ジョッキーのトップに立つことだった--それほどまでに、竹淵厩舎の存在感は関東で突出していた。

「今日の追い切りはどうでした?」
そんな竹淵厩舎の番頭格である古城とたまたま食堂で一緒になった。これを逃す手はないと朝川は質問をぶつけた。えてして、食事中の方が話は訊きやすいものなのだった。
「いつもどおりやった」
古城の言う「いつもどおり」は「何も問題ない」と同じ意味だ。
アリスを一瞥すると、多少緊張が窺われた。伊藤さんの親族なら厩舎関係者と接したこともあるかもしれないが、仕事にしてからはほとんど初めてになるんじゃないか、と朝川には思い当たった。
でも大丈夫だろう。古城さんは気さくだ。
「…また未来のダービー馬に乗ってまったわ」
古城は真顔でそう言った後に、破顔一笑した。
「またダービー馬乗ったんですか、毎週乗ってるじゃないすか」
朝川も合わせて笑ったが、アリスはぽかんとしている。
「わはは! マジメなお姉ちゃんやね! 2歳馬はみんな未来のダービー馬候補やから!」
そう言われて、やっと冗談の意味が分かったアリスも、ようやく本来の笑顔を見せて、ふふふ、と小さく笑い声を出した。

古城は滋賀県栗東市の出身である。栗東市は、中央競馬西の総本山、栗東トレーニングセンターを有する街だ。
古城もまた関係者の子として産まれた。関西の名伯楽として知られた古城調教師の長男として、当然のように父の厩舎に入って調教業務等にあたった。そして、父の定年に合わせて調教師試験に合格し、厩舎を引き継ごうとしていた。
しかし、古城は試験に落ちた。東大卒でも落ちることがある超難関の調教師試験、一生懸命に勉強したものの、結果として機会を逃してしまったのだった。十数年前のことだ。
父の厩舎の人や馬は、栗東の他厩舎に散り散りとなってしまった。古城自身も、気持ちを切り替え、身の振り方を考え始めた。調教助手としての手腕を高く評価されていた古城には多くの調教師が声を掛けてきたが、その中に関東の竹淵厩舎も含まれていたのだった。
調教師試験に落ちて名門厩舎の跡目を継げなかったということは、古城にとって拭いたくとも拭いきれない負い目となった。周囲からの視線が嫌でも気になる。それに、今日本で一番勝っている厩舎がどんなものなのかも興味があった。
いっそ、美浦に行くか--複合的な要因から、古城は関東移籍を決断したのだった。

「はっきり言って、こっちと関西とじゃ、クラシックを狙えるような馬の力差は歴然としとる。それは、俺が栗東と美浦、両方に籍を置いていた人間だから、よく分かるんよ」
言って古城はほうじ茶を啜った。思いの外熱かったのか、すぐにミネラルウォーターに手を伸ばした。
「…そら、ダート路線とか、短距離、あと古馬
のGⅠではウチの馬勝つよ。でも、クラシック……特にダービーは、なかなか勝てん。まあ、ウチの先生が、あまり急いて馬仕上げない方針ってのもあるんやけど」
いわゆるクラシックレース、皐月賞、日本ダービー、菊花賞の3歳三冠レース。そのうち皐月賞と日本ダービーは春に行われる。必然的に、仕上がりの早い早熟傾向の馬が勝つこととなる。
竹淵調教師は、早熟性よりも、完成時期は遅くとも、スケールの大きさや良血の外国産馬を受け入れることを優先しており、そうした馬達はクラシックには縁がない。日本ナンバーワン厩舎でありながら、日本最高のレースは未だ未勝利であるということは、競馬界七不思議の一つとして語られることがある。
そして、竹淵厩舎以外の関東の厩舎には、そもそもクラシックで勝ち負けできるレベルの馬があまり預けられないという現状もあった。それが「西高東低」と長年言われ続けている所以でもある。
「けどな」
古城は、確信を持ったかのような表情で、朝川を見た。そして言う。
「おるねん。ウチに。来年のダービー馬」
今度は冗談じゃなさそうだ、と朝川は直感的にそう思った。耳をそばだてて、古城の次の言葉を待つ。
「ザラストホース。こいつは、今までのとはちょっとモノが違う。乗ってる俺が言うんや、間違いない。安斎も『僕が今まで跨ってきた馬の中でも飛び抜けて最高や』言いよる」
安斎は美浦出身だから関西弁じゃないでしょ、と心の中で軽く突っ込みつつ、ザラストホースの名前を脳裏に刻んだ朝川だった。
「まだデビューもしてない馬でこんな大言壮語吐くなんてどうかしてる、と思うか? でもホンマやねん。俺も安斎も、もちろん竹淵先生も確信しとるよ。何もアクシデントがなければ、来年の日本ダービーを勝つ可能性が一番高いのはこの馬やって」
数多の名馬に携わってきたベテランの古城調教助手をここまで熱くさせる馬を、朝川は一度見てみたくなった。
「今週、東京の1,800新馬に登録しとる。出走できれば、必ず勝つ。競馬に絶対はないけど、ザラストホースには絶対があるよ」
出るのか、今週。
朝川は、胸が熱くなるのを感じていた。
新馬戦のある時期は、こうした威勢のいい言葉が毎週のように聞かれる。その言葉どおりの結果には、必ずしもならないものだ。期待馬が期待どおりに走らないから競馬は難しい。
ただ、言葉の主の質が違う。日本のナンバーワン厩舎の番頭の言葉である。信じる価値はある。もちろん、新聞各紙グリグリの◎、ファンの人気も一極集中だろうが、馬券から離れた興味が朝川に湧き上がってきていた。
「…楽しみにしてます。なぁ、アリス」
朝川は前に座るアリスにも同意を求めた。アリスは、心ここに在らず、という風情で居た。
「アリス?」
「…えっ? あ、そ、そうですね、楽しみです……」
アリスの様子に、朝川と古城は顔を見合わせた。
「…私、実は馬券買ったことがまだないんですけど、ザラストホースの馬券を買ってみます!」
雰囲気を察してか、必要以上に努めて明るくアリスは言った。
「おう、それはめでたいな! 初体験がウチの馬とは光栄や!」
古城とアリスはそう言ってお互いに笑った。朝川は、アリスの先ほどの様子が心に引っかかっていた。

       

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