Neetel Inside ニートノベル
表紙

約束の地へ
第17話

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 朝川はアリスを連れ立ってのディナーに、中山競馬場の最寄駅からほど近い中華料理屋を選んだ。朝川にとっては縁深い店だし、何よりこのくらいのバランスが丁度いいと考えたのだった。
「…朝川先輩のサイン色紙がありますね」
 場所柄、競馬関係者の色紙が並んでいる。朝川を含む『駿馬』トラックマンの色紙もその中に混じっていた。
 それにしても目ざといな、と朝川は思う。
「学生の頃のホームみたいな店でさ。ここのオヤジも競馬好きで、『駿馬』の愛読者なんだ。土日の昼時にはここに来て、メインレースの予想とかオヤジと話したりしてたな……」
 そう言いながら、昔の景色を呼び起こす。この店に入り浸っていなかったら、今の自分はなかったな、と、ぽつりとこぼす。
「思い出の店なんですね、先輩の……」
 ここには大事な記憶がある。来るたびに、思い出す。あの人の甲高い声を。今はもう会えない人のことを。
「…私の思い出は、先輩のように良いものではない気がします」
「ちょっと前から気になってはいたんだ。最近、お前、ちょっとおかしいよ?」
「…自分でもわかっていますよ。でも、なかなか気持ちが切り替えられなくて……」
 朝川には、薄々察しがついていた。あの日だ。ザラストホースの新馬戦の日。あれから、アリスは少しずつ違っていっている。あの馬にこだわり過ぎている。いや、馬そのものに対して、ではなく--
「安斎と昔何かあったか?」
「……」
「伊藤さんが想定班にいた頃、安斎厩舎の担当をしてた。家族ぐるみの付き合いだったってのは聞いたことがある。アリスもそこで何か--」
「それは関係ないんです」
 上ずった声で、アリスは明確に朝川の推察を否定した。目はずっと、テーブルの上の麻婆麺のまだら模様を追っているように、朝川にはなぜか思えた。
「…私は、咲太くん--安斎騎手のことをずっと忘れられずに、ここまで来てしまいました。思い出って、良いものもあれば、悪いものもあるもんですよね」
 苦々しい表情で、吐き捨てるように言っていた、こんなアリスは初めて見た。消化し切れていない想いがあるのだ、と朝川は確信した。
「でも、どっちかというと、嬉しいんですよ。彼が騎手としてトップを獲るのは当たり前だって思うから。彼が凡庸な騎手だとするなら、「じゃあ私は一体なんなんだ?」、って思うから。私が弱いからじゃない、って思えるから」
「あ、そうか……お前、もしかして、騎手になりたかったのか」
 朝川は、気づいたことをそのまま言葉にした。すると、アリスの顔が見る見る紅潮していくのが分かった。そして顔を覆って、テーブルに突っ伏した。
「…恥ずかしくないですか? そうですよ私は小学校の途中まで乗馬クラブに入ってて先生からは「伊藤さんは才能があるから騎手を目指すといいよ」なんて言われてめちゃくちゃ調子に乗ってたんですよそれを完全に打ち砕いてくれたのが後からクラブに入ってきた咲太くんですよ調教師の子供とはいえ乗馬は全くの初心者だった咲太くんはその時点で乗馬歴五年だった私をたった一週間で追い抜いていったんですよ同じ馬に乗っても圧倒的に咲太くんの方が上手く操縦しているのが明らかだったんですよ自信喪失しますよね? 辞めたくなりますよね? そこで乗馬は辞めて私は普通の小学生に戻ってそのままそれなりに過ごして大学まで進みました馬に関わることなんて考えることもなくでもある日耳に入ってきたんです母親から「昔乗馬クラブで一緒だった咲太君がジョッキーになってるんだって」とそりゃ観ますよね観ますよそしたらやっぱりすっごく上手くてああ天才だなってそしたらどういう感情の動きをしたかは分からないんですけど私も競馬に関わる仕事をしたくなってしまってけほっ」
「…水飲め」
 あまりにも息継ぐことなく喋り続けたアリスは、喉を潤すために麻婆麺の汁を掬って飲んだ。辛口の汁でさらにむせた。
「……………私ひどくないですか?」
「そうなっちまうくらい、お前にとってはしんどい記憶だって分かったよ。すまんね、気軽に口に出しちまって」
「私は咲太くんのことが好きなんですか? だから、彼と同じ世界に行きたくなってしまったんですか?」
「知らん。知らんけど……そんなに混沌とした感情になるくらい、安斎咲太のことを想ってるんだろうな、お前は」
 酒がなくても、ここまで思考が狂うのもすごい、と朝川はある意味感心していた。そして、その元凶となった安斎の技術はどれ程なのかと考えた。朝川には騎手の技術は全く判断できなかった。乗馬経験が皆無なのだった。
「…あの時、咲太くんと一瞬とはいえ言葉を交わして、同じ空間にいて、つい考えてしまったんですよ。「私が騎手になってたとしたらどこまで行けたんだろう?」って……」
 これに関しては断言できる、と朝川は思う。言ってやらなくてはいけない、とも思う。
「いや、お前はこの仕事で良かったよ」
「…え?」
「勝負師にはなれないよ、性格的に。そんなにウジウジ考えるメンタルじゃ一流にはなれない。安斎とは技術以前にそこが決定的に違うんだよ。騎手にならなくて良かったんだ。小学生の頃の判断は間違ってなかった、そうじゃない?」
 キツイことを言った、と朝川はアリスの表情を伺う。泣くか。泣かない。それどころか、笑った。子供みたいな笑顔だった。
「…ですよね! ハッキリ言われてスッキリしました! あらゆる意味で小さい私に騎手はムリです!」
「そこまで卑下せんでも……」
 アリスは憑き物が取れたように、のびた麻婆麺を啜り始めた。むせながらも楽しそうに見えた。あれから二ヶ月間ほど、誰にも言えずに内で織り重なっていた澱が一気に決壊して、気が楽になったのだろう。
 伊藤有栖は、単に笑顔の眩しいマスコットキャラではなかった。極めて人間臭い、グチャグチャとした感情を持った、一人の悩める女だった。朝川は、アリスを立派にひとり立ちさせたいという思いが自分の中でさらに大きくなってきているのを感じていた。
 自分語りするか、俺も。
「お前がそんだけさらけ出してくれたから、俺も少し自分のことを話したくなったよ」

       

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