Neetel Inside ニートノベル
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約束の地へ
第19話

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 水曜、追い切り後の厩(うまや)回り。たくさんの厩舎を抱える五島は、忙しく担当厩舎を駆けずり回っていた。
「先週は、ザラストホースが負けたのに驚きましたね。さすがに確勝だろうと思ってたので……」
 そう語ったのは渥美調教師。
「頭数が少なくなると聞いてたし、それなら賞金咥えて帰ってこれるな〜と思って気楽な感じで出したんですけど。三着は期待以上でした。遥か前の二頭は、多分本番でも勝ち負けするような馬だったと思うし、仕方ない!」
 前の二頭とは、シャインマスカットとザラストホースのことである。渥美調教師は少頭数で入着賞金を稼ぎやすいレースと化した寒竹賞に所属馬を使ったのだった。その馬の名はノーエネミー。『敵は無し』という意味合いの、勇ましい馬名が付けられたものの、デビュー戦となったダート短距離戦では圧倒的最下位となり、『目の前に敵が無し』とネットでネタにされた馬だったりした。
「デビュー戦観た時は、このまま何もなく消えていく馬かと思ってたけど、芝で変わったね。芝替わりでここまで走るようになる馬も珍しいよ」
 五島はノーエネミーに対する率直な印象を伝えた。渥美調教師はその苗字から『寅さん』と呼ばれているものの、年齢は調教師としてはかなり若い部類で、五島より一つ年下だった。五島がため口で、ざっくりとしたコミュニケーションを取れる数少ない調教師である。なお渥美清には全く似ていない。
「五島さんはウチの後、竹淵厩舎ですか? 多分、この件について訊いたら、竹淵先生すごく怒るでしょうね〜……」
 渥美調教師はそう言って、大袈裟に震えて見せた。他人事だと思って気楽に言って! と五島は心中で小突く。訊かないわけにはいかないのだった。
 実際、美浦の調教師の中で、ザラストホースの話はよく出てきていた。二歳GⅠである朝日杯フューチュリティステークスの勝ち馬や、他の世代重賞戦の勝ち馬を差し置いて、「ダービーはあの馬」と半ば諦め口調で語る厩舎関係者は、五島の周りだけでも多く存在していた。それは、ザラストホースが新馬戦で千切り捨てた他の馬たちが、その後のレースでことごとく好成績を残していることに由来している。
「あ、寅さん、今週のイチオシ馬は?」
 四ヶ月後のダービーを考えることも大事だが、俺の仕事は今週の紙面作りだ、と記者の本分を思い出した五島だった。
「リバーザキャット! ようやく馬が出来上がってきたのか、落ち着きが出てきましたよ。レースでもこの調子で行ければ初勝利上げられるかもしれません。相手も手頃ですしね」
「ウチの朝川トラックマンも気にしてる馬だし、単勝買うように言っときますわ!」
 ニッと笑って、五島は渥美厩舎を立ち去ろうとした。
「複勝とかワイドにしておいた方がいいですよ〜!!」
「あーあー聞こえなーい」
 渥美調教師の叫びが、冬の昼下がりの空に響いた。

 寅さんは歳下だし、性格的にも付き合いやすいから気楽で楽だ、と目の前の竹淵調教師と比較して思う五島だった。
 竹淵調教師は笑顔だったが、期待馬ーーそれも特大の--が敗れた後だけに、囲み取材を形成している五島と他の記者達も皆、それを額面通りに受け取ろうとはしていなかったというより出来なかった。
 地雷原を慎重に避けるのはしんどい。ならば初めからそこを通らないことが最善、とばかりに、今週の出走馬についての質問で場が収まりそうな流れであった。

『いやでもさ』

『分かってるけどさ』

『竹淵先生に今、あの馬の話を……』

『訊かなきゃいけないけど……ッ』

『『『『きっ……訊けねぇェェッ!!!!』』』』

 どいつもこいつもぎこちない笑みを浮かべて心ここに在らず状態でコメントを取っている。俺もその中の一人になっているけど、と五島は心中呟く。
 新馬戦以降、竹淵調教師のザラストホースに対するコメントの威勢良さは半端ではなかった。それだけに、二戦目でコケてしまったことは、とてもとても訊きづらい。
 だが。
「今週の七レースの--」
「ザラストホースの前走、竹淵先生はどのように評価されていますか?」
 意を決した五島は、他紙の記者の発言を遮って、遂に禁断のワードを発した。ザラストホース。今一番竹淵調教師の耳に入れてはいけないと考えられている言葉である。
 こいつ何言ってんだ! と五島以外の記者に激しい動揺が生じた。極一部の記者は、いいぞ駿馬の! と喝采を送っていたが。
 こういうのは俺がぶっこまないと。普通の記者なら干されるかもしれないけど、俺は五島調教師の甥で、赤ん坊の頃から競馬サークルの水しか飲まずに育ってきた人間だ。だからこそ、ぶっこめるのは俺なんだ。あの馬について訊かないとかあり得ないだろ。
 五島には五島なりの、競馬に対する矜持があった。競馬はエンターテインメントだ。ファンがいて成り立つものだ。ファンが欲しがる情報を仕入れて伝えるなんて当たり前のことだ。
 竹淵調教師はといえば、表情には笑みが残っているものの、佇んでいるのみという風情で、そこから景色の変わりそうな気配は微塵もなかった。張り付いた表情の裏に何が潜んでいるのか、記者達は戦々恐々としていた。
「…全く問題ない。馬も鞍上もパーフェクトなレースをした。ただ、あの日のあの条件に限り、ウチのを上回る馬がいたということに過ぎない。中山に問題があるとは一切考えていない。この後は放牧に出して再度調整し、弥生賞を目指す。賞金は足りないが、弥生賞は過去十年で一度もフルゲートになったことのないレースだ。賞金の壁はない。出れば勝つ。出るレースは全部勝つ。ビジョンとしてはそれしかないね。無敗ではなくなったが、今の段階でああいう負け方ができたことで得られるものは多いよ」
 短い息継ぎでまとめて言い切って、竹淵調教師は呼吸した。流石に辛かったようだ。
 五島は手応えを感じていた。今のコメントの中に、今後のザラストホースについてたくさんの情報が詰まっていたからだった。
『中山が苦手とは考えていない(=皐月賞をスキップしない)』
『放牧に出す(=外厩で再調整)』
『負けたことで得られたものがある(ここは様々な解釈ができる)』
 得られたものとはなんだろう、と五島は素早く考える。先行して負けたことか。負けたが、追い込み一辺倒の馬ではないことが分かったことが収穫ということか。直線でしか脚が使えない、不器用な馬ではないということ。先行は合わなかったが、追い込み以外の戦術も使えることが分かった。中山で追い込みしか出来ないのでは勝つ確率は下がる。直線に入るまでに、ある程度先頭に近いところを走っていた方が、当然勝ちやすい。
「…新馬戦よりは、良い位置でレースを進められるメドが立ったということですか?」
「そうだね。それが分かった上で、人間がどう馬に合うやり方を見つけられるかにかかっているだろうね。それは出来ると思っている」
 東京の日本ダービーは、新馬戦のような競馬でも良いかもしれない。だが、中山の弥生賞と皐月賞では、出足を使ってもう少し前目で競馬を進めるということか。あるいは、三コーナー手前あたりから捲って位置を上げていくか。五島の中でレースの映像が創り上げられていく。
「予定は崩れたけど、後で振り返って『必要な負けだった』と言えるようにしたいと思います」
 安斎咲太。視認した途端に、五島の思考にノイズが混じった。
「というか、言えるはずです」
「…今回負けたシャインマスカットや、来月出てくる予定の脚質的に被るマイジャーニー、それに、関西馬にも強いのがたくさんいますが、その辺りはどう捉えていますか? 安斎騎手」
 冷静になろう、とプロとして務めているが、少しだけ強い言葉になってしまっているかもしれない、と五島も感じてはいた。感じてはいたが。
 アリスの姿が浮かんでしまう。あの日、検量室前で安斎の名を呼び、頬を赤らめていた時の姿が、そればかりが焼き付いて離れない、そんな自分の意識に気付いてしまって、抑えようとしても完全には出来なかった。
 安斎は五島の顔を見上げて、顎に手を当てて考える素振りを見せていた。うーん、と声を漏らしてから、
「…まあそりゃあ、強いですよね。今名前が出た馬は全部。良いレースになるんじゃないですか? 今回シャインマスカットに負けるとは思ってなかったですけど、実際負けてるわけだし。とにかく、こっちとしては、同じ轍を踏まないようにするだけです。ザラストで全部勝ちたい、勝つという気持ちは、竹淵厩舎の共通認識です」
 競馬は難しい。それは、一レースに最大一八頭もの馬が同時に走り、レース展開も毎回変わるからだ。どんな展開でも力を出し切れる馬もいうのは、そんなにはいない。
 常勝などというのはあり得ないのに、この自信はどこからくるのか?
「春に向かって高めていきたいですね。馬はもちろん、人間もね」
 安斎はそう言って、口角を歪ませて笑った、ように五島からは見えた。

       

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