Neetel Inside ニートノベル
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約束の地へ
第34話

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「…うーん……」
 競馬専門紙『駿馬』美浦支局内。競馬関係者の休日である月曜日だというのに、朝川征士は自身の席でパソコンに噛り付いていた。
 今週はとにかく時間がないのだが、その主要な原因が、初めて経験する海外競馬の予想なのだった。香港はシャティン競馬場で日曜に行われる『クイーンエリザベス二世カップ』。芝二千メートルの国際GⅠであり、日本馬の出走があるため、ネット限定で馬券が発売されることになったのだった。
 日本はこれまで海外レースの馬券を売ることをしてこなかったが、競馬法の改正により、日本馬の出走する一部のレースを売ることが可能になった。
 そこで当然問題になってくるのが、圧倒的な情報不足であった。普通の競馬ファンは、日本馬のことはよく知っていても、海外の馬のことなど知らない。余程突出した成績を残している名馬の名前をかろうじて知っている、くらいのものである。これまでのように、馬券を抜きにして、勇躍アウェーで挑む日本馬を応援するだけならば、そこまでの情報も不要であったが、馬券を売るなら話は全く変わってくる。
 情報を出すのは誰か。それは、競馬メディアである。競馬メディアとは、競馬専門紙であり、競馬ウェブサイトであり、中央競馬専門チャンネルである。そうした時代の変化に対応すべく、駿馬もネット版限定で海外レース用の新聞を新たに発行している。さらに、朝川は『ライフ・ホース・オン』という中央競馬専門チャンネルでのテレビ番組にレギュラー出演している。番組内でも、香港国際競走は当然のように取り上げる。それを考えれば、たとえ試験勉強の一夜漬けのようなものだとしても、出走予定馬の情報は頭に叩き込んでおかなくてはならない。日々の業務をこなしながら海外競馬までフォローするのは流石に厳しく、休日を使う他ない状況に陥っていたのだった。
 でも、新鮮だ。朝川は目薬を一滴垂らして、目を瞬かせた。潤いが蘇り、再びモニターに一点集中する。
 ネット時代は便利で、香港のレースも少し探せば動画が見つかる。地元香港馬の競走成績などのデータは編集が揃えてくれるが、動画は自分で探すしかない。日本馬のライバルとなる地元馬の実力確認と同時に、シャティン競馬場の特徴も考えながら参考レースを確認していく。
 このコース、過去に日本馬の好走実績が多数ある。香港の強豪馬は千六百メートル以下に良績が集中しており、中距離以上は日本馬が優勢。これが年末の香港カップや香港ヴァーズであれば、シーズンオフの欧州馬が参戦してくるため簡単には勝たせてもらえないが、四月末のクイーンエリザベス二世カップでは参戦馬がほとんどいない。ヨーロッパのシーズンも盛り上がってくる時期ということがあるのだろう。
 ただ、ここまでの情報と映像を確認している限り、今年はどうも様相が異なるように朝川には思えてならなかった。
「…強いな」
 朝川の目に留まったのは、ストレインという名の香港馬。現在の香港中長距離界の盟主と呼ばれているそうで、昨冬の香港カップも完勝していた。そのレースには日本のGⅠ馬も出走していたが、歯牙にも掛けない圧倒的な勝ちっぷりを披露していた。
 この馬が万全で出てくるなら、苦戦は必至だろうと思われた。ただ、大本命馬に素直に◎を打つのは朝川の流儀ではなかった。
 とはいえ、日本馬に◎を打つのもどうなのか。このレースのオッズは現地のオッズとは異なり、日本国内独自のオッズが形成される。ということは、日本のファンは日本馬を中心に買う割合が高くなる。つまり、日本馬は馬券的に美味しくなくなる。さすがにストレインが人気になるだろうが、日本馬はそれに次ぐ人気になるかもしれなかった。
 ◯は迷いなくストレインに打つ。そして、◎は、ストレイン以外の香港馬から。そう決めた。
「ストレインは後ろから行く馬だから……本命は、それより前で立ち回れるタイプか」
 レースは少頭数。わずか九頭立てなので、ペースが速くなるとも思えない。とすると。
「…ゴールドスター」
 これだ。朝川は手元のデータに目をやる。
 前走十着。大きな着順になっているが、前々走は香港ヴァーズ芝二千四百メートルで逃げ切り。本来の力を発揮出来れば、地元馬ではストレインと双璧だろう。ただ、やはり前走の負けっぷりで人気を落としそうだし、本来のこの馬の適性から考えれば、距離も若干足りないかもしれなかった。
 --決め付けてはいけない。朝川には確信めいたものがあった。この馬のベストは、この距離だと思った。香港ヴァーズは騎手のエスコートが光った。後続を突き放すタイミングが絶妙で、直線を向いた頃には勝負アリというところだった。ただ、逆に考えれば、仕掛けどころを誤ればこんなに大差では勝てていない、ということでもあった。前走の大敗は乗り替わった騎手があまりにもスローペースで運び過ぎて、足の溜まった後続馬にまとめて呑み込まれて戦意喪失したのが理由であった。
 二千メートルなら、スピードに任せて押し切れるのでは? さらにこの少頭数だ。道中ピッタリとマークされると脆そうだが、後続はストレインを主にマークすると考えられるため、逃げ馬にはあまりプレッシャーが掛からなさそうなのも好感が持てた。前走の騎手がそのまま継続するので、リベンジを誓って今度は勝ちにくるだろうと思われるのも、朝川の背中を押した。
 馬券は、ストレインとゴールドスターの馬連ワイド。あとは、どのようなオッズになるか。オッズが読みづらいのも海外競馬の面白さだな、と思いながら、朝川は海外競馬版の紙面に掲載するゴールドスター推奨コラムに手を付け始めた。
 その矢先だった。ドアの開く音がして、小柄な女が編集部に入ってきた。
「どうもお疲れ様です!」
「どうした、アリス。せっかくの休みなのに仕事か?」
 入ってきたのは伊藤有栖。駿馬で一番フレッシュなトラックマンである。
「いえ! また馬に乗ってきまして、近くにきたもんだから寄ってみようと。センパイ、今週超忙しいって聞いてたので、多分いるんじゃないかと……」
「ヤバイよ、通常の三倍の仕事量だ」
 三倍は盛り過ぎじゃないですか!? とアリスは吹き出した。その姿を見て、朝川はジェネレーションギャップを否応なく感じさせられた。
「…まぁ、五割増しくらいかな」
「それでなくてもセンパイは忙しいですもんね〜。あ、忙しいところ大変申し訳ないんですが、一つご報告が……ヒミツですよ?」
 なんだよ、と訝しげにアリスを眺める朝川。クネクネしていて、ちょっと可愛く感じてしまったが、言うのもシャクなので黙っておいた。
「五島センパイと付き合うことになりました」
「ええ〜っ」
「リアクションうすっ!」
 全く驚かなかった。最近の仲の良さから、むしろ付き合い始めるのが遅すぎたくらいだと朝川は思っていた。それでも礼儀というものがあろう、と朝川は両手を上げて薄く驚いて見せたのだった。
「乗馬行ったあたりから、良い感じだったからな。いや、よかったよかった、ハッピーで」
「なぁんだ、つまんない……あ、他の人にはまだナイショですからね! いろいろやりづらくなりそうなんで!」
「ええ? 面倒臭いな……いつまで?」
「うーんと、入籍するまで?」
「にゅ!?」
 それはさすがに驚いた。そこまで話は進んでいたのか、と。
「…センパイ、私今ちょっと萌えました」
「それ意味が分からない。入籍……早くないか。いや、お互いがいいなら構わんと思うけど……大人同士だし……」
 時に事態は急速に動く。それでも、朝川の常識に照らせば、二人の決断は異常に思えてならなかった。
「別にいつ入籍とか決めてないですよ。ただ、ゴシセンパイも年齢が年齢ですし……子供も欲しいと仰いますので、諸々の事情を勘案しますと、何事も早め早めがよろしいのかなと」
 いつになくアッパーなテンションで入ってきたと思ったら、今度はやけに丁寧な物言いになった。どうやら心が波立っているようだ。
 そりゃあそうか。彼と彼女の人生が、今日、大きく変わり始めたのだ。落ち着けるわけがない。朝川は柔和な笑みを浮かべ、言う。
「…女性トラックマンは、どうしても婚期を逃しやすいんだ。お前もしばらく勤めて感じてると思うけど、とにかく忙しいから。だからこそ、ゴシが『これと決めた相手』に相応しいなら、結婚するといいと思うよ。たださ、野暮と思いつつ一個だけ確認したいんだけど……」
「どうぞどうぞ」
 前にアリスから相談されたことを思い出して、訊いてみたくなった。後悔を残して結婚して欲しくないと思ったのだった。アリスにとっても、五島にとっても。
「アリスにとって、安斎ジョッキーってどういう感じなの? 尊敬の対象? それとも……好きだったりした?」
 我ながら、ヘタクソな訊き方だ。こういうのは苦手だ。でも、訊かずにはおれなかったのだ。
 アリスは一瞬考えるような表情になったあと、くいっと口角を上げた。
「心は変わるものです」
 よし。
「おめでとう。なんか、俺までやる気出たわ」
 休日出勤で若干疲弊していた心身が、嘘のように回復しているのを感じた。それは思い込みかもしれないが、心の有り様によって左右されるのも、また確かだ。
「…ところで、奥さん、そろそろ出産ですよね? 休みも働いていて、大丈夫なんですか?」
「…安定期だから、まぁ……うん……大丈夫……かな?」
 大丈夫じゃなさそうですね、と言い残して、アリスは立ち去っていった。
 コラムだけ仕上げて、早く帰ろうと決めた。
 それにしても、競馬の中も外も、これから色々なことが起きそうだ。競馬の祭典・日本ダービーまで、あと一ヶ月を切っている。

       

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