Neetel Inside ニートノベル
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約束の地へ
第36話

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 朝川が気の置けない人物と飲みに行くときは、思い出に深く残る、"いつもの"中華料理屋だった。
「ほんと、アサちゃんはブレないよなー、何年経ってもさ」
 林は笑って、生! と店員に向かって人差し指と中指を立てた。それ、リンさんだって変わらないじゃないですか、と朝川は言いたくなった。
 リンさんと食事をともにするのも何年振りだろうか、と思い出そうとする。少なくとも、結婚前だっただろう。とすると、もう軽く七、八年はご無沙汰だったか。
 懐かしい。大学時代は毎日毎日競馬の話ばかりしていた。講義などより遥かに真剣に、迸るような熱量で。高校の頃から競馬はよく見ていたが、三年間趣味の合う友人は見つからずじまいだった朝川にとって、人生で初めて出来た趣味を共有できる存在が一年先輩の林だった。
「ここは、アサちゃんのはじまりの店だもんな、当然色紙もあるわな!」
 店に飾られた朝川の色紙を認めて、林はそれを指差しながら笑って言った。
「いや、まぁ、そうですけど……でも、リンさんが俺より一年早くこの業界に入ってくれたから、ってのもあったと思うんですよ。それがなかったら、まず前提としてトラックマンという職業がこの世にあることを知るのが相当遅れてたんじゃないかな、と……」
 これは本音だ。朝川がトラックマンになった直接的なきっかけは、この店の店主と、当時の駿馬関東本紙担当だった庄田誠治が親しく、『競馬好きのバイトの兄ちゃん』だった朝川を庄田が気に入って世話したことである。ただ、林が先だってトラックマンになっていたことで、庄田とのやり取りの中で疑問が頭をもたげるようなことが少なくなっていたのは確かだった。
 ふうん、と鼻を鳴らしてから、口を開けて麦酒を流し込む林。一気に飲み干すと、かァ〜ッ! と内腑に溜まった澱まで吐き出すかの如き勢いで息を外に押し出した。
「…オレも少しは競馬界に貢献出来たのかね? 朝川征士という優れたトラックマンを世に出すほんの一助になれたって意味でさ」
「そんな……買い被りですよ」
 朝川が手をぱたぱた振りながら言った次の瞬間、林の導火線に火が点いた。
「いやいやキミね、そんなこと言って自分を過小評価し過ぎじゃないかい? ていうか飲みなよ! あのさァ、いちトラックマンがだよ、ラジオ解説ならまだしもテレビで毎週競馬の話できるポジションまで達するって、もうその道極めつつあるようなもんなんだからね? ラジオはさ、要するに駿馬が新聞の宣伝兼ねて番組スポンサードして枠買って自社のトラックマン送り込んでるっていう客観的事実もあるわけじゃない。ウチの社も当然そうだしさ。どこもやってることさ。でも、テレビはそうじゃない。中央競馬会の誰だか知らないけど、きっとそれなりに力のある人に認められてないと決して辿り着けない場所にキミは今立ってるワケ。そこは自覚しとかないと!」
 リンさん出来上がるのはやっ! そう朝川は面食らいつつも、でもきっと間違ったことは言っていないんだ、リンさんは、とも思うのだった。
 俺は今、他のトラックマンが望んでも手に入らないような環境に身を置いているのかもしれない。真っ赤な顔をした林に改めて言われたことで、朝川は身震いしているのを感じた。
「アサちゃんはスゴいんだから、本当に……オレなんかと違って……」
 それにしても--どうしたんだろう?
 リンさん、こんなキャラだったっけ。なんだか妙に卑屈というか、自信なさげというか。朝川の記憶の中の林は、もっと豪快で、自信に満ちた、頼りになる兄貴分だった。オレなんか、などと口が裂けても言わなかった。
 朝川も続いてビールで喉を湿らせ、疑問をぶつける。
「…リンさん、なんかありました?」
「なんかあったかと言われれば、ないね。何もなかったよ」
 何もなかったとは?
「…何もなかった。オレには」
 只ならぬ様子の林に対してどう声を掛けていいものかと思案する朝川だが、答えを導き出すには、ここ数年の林の情報が足りなさ過ぎた。
 実際問題、『紙の競馬』において、林の存在感は徐々に小さくなっていっていた。情報をわざわざ取りに行かないと、目にも耳にも入ってこないくらいに、である。
 予想欄も欄外に移り、文字のポイントも小さく、一瞥しただけではどこに林の予想が載っているか分からなかった。数年前までは、馬柱上の中心に載っていたのことを踏まえれば、明らかに格下げされているのだ。
 悩みの源泉は、それなのだろうか?
「…そんなことないですって! リンさんは大学時代、ウチらの誰よりも的確に勝ち馬を見つけ出してきたじゃないですか。俺は、リンさんに憧れていたんですから、何もないなんて言わないで下さいよ……」
「…見えないんだよね。見えるのは、そうだねえ……闇、かな?」
 このまま寝てしまうのでは、と心配になるくらい、林はテーブルに顔を近づけて続ける。
「紙面でもプライベートでも……闇だらけさ。バランスを欠いてるっていうか、ね。いつからか忘れちゃったくらい前から、歯止めがかからないまま今に至っててね。辛いよ、なかなかね」
 林の言葉に耳をそばだてながら、朝川は想像する。
 心のバランスを崩しているのでは。
 紙面上の予想が当たらないことで社内の評価が下がり、自分は役に立たないと心が落ち込み。馬券が外れ続けることで、金銭的にも苦しくなり--
 そういえば、リンさんはかなりのギャンブラー気質だった、と思い出す。勝つときは大勝ち、負ける時は大負けを繰り返していたっけ。その姿にも憧れつつ、他人事ながら背筋が凍る思いもしていた。
 競馬は間違いなくギャンブルだ。スポーツとしても当然素晴らしいと思っているが、でも、ギャンブルだ。馬券だって一〇〇円から買えるが、その気になれば一レースで一〇〇万円注ぎ込むことだって簡単だ。ほんの二分足らずで一〇〇万円を紙クズにすることも、同じように。
 そこは深くは訊かない。訊く気はない。もし本当にそうなら、ここで救いを見出せないからだった。それはもう、本人が解決すべき問題だ。
 朝川は、一日一万円負けたら、その日はもう手を引くことにしていた。そう自分の中で線を引いておかないと、いずれ大変なことになるであろうと分かっていたからだった。この世界、みんな涼しい顔をしていても、その実多額の負債を抱えているような人も決して珍しくないのだ。
 競馬はそれほど難しい。そして、それほどまでに楽しく、袂を分かちがたいものなのだった。
「…今、唯一、光というか……まぁ、光というのも大げさというか、救いになりそうなことがあるんだけど」
「あ、ホントですか! そうそう、そういう話が聞きたいんですよ、リンさん!!」
 想像はあくまでも想像である。杞憂に終わるのが一番。想像よ、妄想であれ--そう期待した朝川の声は自然と大きくなったのだった。
 だが、朝川の淡い期待は、無慈悲にも裏切られる。
「…父親が倒れてね。うちは群馬の山奥でうどん屋をやってるんだけど、いよいよ立ち行かなくなってきたから戻って手伝ってくれないかと、言われてね……親父もなんとか仕事を教えられるくらいまでは回復してきていて、これから俺に徹底的に仕込むって、言うんだよね」
 リンさんが、故郷に戻る?
 群馬の山に篭って、愛憎渦巻く競馬から離れて、割烹着を着てうどんを打ち続ける?
「いいんですか、それで」
「…渡りに船だなって思ったんだ」
「いいんですか」
「とにかく一度、オレは自分自身を見つめなおさなきゃいけない、生き方を改めなきゃならない……そう思っていたところだったから。正直、神様は見てるのかなって。無宗教だけど、不思議とそんな風に思ったな」
「…リンさんがそう望んでるなら、いいんじゃないですか……」
 寂しいですよ、悲しいですけどね。でも、いいんじゃないですか。あなたが救われるなら。ただ、俺は--
「…仲間が減るのは、身が引き裂かれるようですね」
 二の句が告げずにいた朝川は、ようやくそれだけ絞り出した。林は、朝川の言葉には直接触れずに、乾いた笑みを浮かべて言う。
「まともに打てるようになったら連絡するからさ、食べにきてよ」
「…そうですね、生きてさえいれば、また」
 --どこかで会える。
 今は、そう思うしかないと思った。
「これで、トラックマンとしては思い残すことないよ。最後に、アサちゃんとサシで飲めたから--なぁ、アサちゃん」
「はい」
「キミは、ずっとこの世界にとどまっていてくれよ。この先、どんなに苦しいことがあったとしても、踏ん張って、オレみたいにはならないようにね」
 はい。
 朝川は、残りのビールを一気に飲み干して、生! と店員に向かって人差し指と中指を立てた。腕を戻した際、努めてさり気なく両目を拭って、食いましょう! と餃子に箸を伸ばした。

       

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