Neetel Inside ニートノベル
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約束の地へ
第3話

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茨城県稲敷郡美浦村--茨城県において現存する村は、原子力関連施設や火力発電所を有する東海村と、もう1つ、美浦トレーニングセンターを抱える美浦村のみである。
東海村はそれら施設の固定資産税等で極めて健全な財政状況となっているが、美浦村もまた【競馬村】と呼ばれ、1978年の美浦トレーニングセンター開場以来、優秀な成績を残した競馬関係者が納める多額の税金によって強い財政を堅持している村であった。
関東の競走馬とそれに携わる人々が煌びやかな舞台で躍動するのは、東京都府中市の東京競馬場や、千葉県船橋市の中山競馬場などが主であるが、彼らが日々を過ごし、その力の下地を作っているのは、競馬場ではなくトレセンである。

中央競馬の開催が行われるのは基本的に土曜日と日曜日の週2日間。レースに臨む競走馬が追い込み練習--いわゆる最終追い切りを行なうのは、厩舎や、馬の個性にもよるが、概ね水曜日の早朝となっている。
競馬専門紙『駿馬』のトラックマン、朝川征士は、調教の時計を採り、また時計のみでは計れない、馬の調教時の様子や状態を含めて、短評という形で紙面に反映させ、ファンの馬券購入の一助とすることを職務とする【時計班】に配置されている。そして、それと並行して、いくつかの厩舎の担当となり、その週の担当厩舎の出走馬や騎乗騎手等の情報を把握・整理し、またレースに臨む気構えや馬の調子、勝負への自信といった直接的に馬券に繋がるコメントを取る【想定班】の役目も負っていた。時計班と想定班という2つの仕事を兼ねているトラックマンは珍しく、朝川は他社のトラックマンの間でもちょっとした有名人となっていた。
水曜追い後の怒涛の短評打ちを終えた後、昼食、一服、仮眠、とルーティンのようにこなした朝川は、午後3時を過ぎた辺りで、いつものように美浦北に位置する柿田厩舎にやってきた。
眠いは眠い。先週日曜は、土曜メインレースの仕返しとばかりにGⅠ天皇賞・秋を▲◎で的中させ、馬連6,820円のスマッシュヒット。紙面予想だけではなく実馬券でも快勝し、職場の先輩後輩と明け方近くまで飲み歩いた。休日の月曜はダメージを癒すために、妻のおろしてくれたリンゴを啜るだけで終わってしまった。そして火曜は鎌ケ谷の自宅から車を飛ばし昼過ぎに駿馬美浦支局に到着。その後は先週のレース結果を収めた資料の作成、レースVTRの見直し、結果分析等々、まとまる頃には日付をまたぐかまたがないかといった時間になる。そして、水曜早朝に起き、坂路調教コースの時計採りと、自業自得の面もあるものの、全体に睡眠時間は確保しづらいスケジュールであった。
それでもいざ取材対象の目の前に立てばそんなことを言ってはいられない。柿田厩舎は老舗厩舎ではあるが、今再び有力馬が集まってきており、先週の天皇賞・秋では朝川が柿田調教師から得た情報を信じて本命印を打った伏兵の馬が際どい2着となり、朝川に貴重なGⅠ的中をもたらしてくれてもいた。それもあり、朝川はお礼の栗最中を柿田調教師に渡した。
「朝川くん、いいのに毎度毎度……」
そう言いながらも柿田調教師の顔はほころんでいた。栗最中に目がないのだった。
「いえ、天皇賞は獲らせてもらいましたから!」
「そうかぁ、良かったね。でもどうせ、その日のうちに使っちゃったんだろう?」
図星だった。ははは、と笑って朝川は頰を掻いた。それにしても、である。柿田調教師は優しい人だ。朝川は、会うたびに人間性に惹かれるようになっていた。勝負師としては穏やかだし、そのおおらかさが昨年までの十数年間の成績低迷にも繋がっていなくはないのかもしれないが、どんな時にも朗らかな笑みを絶やさない柿田調教師には、成績の出ない辛さを感じさせない芯の強さがあった。
そんな好人物にも、時には訊き辛いことを訊かなければならない仕事である。
「…それで先生、今週なんですが、重賞にシャインマスカットで臨みますね。ズバリ、勝算はありますか?」
担当厩舎との関係はもちろん良好に保つべきで、それは鉄則とも言えるものである。ただ、腰が引けた記事は、読者にも伝わる。
「もちろん。福島の新馬は快勝だったからね。東京の長い直線がどう出るかはなんとも言えないところはあるけど、仕上がり自体は久々としては相当良いから、期待を持っているけどね」
「登録馬も少ないので、新馬のように上手くゲートを出られれば、あまりごちゃつかずスムーズに先行できそうですが」
「そうだね、理想は誰かが行ってくれて、それを番手でマークして直線抜け出す競馬だろうね。福島の小回りをこなしたように、器用さもある馬ですから」
それでも、柿田調教師の前で、彼の名前を出すのは勇気がいった。
「…東京替わりということで、末脚自慢が何頭か出てきます。中でも、マイジャーニー……先週の天皇賞も勝った紺田騎手を鞍上に据えてきましたが、それはどうでしょう?」
紺田。その名を出した途端、それまで柔和な笑みをたたえて受け答えしていた柿田調教師の表情が一変した。
柿田調教師は、騎手としての現役時代は『鬼の柿田』と呼ばれ、後輩が不始末をしでかせば、鉄拳制裁も辞さないところがあった。先輩トラックマンからも、昔話としてよく聞かされていた朝川は、初めてその片鱗を『仏の柿田』から見てとっていた。
それでも、柿田調教師は極めて冷静な口ぶりで、努めて平静を保って言った。
「マイジャーニーは、強いと思うよ。確か今年最初の新馬戦を最後方から追い込んで勝っていたよね、東京の。今回も同舞台だし、強敵の一頭とは見ている。ただね……ウチのも同じだけど、新馬とは相手が違うし、紺田"騎手"は昔から馬を動かせる騎手ではないから」
冷静に、そして突き放すように。馬を動かせる騎手ではない、すなわち、追える騎手ではないと、紺田を酷評した。
「…最後のは、書かないでくれよ」
そう言って、最後に再び笑みを取り戻し、柿田調教師は厩舎へ踵を返した。
午後3時過ぎとはいえ、秋の冷たさは変わらない。それなのに、朝川の額には一筋の汗が伝っていた。
紺田騎手にも話を聞きたい。伝聞ではなく、直接--朝川のトラックマンとしての本能が疼き出した。

       

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