Neetel Inside ニートノベル
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関東どんべえもたまにはいいよね
短い対談 

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 キッチンでお湯を沸かす。
 実は私はブラックコーヒーが苦手だ。どうにもあの苦みと渋みにしたが慣れることはない、若干の拒否反応と嘔吐感が同時にこみあげてきて、今すぐにでもコップの中へ吐き捨ててしまいたくなる。もちろん、家の中でもそんなことはしない。汚いし、はしたない。それに滅多な事がないとブッラクコーヒーを飲むことなどないからだ。
 だが、今日だけは別だ。
 特例中の特例だ。
 私の目の前にいる男性が心の芯まで熱くなるような、そして絶望的なまでに苦いコーヒーを飲みたいのだと言ったのだ。そしてさらにそれを私も飲むようにと言った。私はそれを拒否したかったが、どうにもそういう訳には行かなかった。自分に選択肢などなかったし、彼はもとより選択させるつもりもなかった。
 しょうがないので私は豆を挽いてコーヒーを作り、それをコップにかぶせたフィルターに入れ、上からお湯を注ぐ。ただのお湯ではない、熱々のお湯だ。湯気だけでも火傷してしまいそうなぐらいの。もちろんそんなことはないのだが
 私はこうしてコーヒーを作ることを楽しみにしていた。さすがに豆を挽くときは電動の機械を使うのだが、その時に家中に響くあの鈍い音が大好きだ。胃の下にあるどす黒いものがそれで浄化されるよう、私の姉は「この音はあまり好きではない」と言ったが、そんなこと関係ない。私にとってこの音はかけがえのないモノなのだ。誰にも理解されなくていい。
 いや、それは嘘だ。
 理解されないことが分かっているから、諦めているだけだ。
 二つのコップに並々と注がれた漆黒の液体。それはまるでその奥から腕が伸びて、自分のことを深淵へと誘いこもうとしているようだったが、そんなことはなかった。当たり前だ。これはただの「ブラックコーヒー」なのだ。少なくとも、今の時点では
 でも、仮に今、私が目を逸らした瞬間にこのコーヒーがコーンスープになり、再びそれを目にした瞬間にコーヒーに戻ったとして、それを知覚することはできない。試しに目を逸らして、顔を戻す。
 そこにはただのブラックコーヒーがあるだけだった。
 少なくとも、見た目では

 私は両手に一つずつカップを持って、彼の手に直接渡した。持ち手ごしとはいえ、そのカップが放つ熱気は中々の物だった。早く手放して、その苦しみから解放されたかった私だが、彼は非常に意地が悪かった。
 なぜだか分からないが、そのコーヒーをすぐに受け取ることなく、暑さに震える私の手を見つめながら、こう呟いた。
 「果たしてそれはあたしが所望したブラックコーヒーなのかね?」
 またその話か
 いささか辟易しながら、私はこう答えた。
 「そう思います。少なくとも、僕の目にはそう映っていますが」
 「君の目にどう映っているかはそこまで問題ではない」
 君の目にどう映っているかはそこまで問題ではない。私はその言葉を頭の中で何度も反芻する。空っぽで脳みその詰まっていない頭の中をその一言はカランカランと淡い音をたててゆっくりと意識の深淵へと向かって落ちていく。そしてやがて、それは足りないパズルのピースがきっかりとあてはまるように私の一部になるはずだった。
 彼は私のそんな様子を見て、ようやく納得したようにそのコーヒーカップを手に取った。私は彼がそのままそのコーヒーを口に運ぶものだと思っていたが、違った。彼は何の躊躇もなく目の前の机に音をたてながらカップを置いた。それを見て、私は言いようも知れぬ苛立ちが込み上がってくるのが分かった。
 誰が熱いブラックコーヒーを所望したいと言ったのか、自分はこれっぽちも飲みたくないのだ。
 「なぜです?」
 「何?」
 「なぜコーヒーを飲まないのです?」
 「なぜコーヒーを飲まないか」
 オウムのように言葉を繰り返しながら、彼は首を傾げる。
 傾げたまま、その疑問に答える。
 「あたしはコーヒーを飲みたいなどと言っていない。あたしは熱いコーヒーが欲しかっただけだ。それがここにあるという事実だけで十分なのだ、いや、正確に言うと違うな。君とあたしでこのコーヒーを共有しているという事実だけが必要なのだ」
 「なぜ?」
 「なぜ」
 「そう、なぜです?」
 「単純だ。本来、君とあたしは相容れぬ存在なのだ。このコーヒーを通じて君とあたしは繋がっているのだよ」
 「なぜ熱くなければいけないのですか?」
 「なぜ熱くなければいけないのか」
 「そう、なぜです」
 「それも単純だ。この熱いコーヒーが冷えたコーヒーになった瞬間、君とあたしを繋いでいる物はこの世から消失してしまう。あぁ、君の言いたいことは分かる。熱いコーヒーも冷えたコーヒーも同じようなものだと思っているのだろう。分からなくはないが、違う、全く違うのだ。概念が変わってしまう。その時に初めて、それはそれでなくなるのだ」
 「分かりました」
 本当は何も分かっていない。
 分かっていなくていい、彼は私が理解できると思って話していない。自分が分かっていないことを分かっていながら、私の返答を無言で受け入れたのだ。なぜか、答えは単純、時間は有限だからだ。
 私は彼と同じようにコーヒーを机の上に置くと、話をする体勢を整える。
 彼はそれを見て満足そうに頷くと、話を始めた。
 「さて、君はあたしに聞きたいことがある」
 「その通りです」
 「そのためにこんな不便な場所まで来た」
 「はい」
 「端的に聞こう。あたしはそこまで多くのことを知らない。それに、君に教えられることには限度がある。それでもいいのか」
 「構いません」
 「構わない」
 「はい」
 どうせに他に尋ねる相手なんていない。
 彼と出会ったということは、彼から話を聞かなければならないと言うことなのだ。
 私は口を開くと、ゆっくりと質問を口から紡ぎだした。
 「まず、あなたは誰ですか?」
 「あたしか、あたしが誰なのか知りたいのか」
 「はい、その通りです」
 「あたしが誰か、君は知っているはずだ。そうでなければあたしはここに来ないし、君もあたしを望んだりしなかっただろう。違うかい?」
 「望む?」
 「そう、君はあたしが来るのを望んでいた」
 その通り
 だが、そうやすやすと頷くことは私のプライドに関わる。
 僕はこの話をここで切り上げることにすると、ジッと机を見つめながら話を始めることにする。
 「実はですね、僕にはある悩みがあるんです」
 「どんな悩みだい、あたしに言ってごらん」
 「ある女性を、自分の物にしたいのですよ」
 無意味な空白
 どういう訳か彼はその言葉を聞いた途端黙り込んだ。もしかするとコーヒーを飲んでいるのかもしれない。そう思い、顔を上げてみる。しかし彼はコーヒーカップには少しも手を触れていなかった。
 やはりと言っては何だが、予想通りだった。
 少し悩んだ後、彼は再び口を開いた。
 「それは、努力で何とかなることではないのだね」
 「はい、その通りです」
 「なぜだい」
 「彼女は決して私の物にならないからです」
 「…………」
 彼はまたまた考え込む。
 今度の時間は相当長かった。五分、十分、いや本当は三十秒も経っていないのかもしれない。実際にどれだけの時間が過ぎたのか、それはここにいる限り、自分に全く持って影響しなかった。
 長い時間が経って(あくまで私にとってということだが)
 何の躊躇もなく、彼は立ち上がった。
 そして一言
 「すまないな」
 「え?」
 「時間が来てしまった」
 「どういう意味です?」
 「そのまんまの意味だ。あたしと君を繋いでいた温かいブラックコーヒーは既に、それとしての概念を失ってしまった。こうなってはもうあたしはここにいるわけにはいかない。名残惜しいが、さようならだ」
 「ちょっと」
 待って、の一言は完全に無視された。
 彼はそのまま席を立ち、背後の闇の中へとゆっくりと消えていった。

 一人残された私は、何が起きたのかと思い机の上に置いているコーヒーを見てみる。
 すると、一瞬遅れて異変に気がついた。
 湯気こそ立ち上っていたが、さっきまで放たれていた芳醇な香りは消え去っていて、全く別の香りが周囲を漂っていた。それは紅茶だった。種類までは分からないが、心を落ち着かせる独特のそれが私の鼻腔をくすぐっている。
 いつの間にか
 いつの間にか変わっていた。
 どうして変化したのか、その理由はさっぱり分からないが、とりあえずコーヒーは紅茶になってしまった。
 私はそれを暗い目で見つめながら、答えの出ない問に対して延々と向かい続けることに決めた。


       

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