ここは天界の某所。
 私がいるのは人間界のパンテオン神殿はこれを模して造られたとも言われる天界の官公署かんこうしょ、その非正規英雄の人事管理を担当する職員課である。
 そこに御座おわする大天使長はデスクがこぢんまりとして見える程の巨体でこれでもかとばかりに胸を張りいつでもコンパクトに仕舞えるはずの純白の翼を居心地悪そうに広げたままうずたかく積み上げられた膨大な書類に目にも留まらぬスピードで判子をついていた。
 機嫌は――決して悪くはなかった。
 私は限りなく事実に近づけつつも違和感を完璧に殺しきった見事なばかりの報告書と、憎いくらいに機転とユーモアの利いた口頭報告により、石動堅悟の戦線離脱を迅速かつ丁寧にわかりやすく伝えきったはずであったが――。
 どういうわけか石動堅悟の死亡届が受理されることはなかった。
 そればかりか石動堅悟の生存が改めて確認され、「悪魔の討伐は続行可能」故に再度彼の支援任務に就けとのお達しを受けた。
 私は、
「は――?」
 と聞き返さずにはいられなかった。
 担当の非正規英雄がウニになるなど例外中の例外。故に任を解かれると勝手に思い込んでいたが、例外中の例外故に、彼の心臓(といってもウニ等の棘皮きょくひ動物に心臓はない)が動き続けてアーティファクトを宿し続けている限り石動堅悟の監視は続行されるのだという。
 無論、反論した。彼にアーティファクトを扱うことは物理的に不可能であり、悪魔との戦闘も物質的に無理。これ以上の続行は人件費の無駄である、と。
 しかし却下された。恣意しい的な判断――というよりは、これより上に報告する面倒を避けたい事なかれ主義的な決断であろう。大天使長といえども所詮は下位天使なのである。
 私はため息交じりに人間界へと舞い戻った。
 彼のいる座標は――北緯三十八度四十七分四秒、東経百三十六度十二分十二秒。日本海のど真ん中だ。海に放してからまだ二日と経っていないのに、石動堅悟は驚異的な速度で日本海を横断していた。
 私はちょうど彼の真上を通りかかった海上保安庁の巡視船に降り立つと、シッティング・バックロール・エントリー(あの何か背面から海にダイブするやつ)で海中へと潜り、暗い水底をジェット噴射の勢いで爆走する石動堅悟(ウニ)の姿を見つけた。
 彼は一体、何をしているのだろう。バフンウニの仲間には出会えなかったのだろうか。方角的に、どうやらまっすぐ日本に向かっているようだが、それは帰巣本能故の奇行なのか、何もわからずひた走っているだけなのか。
 元々――稼いだ大金を手にまっすぐ風俗に向かうような非正規とはいえ英雄としての資質がどれほどあるかも疑わしい醜男だった。が、今では人間としての尊厳どころか意思表示の術すら失って、ウニとしても相応の生き方が出来ず――せめてそれだけはとばかりに――器用にトゲを動かして水の中を突き進んでいくその姿には哀れみの感情を禁じ得ない。
 彼は今、自分がどういう状況に置かれているのかを理解しているのだろうか。ウニになったこと、人間としての自分について、非正規英雄としてのこれからについて。
 彼を――海に放ったのは、他でもない私だ。それについて彼はどう思っただろう。考えてみれば一方的な行為だ。裏切り、見限り、光さえ届かない海の底にも似た絶望感。彼の目には、今何が見えているのか。しかし、ウニに眼球は存在しない。トゲが網膜のような働きをして知覚出来るらしいが、そもそも彼がどこまでウニなのか、人間の頃のような機能はまるっきり退化しているようだが、それでも彼は通常のウニでは考えられない速度で水のなかを進んでいく。
 それから約半日後。
 やはり驚くべきどころか恐るべきスピードで彼は山形県西部にある小規模な漁場にまでたどり着いた。望んだ形とはほど遠いだろうが、遂に帰国を果たしたのである。
 すると安堵したのだろうか。それとも陸地を前に逡巡したか。彼はぴたりとその猛進を止めると、ゆらゆらと浅瀬でその身体を海流に委ねてしまう。
 けれど、それもそうだと思う。
 そんな身体で今更陸に上がったって、元通りの生活なんて到底望めないし、すぐに干涸らびるかカラスに食われて死ぬだけだ。
 ここがゴールというか、行き止まり。未練がましく空をにらんだって、人が空を飛べないのと同じ。引き返すしかない。無理に留まったところで惨めな気持ちになるだけだ。
 彼は――何かに迷っているようだった。或いはただ海流に身を委ねているだけなのか。右へ左へ、楕円の身体をひねって揺れる。
 何だろう。何をしているのか。何かを――捜しているようにも見える。何かって、何を。ひょっとして、私を?
「…………」
 私は試しに、彼の傍らで身体を可視化してみることにした。すると、彼は私の存在を知覚出来たのか、クリオネみたいにひょいひょいと跳ねるように踊り、私の方へと近付いてくる。
 しかし、その瞬間に、ひょいっ、と。
 素潜りをしてきた地元の海女あまさんに拾い上げられ、そのまま海面へと浮上。咄嗟とっさに姿を消していた私は、漁を終えた海女さんの後を追った。
 彼が何をしたかったのかはわからないが、ウニが人間に捕獲されたのだ。その結末は容易に想像出来る。残念――でもないが、これで本当に終わりだろう。
 このまま彼が美味しく食事されるだけにしても、人間の頃からそうであったように中身がすっからかんで食べられたもんじゃないと捨てられるにしても、その最期を見届ける義務が私にはある。
 助けてくれ! と彼が叫んだような気がした。もちろん気のせいだけど、この状況に彼が楽しんでいるはずもない。助けて欲しいのだろう。
 けれど、ここで死んでもらえると――正直助かるというのが本音だった。無駄に長生きをされても、私に出来ることはウニの生態を観察することだけ。退屈しないと言えば流石に嘘になる。
 ところが思いがけないことに、収穫された彼の用途は食用ではなかった。港近くにある小さな加工場に行くと地元の漁師とも違うスーツ姿の胡散臭うさんくさげな壮年の男性が待っていて、彼が石動堅悟を含めたウニ十数匹入ったかごを丸ごと買い取ったのである。
 一体何事だろうかと思った。鮮魚店の仕入れとも思えない。仕事半分面白半分で追跡すると、車で二時間かけてたどり着いたのはなんと某大学の研究室であった。
 私ははたと膝を打つ。
「なるほど、ウニを用いた発生の実験ですか」
 この場合の発生とは生物学上の用語で卵に精子が受精してからそれが成体になるまでの過程を意味している。つまり彼は精子役の雄として選ばれたことになる。
 やがて実験の時間となり、学生たちがかごに入ったウニに群がる。雄と雌を区分けして、生きの良い卵役の雌が一匹持ち上げられると、『アリストテレスの提灯ちょうちん』の異名を持つ口器こうきをピンセットにより半ば強引にえぐり取られる。
「あー……、あー……あー……」
 えぐいえぐい。ああなってはもうおしまいだ。
 次に解体される雄は石動堅悟を含めて三匹だけ。しかし元人間だからか、他の雄に比べて彼の身体は一回りほど大きい。もとより絶倫であるし、選んでくれと言わんばかりである。
 これで恐らくさようなら。
 別に――思い出も思い入れもないから悲しくなんてないのだけれど、
「……むぅ」
 待てよ、と。
 私自身の声が、耳元で囁かれる。
 何か。
 心の隅の更にその端っこで、何かがずっと引っかかっている。
 彼は――石動堅悟は、ウニになってしまった後、まっすぐに日本へと向かって泳ぎだした。
 そういえば彼には今、どれだけの人間としての自我が残っている?
 日本に到着してすぐ、陸に上がるためのまともな術などないことに、きっと彼は気付いていたはずだ。それなら彼はあの漁場であの浅瀬で、何を躊躇ためらい、何を見つけようとしていたというのか。
 可視化した私を見つけたとき、彼は――何を言いたげだった?
 そもそも。
 彼は、何のために中国に渡った? ――いや、私が渡らせたのだけれど、何を目的にして、文句のひとつも言わずに辛い修行を乗り越えた?
 今日は出会いの日から三週間と少し。ウニになってからは、二日とちょっと。
 彼は日本に向かっていた。
 そしてたどり着いた。
 ぎりぎりだけれど、
 ……間に合った。
 明日。
 明日なのだ。
 再戦の約束。
 さいたまグレートアリーナで開催されるイベントの期日は。
 だから、そのために彼は、日本に向かっていたとでも?
 ウニになったのに? アーティファクトも使えないのに?
 教授が――「これがいい。実に素晴らしい」と恍惚とした笑みを浮かべながら石動堅悟を持ち上げる。
 無論、抵抗など出来るはずもない。
 こんな無様な彼に、単なる棘皮動物風情ふぜいに堕したあの愚か者に何が出来ると?
 わからない。
 所詮は非正規。
 お上にとっては使い捨てで、自身は無自覚に目先の金を追って戦う傭兵。しかも彼の場合はウニだ。しつこいようだけれど。
 ウニなのだ。
 何が出来る。
 何も出来ない。出来るはずがない。
 だけど。
 ……だけど、と。
 私は。
「えーい!」
 我に返ると同時、満面の笑みでピンセットを装備する学生に、不可視干渉パンチを食らわせていた。フラスコが割れる。塩化カリウムが教授の剥き出しの頭皮に降りかかる。悲鳴が飛び交い、訳もわからず騒然とする。私は床に転がった石動堅悟を拾い上げると、そそくさと研究室から脱出した。
 彼を乗せた手のひらと胸のどこかがちくりと痛む。
 彼が私に「ありがとう」と言ったような気がした。
 礼を言われる筋合いなどない。
 私はこのまま彼をさいたまグレートアリーナへと連れて行くつもりだ。
 戦力にならない英雄を、そうとわかっていながら死地へと運ぶ。
 私は眼鏡をくいっと持ち上げて、なるべく冷たく聞こえるように、
「仕事ですから」
 と、そう言った。