一人分の足音だけが響く。
聞こえてくるのは俺にだけ聞こえる声。
「堅悟様……、石動堅悟様!」
彼女が俺の名前を呼んでいる。
だけど聞こえていないふりをする。
無視して歩き続ける俺に、彼女はそれでもそれでも追い縋る。
「堅悟様、あなたは――忘れているわけではないはずです! 私には、あなたが何を考えているのか……その思考を読み取ることが出来るのですよ! 先ほど堅悟様が考えていたこと、あれはまるで――」
ぴたり、と。不意に足を止めた。
翼ちゃんがきゃんと短く悲鳴を上げ、前のめりにつんのめって俺の背中にぽすんと顔を埋める。
「あ、う……。け、堅悟様……?」
「なぁ、俺の頭の中を覗き込んで、そんで思考を読み取って――」
振り返ると、彼女はまるで悪魔か化け物でも見たかのようにびくりと肩を跳ねさせて、
「――そんなことで、俺の心が読めるのかい? 翼ちゃん」
ごくり、とまるで人間みたいに震えて生唾を飲み込んだ。
「頭のなかにあることなんてさ、所詮は心のなかに生まれた気持ちを……言葉に置き換えようとした時、濾紙に残っちまった不溶物でしかない」
「何の……話ですか、それは」
「俺が何を考えているのか、わからないんだろ」
「わ、わかります。わかっていますよ、そんなことは! つまり、あなたは――」
言葉に詰まる。言いよどんで、口を噤んでしまいそうになる。
初めて君に会ったとき――冷静冷徹冷酷な――氷の女だと思った。まあ、天使に性別はないって話だが、それはそれとして。ひょっとしたら君には感情なんてないんじゃないか。俺を非正規英雄としてサポートするだけの機械のような存在なんじゃないかって。
思った。
だけど、俺がウニになった時に見せた迷い、
「あなたは……」
「……なあ、翼ちゃん」
俺は彼女は言葉を遮って。
「退屈してはいないかい?」
「退屈……って? あなたは、一体何を――仰っているのですか」
「この前、あの車輪野郎に会ってわかったよ。神の遣いなんてご立派な肩書きを掲げちゃいるが、あんたら天使も俺たちと同じ歯車なんだ」
「歯車。……私が、ですか」
胸に手を当て、俺を見つめる。
考えたこともないという表情。
「ああ、退屈なはずだぜ。あんたはただお上のご意向に従うだけ。使い捨ての英雄様を二十四時間監視して、必要とあらば呼び出され、不都合とあらば頭ごなしにお叱りを受けるだけの日々。俺が死ねばすぐにまた別の英雄のもとに派遣され、繰り返し、繰り返し」
俺は指先で渦を描き、笑う。
「同情するよ、心から。そして共感する」
「そ、そんな、私は――」
「正直になれよ。退屈してるって認めちまえ。こんな糞みたいな日常に
「考えたこともありません! 私は、従順な神の僕であり」
「だったら翼ちゃん、……俺のことを報告するか? 今すぐに、こいつは
「それは――」
いつも水平を保っていた彼女の視線が
「――ですが、あ、あなたひとりに、なにが出来るというのですか」
おれひとりに、なにができる。
弱い口調からの強い言葉。
ああ、それは。
俺がいつも自問自答してきた終わりなき迷路のその入り口。
確かなことは、何も言えない。
必ず――そう必ず、そう言って逃げてきた。
可能性に縋り、
それが俺だ。
英雄になる前の俺。そしてなった後も――何かが変わらず、変われず、変えようとせず、心の中の暗がりでひっそりと呼吸していたもう一人の俺。
俺は今、確かに鬱屈している。
戦うと決めた。俺自身のために、何より翼ちゃんの求めに応じたかった。なのに筋が通らない。そう感じる。そう感じるのは一体、誰のせいだ? 何が俺の空に蓋をしている。夜が暗いのは、雨が降れば冷たいのは、この世界が終末に近付いているのは何が悪くてどんな正しさに支配されているからだ?
俺は――
「……け、堅悟様」
「あ、あぁ、悪い。別に……迷っているわけじゃなくて」
「そ、そうではなくっ」
「え?」
「奴らが、この近くに」
奴ら。
準悪魔が現れたのか。
それを殺すことが非正規英雄に課せられた使命。
歯車としての役割。
「……そうか」
そうだ。
思いついた。
俺に出来ること。
面白いこと。
その何か。
「……堅悟様?」
「翼ちゃん、あいつは――あの根暗野郎は今、すぐ近くにいるか?」
「根暗……とは、あの、先ほどの“彼”ですか? い、いいえ、すでに離れているようですが」
なるほど一方的に連絡先を押しつけて満足してしまったらしい。
まあ、それはそれで好都合といえば好都合だが。
「それじゃあ、行くか」
「行くとは……どこへ」
「悪いやつらを、やっつけに行く」
「……え」
と、漏らした声はどこか切なげで。
まるで期待を裏切られたような。
物足りなげな貌。
思わず抱きしめてやりたくなる小動物的な愛嬌。
心配するなよ、翼ちゃん。
「面白いものを――見せてやるからよ」
そこは終電を過ぎて薄暗くなった駅の構外。
飲み屋街が近くにあるからかこんな時間に現れた準悪魔でも少し暴れればすぐに悲鳴が轟くくらいの人気は疎らにあった。
ライトアップされた駅前広場の噴水に殺された人間を浮かべゴミ捨て場のように赤く汚し、ちょうど駅の構内へと逃げ込もうとしたカップルを二人仲良く蛇のような長い胴で絞め殺し現代アートのようなオブジェへと変えてしまったのは――上半身が若く美しい黒髪の女であるのに対し下半身がそのでっぷりと肥えた蛇のそれである
高架化された駅のホームに立った俺は、暗闇に身を紛らわせながら、地上で繰り広げられる惨状をじっと観察する。
「辺りに他の非正規英雄はいるか?」
「いいえ、この近辺には、他に誰も」
「それなら仕方がないな。早速、こいつを有効活用させてもらうとするか」
懐から先刻間遠から手渡されたメモを取り出し、スマホから奴にメッセージを送る。
『至急。
すると、数秒も待たずに返信が。
『了解した。すぐに駆けつける。死ぬなよ』
律儀なことだ。
「……よろしく頼むぜ、相棒」
口にするとなんだか笑えた。
馬鹿馬鹿しい。そんでもって空々しい。
無茶苦茶だ。
こんなこと学生時代にだってやりゃあしなかった。
思いついたって、まず間違いなく出来やしなかった。
だって、それはルール違反だ。空気が読めていないと嫌われるし、阻害されるし、除け者にされる。
自分より強い奴ら、ルールを信仰する奴ら、ルールを広めた奴ら、ルールを作った奴らに、脅され、貶され、いつの間にか社会的にも物理的にも殺される。
だから、いつだって人間は沈黙を愛するべきなんだ。どんな思想も行為も雄弁に物語るべきではない。
だけど、それは力なき者の理。
バーで会った悪魔は言っていた。アーティファクトの力は既に俺のものになっている、と。
それなら俺はもう――かみ合わせばかりを気にしている――歯車などではない。俺はここにいる俺のみで成立しうるのだから。空気が読めなかろうと協調性がなかろうとルールから逸脱しようと除け者にされようと。
ああ、そうだ、俺は、もう。
――自由意志に基づいて行動できる。
だけど。
その上で、俺は。
「なあ、翼ちゃん」
一度、決めたことだ。
俺は君に求められるままにこの力を使うんだって。
だから、
「俺に、頼んでくれ。……お願いしてくれ」
血溜まりが街灯を浴びて鮮やかな赤を映し出している。投げ捨てられた誰かの左脚が波紋を作り、嘆く悲鳴が耳をつんざく断末魔へと変わり、……いつしか広場は静寂に包まれていた。
残るはひとり。
あと一人殺せば、恐らくその腹は満ちるのだろうが。
怪物の腕がちぎれて吹き飛び宙に舞う。一体、何が起きたのか。それは怪物自身も理解し得ない。目にも留まらぬ神速の斬撃。それを生み出したのは捕食者にとっての単なる被食者ではなかった。まるで枯れ木のような長身痩躯。彼が構えた気障なくらい鋭利な長剣はこの距離からでもその殺傷能力を見紛わせない禍々しく神聖な気配を漂わせながら夜の気配と同化している。
間遠和宮が――どうやら間に合ってくれたようだった。
「さあ、翼ちゃん、俺に――言ってくれ」
ひときわ強い風に髪がなびく。
翼ちゃんは俺の隣で地表に広がる赤い空を見下ろしている。
終末の夜は長い。
あれもこれもどれもすべてを巻き込んだ終わらない夜。
明けない朝。まるでこの世界が終わってしまうみたいな思想。
「あいつを――間遠和宮を、俺のこの手で殺してくれって」
アーティファクトを使用した非正規英雄は何らかの形で“代償”を支払わされることになる。
その代償とはアーティファクトによって様々だが、能力が強力であればそれだけ支払わされる代償も大きくなる。
間遠和宮の能力はさて何なのか、遠巻きに見た限りでは判然としなかったが。
「まるで――目が見えてないみたいじゃないか? なあ、間遠」
既に生命感なく地に沈んだエキドナ型の準悪魔。
戦闘の爪痕で柱のひしゃげた街灯がばぢばぢと喘いでそのまま消える。
沈黙したまま俺に背を向ける間遠は長剣のアーティファクトを握りしめたまま肩で息をしている。
どうやら理解しているらしい。
勘付かれてしまったらしい。
戦いが――まだ終わっていないということを。
そしてこれからすぐに――新たな戦いが始まるということを。
どうやら悟られてしまっているようだった。
第九話 “週末”思想のエトセトラ 完