第十三話 私は共存を求むと言った (混じるバジル)

 降りしきる雨の中、雑居ビルの間の路地に一人の男が倒れている。齢18にも満たないその少年はアスファルトに仰向けになり、世界を覆いつくす重い曇天をその瞳に眺めていた。

 男を追ってその場に現れた影がふたつ。暗がりから姿を現した目深にフードを被った少女の姿を見上げて少年は観念したように俯く。

「気をつけろ。まだ何か手を隠してるかもしれんぞ」

 後ろに立つもうひとつの影からの忠告を受け少女は注意深く地面に倒れこんだ少年の姿を見下ろした。

 彼は瞳を閉じて肩を大きく揺らして深く呼吸を繰り返し、破れたシャツの下からは大きな打撲痕が見られ、腕と脚の腱は的確に断たれていた。

 むせこんだ口から吐き出された血溜まりが彼の襟首を伝って首元に流れ込む。小刻みに震えているのはこの雨による寒さのせいではなく、彼の死期がすぐそこまで迫っている事を示していた。

「馬鹿な男」

 少女は息も絶え絶えの彼の様子を見て細く息を吐き出した。そして頭上に手を掲げると彼女が所持するアーティファクト――雷神の鉄槌トールと呼ばれる大きな金槌が姿を現した。

 彼女はそれの柄を深く握ると目の前で大の字になった男をあざ笑う訳でも悲しむ訳でもなく、感情の無い素振りで標準を男のみぞおちに定めた。その瞬間、壁の傍から姿を現した和宮が鹿子に声を掛けた。

「待て、その男は、もう」

 鹿子は目を見開いて倒れた男の呼吸を目視する。力なく傾いた顔には自分を痛めつけたふたりへの憎悪や憤怒の想いは無く、ただ満足げな安らかな死に顔を残して彼の魂は今生を離れていった。

「良くやった鹿子」

 近づいて来た和宮を鹿子は激しい意思を含んだ瞳で睨みつける。

「これを見て良くやっただって?馬鹿言わないでよ」

 奥歯を深くかみ締めて鹿子はその場から歩き出す。道を踏み外し悪魔と化した人間に正義の制裁を加えてやるのが彼女達非正規英雄の仕事だ。普段と同じ通り、悪魔のあらゆる行動手段を封じ、追い詰めて、殺す。

 英雄として神聖武具を受けた2年前から繰り返されるひとつの日常ルーティーン。但し今回は内情が違った。鹿子は事切れた亡き骸を一度だけ振り返ってこみ上げる感情を噛み殺してフードを深く被り直した。

 なんでこんな事になっちゃったのよ――彼の死を悼むような質量を持った重い雨が街中に降り注いでいた。


 県境の河川敷を挟んだ片側の道路沿いに鹿子が知り合いの手伝いと銘打って放課後の活動拠点としている探偵事務所があった。

 商店街から外れた雑居ビルの4階にあり、その1階には地元の人々でもほとんど通わない老夫婦が営む純喫茶『いずみ』がある。とっちからった8畳ほどのワンフロアの真ん中に置かれた頑丈なデスクの上に鹿子はプリントアウトした用紙数枚を投げ広げた。

 最近この街でも見られるようになった複数の怪事件――学校での噂話から近所の主婦の井戸端会議、またはネットニュースから様々なオカルトにも似た証言情報が入ってくる。

 発光する飛行物体に超高速で移動する謎の生命体。周期的に街へ訪れる人喰いの悪魔――どれも一聞すると眉唾モノの情報ばかりだが日常的に悪魔と対峙する鹿子にとってそれらの空想のどれかひとつが実態を持って彼女の元に姿を現す事は荒唐無稽な話ではなかった。不意に表のドアが音を立てて開く。

「なんだ、居るじゃないか。明かりくらい着けたらどうだ」

 立て付けの悪い、薄いドアを引いて間遠和宮がその細長い体躯を入り口の天井に当てないよう身を屈めて事務所に入ってきた。鹿子は振り返らずにパソコンの置かれた席に着いてキーボードに指を浮かべる。

「節電よ。それに昼間からこんなボロビルの4階の明かりが煌々と点ってたら怪しまれるに決まってるジャン」

「それもそうだがな…」

 言いかけて和宮がコーヒーポッドの横に置かれたブレンド粉の袋に手を伸ばした。しかし、棚の死角になっていた場所にあったその袋は和宮の指からするり抜けると落下して中身を床に大きくぶち撒いた。

「すまない。時々あるんだ、こういう事が」

 鹿子は気だるげに席を立って壁のボタンを押して部屋の照明を着けた。

「そうしてもらえるとありがたい」

「…何もそこまでしなくても、ちゃんと片付けときなさいよソレ」

 ふたりが床に散らばった細かく粉砕されたコーヒー粉を眺めていると階段をだん、だんと力強く踏みしめる音が聞こえてくる。

「来客か。珍しいな」

 和宮が呟くとドアが開き、息を切らせて制服姿の少年が事務所に姿を現した。

「アポも取らずにわざわざこんなビルの4階まで上って来るなんて、よっぽど緊急の用事らしいな」

「お前が鈴井鹿子か?」

 和宮の言葉を遮って少年は部屋の奥に立った鹿子に訊ねた。

「俺を知っているか?」

 そう聞かれて鹿子は首を横に振った。

「何ソレ?その制服、私が通う学校のと同じだけどキミの事なら知らない。最近流行ってる映画の真似だったらその辺の女の子捕まえてやりなさいよ」

「そうか、なら仕方ないな」

 少年は少し気落ちした態度で頭を掻くと和宮と鹿子に向き直った。

「俺の名は菱村真一ひしむらしんいち。鈴井と同じ高校に通っている。お前に調べて欲しい事象があってここに来た。探偵、やってるんだろ?」

 菱村と名乗った少年の値踏みした微笑みを受けて鹿子は挑戦的に口角を吊り上げた。

「やってるよ。悪魔事件担当の美少女探偵」

「おい、鹿子!」

 和宮が振り返ってクックと笑う鹿子を見て咎めた。一般人にとって悪魔の存在は認知されてはならない決まりとなっていて、依頼者側から訊ねられない限り探偵はその存在にとって答えない、というのがこの世界での仕事の常識となっている。

「そうか、なら話が早い」

 少年は鹿子を見て安堵したように息をつくと制服の内ポケットから数枚の写真を取り出して近くに居た和宮に手渡した。それを見て鹿子がオーバーリアクションで両手を広げて持ち上げた。

「なんだ、ああ言ったらみんな『コイツ、痛いヤツだ』って思って回れ右して帰ってくのに~」

「こらこら、面倒だからって客人を追い払おうとするな。この子か?」

 和宮が手渡された写真の中央に写った制服姿の女子を示すと菱村が小さく頷いた。ショートボブのこれといって特徴のなさそうな普通の女子高生が道路沿いを歩いている構図の写真だ。

「彼女の名は結原紫苑ゆいはらしおんと言う。お前たちには彼女の捜査に欲しい」

「な、おい。俺はお前より年上だぞ。先輩を敬え」

「尾行、つってもねー」

 せせら笑う態度で鹿子はその場から歩き出して新しいコーヒー粉の袋が置かれた棚に手を伸ばした。袋の口を開きながら鹿子は話を続ける。

「キミ、尾行ってどうやるか知ってるー?たったひとりのターゲットの為にこの可愛い女子高生がおはようからおやすみまで一日中その子を監視するわけ。
捜査期間中の食費に移動費。必要であればその子の向かいの部屋を間借りする必要もある。お金かかんのよ?それにいまストーカー規正法とかでうるさいし」

「金ならある」

 そう言うと少年は角ばった茶封筒を机の上に3本投げつけた。それを見て鹿子が先程の和宮と同じようにコーヒー粉を床にぶち撒いた。

「菱村…聞いたことがあるぞ。最近物流業界で名を上げている大企業の御曹司か」

「その通り。それ以上必要であればすぐに用意できるぞ」

 不敵に微笑む菱村を見て鹿子は思いを巡らせた。彼が私にこの仕事を頼むのは何のため?金が有るのならその他大手の探偵に依頼すればいい。そして彼女の中でひとつの結論が見出された。

「もし、これだけの額を貰っても私が断ると言ったら?」

 鹿子が訊ねると菱村は新たに写真を取り出してそれを鹿子と和宮のふたりに見せた。

「先日、新火駅近くで発生した謎の暴動事件。交通機関の一部麻痺と死亡負傷者多数。マスコミは海外からのテロリストによる放火だと報じているが本当は違う」

 そう言うと菱村はその裏に持った写真をその前に回した。

「駆けつけた消防隊とは逆方向に走り、飛び回って戦闘を繰り広げるふたりの異能力者。ほら、この長剣を振る男はあんたじゃないのか?」

「鹿子、記憶抹消器イレーサーは使わなかったのか?」

「とっさの事でつい。まさかアイツがあんな事始めるなんて思わなかったし」

「仲間割れはよせ。それにこの写真には大鉄槌を構える鈴井の姿が映っている。お前たちが人知を超えた超常的な力を持っている事はこれで証明された。お前らが俺の依頼を断るようなことがあれば」

「断るようなことがあれば?」

「メディアや週刊誌各位にお前たちの存在を明かす」

「それ、脅しのつもりで言ってんの?」

「よせ鹿子!」

 次の瞬間、激高した鹿子が振り下ろした右手が強固な造りの机に向かって振り下ろされた。その軌道はその手になにか鉛のような重さを含んだ硬質な物体を掲げているようにも見えた。

 どがぁしゃん、と大きな音が鳴り、机が中心から真っ二つに割れ崩れた。振動が壁を伝ってビルの床を揺らす。鹿子はゆっくりと顔を上げると菱村の顔を睨みつけた。

「吊り合わないよソレ。これ以上ふざけた態度を取る様なら、アンタが言った人知を超えた能力がその身に刻まれる事になる」

 鹿子が発する暴力的なプレッシャーに怯むことなく菱村は額の汗を拭うと深く息をついて鹿子に向き直った。

「馬鹿を言うな。俺は名のある大企業の息子だぞ。消息が途絶えたら必ず足がつくに決まっている。悪魔専門の探偵稼業なんだろ?ここは交渉らしく、和やかにいこうぜ」

「やっぱり知ってたんじゃない。悪魔と英雄の存在に」

 鹿子ががっくりうなだれると和宮は埃の舞い上がった床に視線を逸らした。潰れた机を挟んで3人がパイプ椅子に腰掛けると和宮がさっき菱村から手渡された写真を鹿子に見せた。

「彼女は学校で、いわゆる売女のレッテルを貼られている。そしてその件で学校中の生徒から無視をされ、存在を認識されない生徒になってしまった。
彼女の授業態度は真面目で派手なグループと交際があるという噂も無い。それなのに何故彼女が売春をしているような疑惑がかかってしまったか、俺は知らない。一度しかない高校生活だ。彼女に楽しい思い出をつくらせてあげたいんだ」

「ふーん。色々まどろっこしく話してきたけど、つまりはその子とくっつきたいって事でしょ?世間知らずの御曹司サン」

「くっ、依頼主にその態度は何だ!」

「成程、そういう事か」

 顔を赤らめて立ち上がる菱村を見て和宮は自分の学生時代の姿を重ねた。鹿子が写真のコピーを撮ると菱村に向き直って答えた。

「まあいいわ。この頃流行の怪事件と関係あるかもしれないし」

「そうか。恩に着る。それと成果報酬の件だが」

「ああ、いいよ。そういうの。お金は有るに越した事は無いけど、このオンボロ事務所から大金が動いたら色んな方面から怪しまれちゃうジャン。私にエンコー疑惑がかかっちゃうなんてこりごりなんだけど」

「フッ、それもそうだな。お前たちが無事、彼女の無実を証明してくれる事を願っているよ。それではよろしく頼む」

 そう告げると菱村は立ち上がって事務所のドアを開いた。コーヒーメーカーのお湯が沸きあがる音が部屋に残された和宮と鹿子の間に響いた。

「さっきのコーヒーの袋の件」

 突拍子のない鹿子の言葉に和宮は顔を上げた。

「あんた今、アーティファクト使えないでしょ?」

 訊ねられて和宮は自分の掌を握り締めた。間遠和宮が有する神聖武具の発生代償は『肉体機能の一部不全』。それなりの覚悟を背負って発現する奇跡の剣は迷いを抱えた心では具現化する事は叶わない。

「クソッ!全部あの馬鹿のせいだ!」

 立ち上がって鹿子はゴミ箱を蹴飛ばした。あいつが、あの日あいつが新火駅であんな事を仕出かさなければ……!

「モノにあたるのはよせ」

 激しい怒りを纏った鹿子に和宮は非正規英雄の先輩として優しく語りかけた。

「ただ一人、女子高生の生活を探るだけだ。おそらく他の人間にはバレていない。話しても信じてもらえないだろう。冷静になれよ。迷い猫を探すくらい簡単な仕事じゃないか」

「冷静になれ、か。駆け出しの頃、リザに耳にタコが出来るくらい聞かされたわ……あんたもあんなヤツの事でウジウジ悩んでないで、さっさと能力使えるようになりなさいよね」

 鹿子にそう言われて和宮は視線を窓の外に泳がせた。石動 堅悟――。ヤツは何故、同じ英雄の仲間である俺に向かって剣を振った?もし、ヤツが悪魔の手に落ちるようなら、その時は――

 間遠和宮。『完全自動攻防』の長剣アンスウェラーを保有する歴戦の英雄はあの日受けた“傷”を思い出してそのみぞおちに手をかざした。