此原燐このはら りんは、不幸とは何かを知らなかった。
 父親の顔を知らない。――普通。
 母親が中学三年生の時に自分を妊娠した。――普通。
 気に入らないことがあると腕や背中に熱湯をかけられた。――普通。
 母親が覚醒剤所持で逮捕されて、祖父母の家に引き取られた。――普通。
 放火犯がたまたまターゲットに選んだ家がそんな祖父母の家だった。――普通。
 助かったのは、自分だけ。
 ――幸運?

 燐には、周りの大人達がいう「可哀想」という言葉の意味が理解できない。
 辞書を引いても、“同情”であるとか、“不憫”であるとか――“不幸”であるとか。もっと分からない言葉で上書きされているだけで、傾げすぎた首がいつもすてんと床に落っこちた。
 此原さんは可哀想な子だから、みんな仲良くしてあげてね。
 教師がそう言う。
 可哀想な子だから、という条件式が、燐をますます混乱させた。
 燐には、友達の作り方もわからない。
 それに結局友達なんて出来なかった。
 喋らない。笑わない。一緒にいて楽しくない。
 可哀想な子供であることとは全く無関係な理由から、燐は集団の輪から“いらない子”として排斥された。

 みんながそう言っているから正しいんだ。
 燐には、そういう意見も理解が出来ない。
 多数決で何かを決めることは――わかる。そういうルール。場を支配する形の一種だ。けれどそれは“正しさ”を証明することではない。最大公約数的な幸福を求めることが少数派の心を槍で突き刺すこととイコールにはならない。
 頑なに自身を“不幸である”と認めたがらない燐に対し、同情的な視線を燐に送っていた大人たちが怒り狂う。
 同情させろ。哀れませろ。心強い存在のように振る舞わせてくれ。自分のなかにあるはずの優しさのような何かを思い出させてくれ。
 燐は、そういう嘆きに晒された。悪い噂が流れ始める。味方がひとりもいなくなっていく。四面楚歌。
 ある日ふと目を覚ますと、首筋にくっきりと赤い手形が浮かび上がっていたみたいに。
 哀れだな――と思った。
 なんて。
「可哀想な人たち」
 と。

 燐は他人の心が理解できるようになった。
 それと同時に、自分の心がわからなくなった。
 確かに自分は相対的に見れば不幸で可哀想な人間なのかもしれない。
 だけどそれを自分でそうとは感じられない。テレビに映る楽しくて暖かくて幸せそうな家族の姿を見ても、少しも羨ましくはならなかったし、今も服役中の母親を恨む気持ちすらも想起できない。
 ただ、あるだけ。そこにいるだけ。ここにあるだけ。
 物質的だと自分で思った。他人の心は、いくら理解できても所詮は観測と推測のみで成り立つ――不安定な情報を読み解いた成果物でしかない。けれど、自分の心は直接覗けてしまうのに、それをもやはり客観的な視点から、観測と推測によって読み解くしかないことに気付いて。
 狂いそうになった。
 実際、狂っていたのかもしれない。
 燐は、たびたび、悪魔の姿を見るようになった。尤も、その“男”がそう名乗っていただけで、燐には――その本意も客観的に推測するしかなかったのだが。
 小学五年生になった秋。学校からの帰り道。紅葉が綺麗だった。
 出所した母親が、燐のもとに現れた。
 一緒に帰ろう。そう言って手を差し出された。
 燐は自分のなかに生じた――得体の知れない熱に惑った。
 何かが喉の奥からこみ上げてくる。
 心とは、即ち思考だ。燐は、小学三年生の時に、心の意味をそう定義した。だったら、思考とはなんだ。結局、辞書的な説明だ。知らない言葉を知るのに、また頁を繰る必要がある。
 もっと直感的に物事を理解できればいいのに。
 それは既に実現された願望だった。
 目の前で微笑む――実の母に対して、燐が抱いた感情は。
 嫌悪。
 それで多分、恐らく、きっと――間違いない。
 なのに涙が溢れてくるのは、悲しみもまたそこにあるからなのか。
 燐には、他人の心が理解できるようになっていた。
 以前の燐なら、ただ意味も理由も心もなく、母の言葉に従っていた。
 だけど、今は「嫌だ」と思う。それは駄目だ、と。
 その差し伸べられたように垂らされた糸を掴んだ先にある絶対的絶望を、今の燐なら、すべてわかるからだ。
 母の背後に止まる黒いキャラバン。その窓からこちらを見つめる見知らぬ男。
 燐は何も言わずに目を瞑った。それは、単にはっきりと、目の前にある現実から逃れたいと願ったからだ。
 それを聞き届けたのが天使ではなく悪魔であったことが、今にしてみれば実に自分らしいと燐は思う。
 そしてその時、燐は生まれて初めて――人を殺した。
 頭が潰れて醜く変形した母の姿は、あまりにも物質的で、あまりにも――可哀想で、あまりにも馬鹿馬鹿しかった。
「あハ。――ハハ。アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
 赤く濁った瞳で笑う。左右のこめかみから生えた鋭い角と、色素の奪われた真っ白な肌と、未だかつて経験したこともない――食欲と飢餓でもって笑う。
 その開放的な笑みには自由があった。悦楽があった。戸惑いがあった。
 そしてやはり――何かをなくした悲しみがあった。
 今、燐は準悪魔として生きている。
 時折暴れ回って、人を殺して、血の臭いをかぎ付けてきた非正規英雄を返り討ちにして。
 後はずっと――東京は板橋区の外れにある月/六八〇〇〇円のアパートの一室で、引きこもり同然の生活を送っている。
 決して、何かが嫌になったからそうしているのではない。寧ろ、何もかもが順風満帆であることを感じていた。身元不詳の中学二年生である自分にありとあらゆる法を破りながらも部屋を貸してくれる仲介業者と出会えたのは幸運という他なかったし、生活資金は潤沢過ぎるほどにある。
 ただ、漫画やアニメ、ネットゲームといった未知なる娯楽を知ってしまったことで燐が感じる日々の充実度と反比例して人間社会に対する興味は失われていってしまった。
 今はもう、ネトゲの期間限定イベントのことしか頭にない。昼に目覚めればログインボーナスのことが頭を過ぎるし、一週間の区切りは漫画雑誌の発売曜日が基準となっている。アニメは実況板でレスバトルをしながら観るのが常で、最近は趣味としてイラストも描き始めたことで某SNSではそこそこ名の知れた存在となっている。
 不満などない。怯える必要などない。ここは素晴らしい。
 だけど――。
「スクブスー! スクブスいる~!? あたしあたし! 不愉快なる反逆者、ベリアルちゃんの登場なんだけど~」
 がんがんとノックされた扉が薄い金属板かと錯覚させられるほどに呆気なく凹む。先日付け替えたばかりの鍵がばきりと歪な音を立てて、扉の蝶番がぎいいと錆びた音を立てる。
 燐は――理解していなかった。
 準悪魔になるということが、その名を冠した一種の巨大なコミュニティに属することに直結しているということに。
 玄関の扉を破壊してずんずんと部屋のなかに押し入ってくる真っ赤な洋服を着た少女の名前を――ベリアルという。これは無論、自称だ。彼女は紛れもなく純血の日本人だし普段は現役女子大生として暮らしている――ただの準悪魔なのだから。
 それっぽい名前で自らを縛る理由などない。――ない、はずだ。少なくとも燐は聞いたことがないし、そういう欲求に対する共感も覚えたことがない。
 だから、スクブス――夢魔の一種でサキュバスとも――などというぞっとする名前で呼ばれるのは不本意だし、彼女のこともベリアルではなく飽くまで山辺莉愛やまべ りあとしか認識していない。
 山辺は実にふれんどりぃな女だった。たまたま一度同じ現場で仕事をしただけなのに、強引に連絡先を交換させられ、頻繁に「今どこにいる?」「何してる?」と目的も意味もないメッセージが送られてくる。
 もちろん基本的に無視しているし、必要以上に仲良くしたくないという気持ちはへたくそながらも完璧に伝えきったはずなのに、それでも彼女はこうして家にまで押しかけてくる。
「スクブスさ~、最近ちゃんと仕事してる~? なんかどこの現場行ってもあんたの姿見ないから、どっかで死んじゃったのかな~って心配してたんだけど~。そんで調べてみたら、ネトゲにはちゃんと毎日ログインしてるし~」
 山辺が閉め切られていたカーテンをしゃーっと開ける。一週間ぶりの日光を浴びた燐は、有害物質を頭から被ってしまったかのように呻き悶え這い蹲る。
「か、かえって……。と、……とゆうか、な、ななな、なんで、ログインとか……山辺が、……し、し、知ってる……」
「なんで~って、あんたと同じクランに入ってるし~」
「え、……ええ!?」
 久しぶりに腹の底から声が出た。
 クランとは同じネトゲのユーザー同士で組めるチームのようなものである。
 慌てて確認すると、山辺と思しき“ベリアルちゃん”なるユーザーが一ヶ月ほど前に燐の所属するクランに加入していた記録が見つかった。メンバー一〇〇人を超える大所帯だし、人の出入りも激しいから気が付かなかった。
「す、すす、すとーかー!」
「スクブスがさ~、心配なんだよね~」
 心配。
 それは――可哀想という意味か。
 陳腐で安易で量産的な――哀れみなのか。
 そんな視線を飛ばした燐だが、すぐに彼女――山辺の微塵も隠そうとしない軽薄なへらへらとした笑いに、絆されてしまう。
 言葉とそこに宿る感情が全く以て釣り合っていない。
 だけどそこに矛盾はなくて、形もそれほど歪じゃなくて。
 憎らしくもあるけれど、それが彼女の嘘偽りのない本心であることくらいは――流石の燐にもすぐにわかった。
 これでも人を見る目はあるほうだ、と燐は思っている。
 山辺は悪い奴ではない。
 だけど、それでも……燐にとっては余計なお世話なのだ。
 生きとし生けるものどもは、孤独に逃れたい者と、真に孤独を愛する者で大別される。燐は自身が後者であることに強い確信と誇りを持って生きている。
 いくら心の底から気にかけてくれたって、友達だ――って思ってくれたって。
 この神聖なる六畳間に、山辺の居場所はないのである。
 改めてその気持ちと決意を三〇分ばかりかけて一生懸命説くのだが、
「いや~、あたしはさ~、スクブスのこと、妹みたいに思ってんだよね~」
 まるで話が通じなかった。


 四谷真琴。
 彼はそう名乗った。
 いくら怠惰であるとはいえ、此原燐は準悪魔である。
 非正規英雄と出会えば死合う。
 ある霧の深い朝の河川敷。ジャージ姿でジョギングする大学生の姿も、犬を連れて散歩をする老人の姿も――まるで見えない。
 燐は、そこで溺れる夢を見た。
 それは全てが上手くいく夢だ。
 公園を走り回る――幼い燐と、それを心配そうに見守る父と母。誕生日パーティには学校の友達もみんな集まって主役の燐が蝋燭の火を吹き消すのを今か今かと待ち侘びている。
 笑っていた。みんな楽しげに笑っていた。血なんて誰も流さない。些細なことで怒ったりしない。悲しいからって、泣いたりもしない。
 狂って解れて壊れてしまったとある世界の物語。
 人は寿命を迎えない。病気もしないし、汚らわしいから恋も愛も存在しない。ただ笑っている。笑っていれば幸せになれるから。ただ、笑い続けるだけの世界。確かに幸せそうではあるけれど。
「気持ち悪い」
 燐は、改めて思った。
 やっぱり、自分はそこそこイケてる人生を送ってきたんだ――と。
 目を覚ますと、燐は川の浅瀬で水浸しになりながら、もやのかかった空を仰いでいた。
「君も、帰ってきたんだね」
 川べりに立った四谷が見下ろしている。
 いつでも殺せるはずなのに、彼は武器さえその手に見せもせず、ただ悠然と微笑んでいた。
「なあ、僕らの敵よ。――悪は正義か? 正義は悪か?」
「……興味、ない。私は……ひとりに、なりたいだけ」
「わかるよ。だけど、他人が放っておかないだろう」
 燐は四谷と目を合わせる。
 あれ――と思った。当たり前のように男性だと思っていたけれど――。
「放っておかれるのにも、相互理解が必要なんだよ。君が本当の意味での孤独を希求するならば、君はその思想を理解してくれる仲間を得る必要がある」
 ――人は独りじゃ孤独にもなれないのさ。
 彼はそう言う。
 燐は、そうかもしれないと思った。
 差し伸べられた手を――燐は無意識に掴んでいた。


 喫茶店フロリダ。
 そこに彼がいた。
 石動堅悟。
 いつか山辺に要注意人物として見せられた写真よりかはいくらか精悍な顔つきになっていると思った。それが彼にとっての成長なのか――或いはその逆なのかはわかり得ない。
 この男は強い――という話だ。
 けれど力の強さを語るなら、カイザーやバハムート、彼と同じ非正規英雄ならリザといった教科書に載るクラスの化け物どもだけで充分じゃないのか。
 石動堅悟がそのレベルに達しているようにはとてもじゃないが思えない。
 それでも彼には明らかすぎる実力差を埋める――或いは覆す、何かがある。
 四谷から聞いた言葉を、今度は自分自身のものとして燐は物言わずに反芻する。
 だけど、強さとは正面からのぶつかり合いだけで測れるものではない。仮に堅悟がいずれ最強の男に成長しても今から見える未来は呆気なく訪れる当然の死だけだ。
 強い力を持ちながらも馬鹿みたいに無力。
 自分と同じだ――と燐は思う。
 求めるものと必要なものがあまりに相反していて現実と向き合うのが辛い。怖い。辛い。
 ――燐は堅悟を殺すつもりでここに来た。
 四谷がそうしろと言ったからではない。
 人を見る目だけはある。燐は今でもそう思っている。
 見誤ったことなど一度もない。だから、今度もそうだと確信している。
 石動堅悟は、生きていてはいけない。
 この男は――最悪である、と。
 燐の体内に棲み着く黄金色の虫が、告げていた。