そこから先の展開は速かった。
四周を囲う火炎による酸素不足がそうさせたのもあったが、そも、石動堅悟という非正規英雄の持ち得る技術・性質からしても本来その真価は短期決戦型にこそある。
莫大な魔力の消費を犠牲に発生させる『絶対切断』。
今でこそ刃が触れる瞬間にのみその能力を解放させる方法で以前より低燃費にはなっているが、それでも消費量から鑑みて長期の戦闘は望めない(能力性質上での最大最善手であったはずの『初見殺し』も、石動堅悟の現在の知名度から見れば通ずる機会は皆無と見ていい)。
この男を示す代名詞たる
此度の戦闘をもって、堅悟は初めて自分から聖剣を手放す決意をした。
刃に触れさえすればいかな物質物体、果ては概念でさえ斬り捨てられる。あのリザが持つジークフリートとは別ベクトルでの『最強の剣』。
それを無くして、尚。
巨躯の悪魔への疾駆を開始してから、ものの数分。これまで潜り抜けて来た死線の中でも最短時間での決着であった。
その行動を、悪魔は
超速再生力、そして時間経過によっては発火にまで達する高熱の血液。
これらが燐の持つ悪魔としての力にして、ネトゲ内における彼女の通り名でもある
即死の怪我でなければ深手からでも復帰し、その際に傷口から噴出した血はやがて敵を追い込み余裕を無くしていく。
此原燐は決して強者の部類に入る準悪魔ではない。それでも幼い頃から今まで生き残り続けられてきたのは、この能力によって戦闘を長期に引き延ばし英雄から残る余力を奪い尽くす戦法を得手としてきたからだ。
炎と酸欠に怯え焦りを見せた英雄は今回のように相打ち狙いの特攻を仕掛けてきたし、そうでない者もやがては熱にやられ、あるいは持ち前の豪腕によって沈んできた。
よって、定石通りに叩き潰す。能力を使用する魔力も残っていないのか武器すら放棄した英雄など恐れるに足らず。
自らの血液によって燃える巨大な腕を持ち上げ、振るう。鬼の如き悪魔の拳一発で、英雄など簡単に挽き潰れる。
―――というのが、燐のいくつかある誤解と誤算の内の一つであった。
「!?」
突然増した速度、氷上を滑るように右半身を前面に押し出したスライド移動。活歩という中国武術由来の疾走を燐は知らなかった。
空振りした拳が競輪場の地面を抉り、大きく揺るがす。その振動を、エネルギ―を、震脚と共に己が内へ吸収する。見上げるほどの巨躯の懐へ入った堅悟の両手が真上へ持ち上げられる。
相も変わらず型崩れな一撃、
腕が吹き飛んだかと錯覚するほどの打撃に、燐の表情が強張る。大丈夫だ、即死でない限りは腱が切れようが筋肉が弾けようが再生する。そう自身に言い聞かせ。
再度持ち上げようとした巨腕が、動かなくなったことに絶句した。
驚愕に次ぐ驚愕、もはや何が起きているのかわからない。肩が、先の一撃を受けた肩が動かない。
勘付く。違う、動かぬのではない、これは。
「外れた関節は再生の領分に入るか?答え合わせは御覧の通りだ」
声が右から左へ流れる。背後から狙われている。
「くっ!」
慌てて左の裏拳で背後を薙ぐ。一切返ってこない手応えに歯噛みすると同時、相手にこれを誘われていたことを知る。
ゴギンッ、と今度ははっきり肩関節が外れる音を聞いた。
相手の攻撃を利用、あるいはベクトルのコントロールによって反撃に転ずる化勁の一手。
思い切り振り回した腕の勢いを利用され、追加で自前の発勁を叩き込まれた腕は捻転により可動域を容易く超えて脱臼する。
両肩を外された燐が真っ赤に燃える顔を蒼白に染める。馬鹿な、ありえないという思いが胸中を巡り荒れた。
魔力大量消費が主な欠点と挙げられる英雄の神聖武具。それを手放した者がどうなるか。
基本は死である。かつて老師に教えられた通り、非正規英雄はその常識外れの威力を有する武具に依存し、それのみを頼りに闘う者が多くを占める。故に、武器が手元から離れる状況で生き残れる英雄は数少ない。
逆を取れば、それでも生き残れる英雄こそが正真正銘の猛者であることを示す。
さらに言うと、石動堅悟のように武術の心得のある者であれば、この状況自体は別段不利と断ずるほどのものではない。
これこそが悪魔の誤解。
普段は武具に回すのが常である、全魔力の身体強化全振り。
堅悟の真価が聖剣にあるのなら、その深奥にあるのは実のところこれであった。
中国から帰ってきて、一日たりとも欠かしたことのない、未だ半人前の武技。不足を補う魔力の強化、放出。
「さあ、仕上げだ」
もはや後退しか成す術のない燐の正面に、堅悟が立つ。
燐の悪魔形態は両腕が大木のように肥大化するのに対し、それを支える両足は腕ほどは太くなく心もとない。だからこそ攻撃方法は腕を使った圧殺、殴殺が主だった。蹴りは威力が出せないのだ。
こうなれば外れた肩ごと腕を食い千切るか、と考える。これまで脱臼を体験したことが無かったのでこの事態は知らなかったが、一度捥げてしまえば再生は十全に機能を果たす。
それまでの時間を、堅悟が許してくれればの話だが。
しかし、それでも。
「…好きにすれば。どうせ、あなたなんかに、素手で倒されたり、なん…て」
悪魔に対し英雄の肉体は人間のそれと変化ない。いくら強大な力が渦巻いていようと、あんな細っこい手足でいくら殴る蹴るしたところでこの身体に致命傷は与えられない。
それが最後の誤算。
言い掛けた燐の強がりの語尾が次第に小さくなり、とうとう黙りこくる。
眼前の光景が信じられなかった。
「……なに、それ」
「ソロモン・部分変化」
あっさりと答えた堅悟が、右腕を大きく振りかぶる。あまりにも体に見合わぬ、巨木と見紛う赤い腕がずっしりと人間の肩から生えていた。
あまりに奇形、どこまでも奇怪。
半ばに怪物の腕を宿す堅悟の方こそが化物に見えるほどに、その外見は不気味で。
なによりもその腕が、とてもよく見覚えのあるものだったのが信じ難かった。
此原燐の悪魔形態時のそれと酷似する腕が、どうして英雄の腕に?
考えるまでもない。そもそも答えは相手が自ら暴露した。
見たことのある生物になら、なんであれ変化することが可能な装備。
「だか、らって……悪魔の、姿を……英雄の力で模倣する、なんて……!」
「生物であることに、変わりはないだろう?」
あっけらかんと答える堅悟に、そうではないと叫び出しそうになった。
そんな侮辱があるものか、そんな冒涜があるものか。
神から賜った英雄の能力で、まさか悪魔の力を使おうなどと誰が思おうか。
きっとこの男しかいない。どちらにも嫌厭を示し、どちらにも属さないこの男にしか出来ない。
石動堅悟は、やはり最悪の人間だ。
「意図的に脳震盪を起こす加減がわからねえから、とりあえず全力いっとくか。歯、食いしばれよ」
じりじりと後退りする燐に、情け容赦のない声が投げつけられる。
罵詈も罵倒も、雑言も謗言も間に合わなかった。
普段英雄に叩きつけているこの豪腕が、まさかここまで重いのかと知るのも初めてのことだった。