燐と
先頭を走る堅悟の耳に引っさげたイヤホンから中継車で社内のカメラ映像をモニタリングしている海老名の声が流れていく。
「気をつけて。この先からとんでもない魔力を持つ準悪魔が近づいてる」
堅悟はその声を受けて立ち止まり、後続の三人に警戒するように振り返ると狭い通路の角からオールバックの背の高いスーツ姿の男が靴音を鳴らしてこっちへ向かって歩いてきた。
「あれは…」
緊迫した声を漏らす菱村に四谷がいつもと変わらない平坦なトーンで語りかけた。
「
日部課長はその場で止まるとポマードの付いた髪を撫でながらリリアックの四人を長身から見下ろして言った。
「賊に名を憶えて貰えるとは光栄だな。しかしここから先は通さん」
「…来るぞ!」
堅悟が声を張り上げるとその身を突風が突き抜ける。日部課長が腕を交差させて気を溜めると背中から真っ黒な翼がスーツを突き破り、詠唱と共に邪悪武装を発現し、異形の姿へと変貌を遂げた。骨が剥き出しになった両角が頭部から生えた痩身の悪魔が空中に浮かび上がる。
「どーするんじゃ、アレは強いぞ」
「決ってんだろうが!」
久慈の声を背に堅悟がエクスカリバーを解放する。本来のヒュペリオンの姿を現した日部梨王が両手の中で練成した真っ黒な球体を堅悟に向かって投げつけた。
「いけない、先輩。あの球は」
四谷が声を出すと共に菱村が最前に出た。「おい、何やってんだ!お前が敵う相手じゃねぇ」堅悟の忠告を無視して菱村が変形した右腕を投げつけられた球体に向かって伸ばす。
一瞬で鰐口状に広がった右腕が球体を飲み込み、ばふん、という大きな音が整然と並んだ牙の横から吐き抜けて行く。「あの刹那で球の特性を見抜くとは、大した奴だ」ヒュペリオンが空中で腕を組んで大きな顎を震わせて口を横に開いてみせた。
「ティンダロス。俺とシオンの能力だ」
呆けたように目を見開いた堅悟に菱村があきれた顔で振り返った。
「潜入前に敵の能力を頭に入れておけ、と言ったのはお前だろう。あの球は触れるとその瞬間、半径1メートルの空間を抉り取る。俺の腕ならアイツの能力が発動する前に無効化出来る」
「先に行け、石動。ここはワシとあやつで食い止める」
久慈と菱村に諭されて堅悟はエクスカリバーを引っ込めて四谷と共に通路の先に向かって駆け出した。「行かせんと言っている!」ヒュペリオンが再び球を練って堅悟に向かって投げつける。背後から伸びた肌色の悪魔を踏み台にしてそれを避け、堅悟が二人に声を張る。
「デビルマンはお前らに任せた!死ぬんじゃねぇぞ!童貞コンビ!」
「な、」「誰が童貞じゃ!」
仲間の抗議の声を背に堅悟と四谷はその先の通路を抜けて走り出す。「先輩も人が悪いなぁ」堅悟のすぐ後ろで四谷が冷淡に笑う。「菱村が相手の魔力を喰う能力を持っていて助かった」言い返すようにして堅悟がこめかみの汗を指で弾く。
「相手はバハムートの『槍』のヒュペリオン。生易しい相手じゃない」意に介さず四谷が言葉を続ける。「新入りの面倒を見る、なんて偉そうな事言ってさ。あれじゃ捨て駒と変わらないじゃない」
堅悟がその場で立ち止まる。「ん?怒った?」通路横脇のエレベーターホールのひとつが開き、その中から炎を纏った壮年の男とちぎれた触手を引きずった少女が歩いてきた。
「あれはクトゥグアさんとクトゥルフちゃん」
四谷が声を漏らすとクトゥグアが乱れた前髪から睨むようにして堅悟の姿を視界に収めた。敵と交戦してきたのだろう。クトゥルフのドレスのいたる所が破れている。クトゥグアが息を整えて堅悟に向かい、言った。
「『翼』と『炎』はこちらの方で排除しておきました。馬場社長、いやバハムートはこの階の本会議場に居ます」
「すごい、あの守護隊の特記戦力をたった二人で退けるなんて」
感嘆する四谷の隣で堅悟はクトゥグアの言葉に嘘偽りはないと判断する。「セバスチャンー。なんだか少し疲れちゃった」「もう少しですからねお嬢様」ぐずり始めたクトゥルフに優しく語りかけるクトゥグアに堅悟は広げたその手を差し向けた。
「行けよ。他に目的があるんだろ?」
四谷がこの状況で未だ姿を見せないハスターや、潜入前に二人が念話によって対話していたマーリンという人物を思い浮かべるとクトゥグアがクトゥルフの手を引いてその場を歩き始めた。
「ありがとう。恩に着ます」
クトゥグアは割れたモノクルを顔から外すとクトゥルフを連れて堅悟達とは別のタスクを成し遂げるべく行動を始めた。長丈の燕尾服の袖からは鮮血が滴り落ちている。彼らの後姿を見送ると四谷が噛み締めるように言葉を吐き出した。
「準悪魔として同じ魔力を感じ取れるクトゥグアさんによるとバハムートは本会議場で僕達を待ち構えている」
状況を反芻する四谷に向かい堅悟は自身の決意を再度固めるようにして声を張った。
「ここからは俺ひとりで行く」四谷は一瞬驚いた顔を浮かべたが堅悟の意思を汲み取るといつもと同じ冷淡な笑みを浮かべてその場を離れた。堅悟は目の前にあった配管を引き抜くとそれを身の丈にあった鉄パイプに練成させ、サバイバルジャケットの背中に差した。
――はぐれ者の英雄と悪魔達の力を借りてここまで来た。もう後戻りは出来ない。リリアックは世界経済を揺るがす巨大企業の社長を殺した組織として歴史にその名を刻むだろう……それがどうしたよ?開き直りに似た笑いが胸の奥からこみ上げてくる。頭の中の悪魔と天使が共に『行け』と囁いている。
こうなってしまった以上、心に迷いは無い。ただれた因果は俺の聖剣で叩き斬るより他は無い。堅悟は勢い良く本会議場の重たいドアを開けた。
がらんどうの壇上には薄いスクリーンが張ってあり、その中には世界地図がプロジェクターによって映し出されていた。世界を我が馬場コーポレーションの手中に収める。解かり易い演出だ。
「貴様が賊の頭目か」堅悟がスクリーンに流れる映像を鼻で笑い飛ばすと舞台袖から折り目の正しいシャツに着替えた荘厳な顔つきの男が姿を現した。間違いない。堅悟は舌なめずりをして辺りを見渡す。
「安心しろ。この部屋には私の他にいない」馬場夢人が壇上から堅悟を見下ろすように眺めた。その瞳には悪魔特有の深淵の闇ではなく、人間的な温かみが浮かんでいた。
「石動堅悟、英雄として能力を得たお前がこのような愚かな蛮行に手を染めるとは非常に残念だ。なぜその力を困窮する民の為や世界にとって有益な事に使わん?」
「はっ、悪魔に説教されるとは夢にも思わなかったよ」
堅悟がジャケットの胸ポケットをまさぐって円筒状の爆弾を取り出した。「そうか。もはや会話は意味をなさんか」ズボンから両手を引き抜いた馬場夢人に堅悟がそれを地面目がけて投げつけた。
「てめぇらがそんなクソみたいな世の中を創り出してるからに決ってんだろうが!」
まばゆくきらめく閃光弾に目を閉じたままバハムートは邪悪武装を発現し左脇から迫る気配に意識を集中させ、大気からかき集めた水分を練成して作った大剣を飛び掛る堅悟目がけて勢い良く振るった。
「忍び込んだ鼠から己の城を護れぬほど能無しではないわ!」
堅悟が背中から取り出して振り下ろした鉄パイプが弾かれて奇麗に空中で輪を描きステージ脇に床にめり込んだ。ジャケットの胸ポケットから転げ落ちたもうひとつの閃光弾が再びまばゆい光を放って消える。
「石動堅悟、数々の戦歴から貴様のアーティファクトはこちらに知れている。『絶対切断』の切れ味を持つエクスカリバー。刀身の動きさえ警戒していればさほど脅威は感じない。遊戯は終わりだ。早く立ち上がってかかって来い」
「…こっちは最初から全開なんだよ」
尻餅を着いた堅悟が海竜を模した面を嵌めたバハムートの顔を見上げる。堅悟が不敵に微笑むとバハムートの体躯が大きく揺らめいた。
「な、何だと」
不意に自分の身体を貫いた衝撃にバハムートはその場で身を屈める。目の前に倒れこんだ堅悟の顔が粘土細工のようにとろけるとその中からまだ幼い少年の顔が姿を現した。
「残念。こっちはニセモノ」
仮面越しに大きく見開いた瞳でバハムートは四谷の視線の先を振り返る。中二階の死角から弓を構えた堅悟が勝利を確信した表情で見つめている。
「ソロモン・部分変化によるエクスカリバーの変型。アポロンとでも名づけようか。やるじゃん石動先輩」
四谷が微笑み返すと堅悟が標的を射抜いた衝撃から打ち震えながら片膝を起こして立ち上がる。
「まんまと獣と鳥に謀られたな」
準悪魔でも最強とうたわれる装甲三柱の一角であるバハムートにとってあまりにも微々たる一撃。しかしそのちいさな『絶対切断』による矢尻が明暗を分けた。
薄暗がりのスポットライトの下、全世界に点在する従業員誰ひとりにも見届けられる事無く海竜バハムートがその場に崩れ落ちた。
第二十二話 完