まるで世界の終わりみたいだと思った。
 さいたま新都心駅。そのアーチ状の屋根に上った鈴井鹿子は、近くのコンビニで買ってきたチョコ味のチュロスにかぶりつきながら、火を上げ、煙を噴き、咳をするように瓦礫を散らす――デビルタワーの最期を見届けていた。
 野次馬は、鹿子ひとりだけではない。辺りを見回せば、敢えて捜さずとも目に留まる。名うての非正規英雄。いつか取り逃したA級の準悪魔たち。
 噂の真贋しんがんを確かめに、遠路はるばるやってきた――多くの人ならざる者たちの影と影がデビルタワー周辺に集い始めている。
 今日、バハムートが討たれるか、それともリリアックが滅びるか。
 どちらにせよ、ここで起きた戦いはこの場所だけのこととして終わらない。終わるはずがない。。無論、カイザーが動く。それに合わせてリザも動くだろう。リリアックが敗北したとして、まるで初めからそうであったようにばらばらになった四肢が個々の意思を持って動き始めるはずだ。
 これは――石動堅悟が始めた戦いだ。
 世界はぎりぎりのところで上手くバランスを保っていた。カイザーの暗躍があれど、英雄が楽しみのために人を殺そうと、全ては世界という名の巨大な装置を動かす歯車として――正常にその役割を果たしていたのだ。
 それを、奴が狂わせようとしている。
 だから、集う。非正規英雄も、準悪魔も、それらを統べる不可視の存在も。
 無数の目が向く。彼の――彼らの戦いを、その結末を見届けるべく、鈴井鹿子も崩れゆく塔から決して目を離さない。
「戦いが、始まるんだ」
 鹿子が呟く。
「いつも通りだけど、いつもと違う。英雄と準悪魔の――? ううん、もう、そんなに簡単な話じゃ、なくなってる」
 簡単じゃないということは、これから先は、これまで通りではいられないということだ。
 鹿子は想う。つい数分前まで隣にいた男の姿を。
 滾る何かを隠しきれず、黒煙の塔に向かって走り出した、あの男の背中を。
「ねえ、間遠。あんたは、どうするつもり?」
 誰のために戦う。何のために、剣を抜く。
「って、愚問もいーとこか」
 鹿子は自嘲するようにため息を吐く。
「――それを、確かめに行ったんだもんね」
 最上階が爆炎を吐き出すと共にオレンジ色の光を放った。


 デビルタワー最上階。決戦の本会議室。
 すでに剣と剣との間に火花は散らない。
 涼しい顔の間遠に対し、堅悟の動きに余裕はない。
「正直に打ち明けよう、石動堅悟」
 魔力が切れる。堅悟の手から剣が消える。
「俺は、正義も悪もどうでもいい。そもそも俺に、帰属意識なんてものはない」
 和宮は機械的に堅悟との間合いを詰める。その挙動に、五感の一部を失った様子は感じ取れない。
「石動、お前の正体は――どれだ? うだつの上がらない高卒フリーター? それとも善性を権威ある他者から承認され、正義を標榜して浮かれていた英雄としてのお前か? 或いは、適性という名の現実に絶望し、天使たちに剣を向けた反逆者としての己か」
「黙れ!」
 指輪の力を使う。熊のような腕を生やし、アンスウェラーの一撃を受け止める。けれど、これ以上は――。
「言葉でお前自身を規定しろ。俺に説明するんだ。お前が何者であるかを、俺に――教えてくれ。でなければ、俺はお前を」
「殺す――ってかい」
 底をついた魔力、体力も限界に近く、先刻躱しきれずに抉られた脇腹の傷は見た目よりもずっと深い。
 限界。
 その二文字が脳裏を過ぎる。
 間合いが、遠い。
 目もかすむ。
 そもそも連戦には不向きな能力だ。
 だからといって間遠和宮イレギュラーを責めることは出来ない。
 これはむしろ想定されていた事態だからだ。
 堅悟は、時間稼ぎに――笑う。
「間遠、俺を潰したところで、リリアックは死なんぜ。なんせ、俺たちは――」
「集団であり、個でもあるのだろう」
 間遠はじらす。
 自ら剣を消し去り、丸腰で堅悟と対峙する。
「お前が組織の細胞のひとつに過ぎないことは、理解している。だが、お前という男を形作る細胞は? お前を動かす歯車は、一体どこに眠っている。あまりに茫洋ぼうようとしている。漠然としている。俺は、その答えを知りたい。定義づけるのは、飽くまでお前自身であると思っている」
「はは、茫洋ってかい」
 堅悟は、やはり嗤う。
「よくわかんねーけどよ。まあ、なんつーか。どこで死のうと、文句は言わねえ。……そういう約束だ」
「ならば石動、お前はただ蒙昧もうまいに海へと向かう、自殺者レミングの一匹に過ぎないのか?」
「支配されたくないだけさ」
「支配、か」
 ああ。
 堅悟は頷く。
 額の汗を拭う。
「生きるも死ぬも、俺が――決めるってことだ!」
 そう言って、堅悟は間遠に背を向ける。
 走る先は、黒煙の壁。
 波打つ壁。
 有機的でも無機的でもない、それは虚無という名の――
 転落である。
「待て、石動堅悟――ッ」
 声が響く。遠ざかる。遠ざかる。追っては来ない。来られない。
 音は風だけになる。風は音だけになる。熱を持った黒い疾風。それが全ての呪縛を断ち切り、堅悟を緩やかな死へと誘った。ありとあらゆる音が消える。それと同時に音が満ちる。空が離れていく。死が近付いてくる。
 傷口からぼろぼろと肉が削げ落ちていく。やがて骨だけになった身体も空に置き去りにされ、石動堅悟という個を持った何かだけが地上へと向かう。
「――いや」
 まだ。
 肉も骨も、意識という名の魂も、まだ自分自身という殻のままだ。
「さい、ごの――ちか、ら」
 残っていた。
 いや、残していた。
 堅悟は強がる。
 あと、何秒かだけ。

 まるで人間のような黒い影が落ちてくるのを見た――と、誰かが言った。
 ふ、と。それが光を放った、と。
 そしてその直後、黒い影が、忽然と空から消えてしまった、と。



 雨が、降っている。
 傘を差して歩く人々の群れ。
 歩く足取りは幼児のように覚束おぼつかない。不良同士のくだらない喧嘩か、或いは置き去りにされた酔っ払いか。そんなカラスに荒らされたゴミ捨て場を見るような目つきが、路上にうずくまった彼の背中に突き刺さる。
 雨が、降っている。
 アスファルトが膝を濡らす。脇腹から滲んだ血が、じわじわと広がり、痛みを抑えるためにと呼吸は次第に小刻みになっていく。
 通行人たちは迷惑そうに素通りしていく。
 この季節の雨を温かいと感じるのは、何かしらの末期症状なのだろうか。凍える、凍える、凍える、凍える。けれど、人々の無関心はそれ以上に冷たく感じる。
 そして冷たさが、今度は彼にある種の心地よさのようなものをもたらした。
 ――いいさ。
 そのまま死ぬまで興味を向けないでくれ。そして死体になった俺を見て、より蔑んだ目を向けるか、情けない奴だと嘲笑ってくれ。
 石動堅悟は、朦朧とする意識のなかで、
「そこで、何をしているのですか」
 やけに鮮明な声を、耳にする。
 雨が止んでいた。それと同時に、わずらわしかった雑音も、視線も、何もかもがぷつりと途絶えた。
 ああ、死んだのか。
 そう思った。
 これでようやく楽になれるな、と思って立ち上がろうとして、すごく――痛くて、血が、また溢れてきて。
 顔を、上げた。
 そこにあるはずの誰かの顔を、見たかった。
 見て、確認したかった。
 やっぱりそうだ、と言いたかった。
「やっぱり、そうだ」
 堅悟は顔をくしゃくしゃにする。
「翼、ちゃん」
 スウェット姿にサンダルで髪もドライヤーで乾かしたばかりのようにぼさぼさだけれど、知性的で愛嬌なしの――天使のような女の子が、そこにいて。
「立てますか、堅悟様」
 応えられず、うめき声をただ漏らすと。
「あまり、情けない姿を見せないで下さい」
 眠るように気を失った堅悟の頭をそっとその胸に抱き留めて。
 用なしになった傘が、こつんと音を立てて黒々と濡れたコンクリートに転がった。



   第二十三話「そして終わりは始まらない」 完