「弓彦さん?お茶が入ったのだけど」
「うん。…もうそんな時間か。いやはや読み物は時間を忘れるな」

 キリの良いところで栞を挟み、パタンと閉じた分厚い本を白いテーブルに乗せる。それを、まるで弓彦から遠ざけるように手元へ引き寄せるリザ。代わりとばかりに本のあった位置へとティーカップを、若干乱暴にも思える勢いで受け皿ごと置いた。

「もっと静かに置きなさい、リザ。零れてしまう」
「彼女そっちのけで本なんかに構うからよ。こーの暑い中でご丁寧に白衣まで着て、まったくお医者様の鑑ね」

 いくらか伸びた銀髪を鬱陶しげに一つ結びにした彼女は随分と大人びて見える。が、それは彼と釣り合おうとする努力が故の変化であった。内に至っては未だ少女の面を隠せない。

「君が薦めた本で、君が感想を急かす本だぞ。結果的に、これを早々に読み終え内容を語り合うことに行き着くことが、君との付き合いへの最短の道筋だと判断していたが。違ったか?」
「違う、全然違う。そんなの私が居ない時にやって。読書は一人で出来るわ、でも会話は?共に過ごす時間は一人では成し得ないものよ。私はそれこそを望むの」

 弁も立つようになったものだ、と弓彦は内心で舌を巻いた。少し前ならばこの程度でもう唸りながら白衣を引っ張ったり軽い拳をぶつけてくる段階になっていたはずだ。
 成長している。彼女は成長している。
 リザの心に刻まれた傷は未だ根深く残っているが。それを埋め切ることは絶対に不可能なことなのだろうが。
 こうして少しでも、間近で彼女の感情を受け取れることが弓彦にとっては嬉しかった。ぶつかる感情に、正も負も問わない。人として怒り喜ぶ彼女を見ていたかったから。
 ただやはり、そんなことは彼女は知り得ない。

「…論破してやったと思ったのに、どうしてそんな嬉しそうなの弓彦さんは。ちょっと不気味」
「大人には大人の感情表現があるのだよ。君にもいずれわかる」
「また、そうやって」

 自分の分のカップを置いて、リザは椅子に腰掛けずに座る弓彦の隣に立った。腰を屈め視線を落とし、彼の白衣の胸元をぐいと引く。
 直近で互いが見つめ合う。鼻先が触れそうになるほどの距離で、リザは囁く。

「私だってもう大人。大人になる。歳の問題じゃない、私は貴方を追い掛けて、追い縋って、追い着く。いつかは追い越す。今はまだ、その途中」
「そうか。で、あれば」

 彼女の吐息が肌をくすぐるのにもさしたる反応を見せず、弓彦は眼前の少女の頬に触れ、髪に手櫛を通し、そのまま後頭部へと手首を返した。少しだけ力を入れ自分の側へと引き寄せる。弓彦は顔を逸らさない、不意を突かれたリザは逸らすということすら意識に無い。
 必然的に重なる唇。その直前、

「もう一歩、大人とやらの階段を上ってみるか」

 彼なりの褒美のつもりだった。大人と認める儀礼の一つと認識していた。
 直後に顔を真っ赤に染め上げたリザの正拳が飛んでくるまでは、自らの行為に落ち度があるなどとはこれっぽっちも思わなかった。いやその後も思っていない。
 完全に意表を突かれてセクハラだなんだと喚き散らした翌日の彼女の表情を見たものならば、きっと彼の言い分に一も二も無く頷きを返していただろうから。

 医者と患者が、青年と少女というだけの間柄から関係を持ち始めた、これは二度目の夏のこと。