「弓彦さん弓彦さん!ちょっと来てー」
台所から呼ぶ妻の声に引かれて来てみれば、そこではコンロに置かれた鍋を前に手招きをしているリザの姿が。
「なんだいリザ、そんな大声で。淑女たるものだね、必要以上に大きな声を出すことははしたないことだとされていて」
「そんなんどうでもいいから、ほら見てこれ!」
どうでもいいと一蹴されたお小言の続きもそこそこに、弓彦はリザの指差す鍋の中身を覗いてみる。これほどに興奮した様子のリザも珍しかったから、ついそちらの方に興味が勝ってしまったのだ。
そこでは煮込まれた具材が湯気を上げて懐かしき香りを放っていた。何かと考える必要すらない、この料理は。
「…肉じゃが、か」
「そう!貴方の母国ではこれが料理の定番って聞いたわ。ニホンってところと同じ食材と出来るだけ同じレシピで作ってみたの。ふふん、ここまでの完成度に到達するまで何度失敗してやむなく自分の胃袋で処理する羽目になったかわかる?十回目以降からは普通に泣きそうだったわ」
驚きに目を見開く弓彦に喜びを隠しきれないのか、胸を張って早口に捲し立てる。
確かにこれは見事なまでの完成品だと言えるだろう。口にするまでもなくわかる。箸でつくだけでほぐれそうなジャガイモも、色づいた牛肉も、煮汁に溶け込みそうなほど同化した飴色の玉ねぎも、とても初めてで出来た一品には思えない。
本人が語る通り十数度、あるいはそれ以上の失敗を経て到達した域なのだろう。
「……本当に懐かしい匂いだ。もう生きてる内に食べられるものかどうかも怪しかったが、凄いな。まさかと思うが私の為に?」
「まさかも何も、それ以外に無いでしょう。旦那様の喜ぶ顔が見たくて頑張った奥さんに、何か言うべきことがあるんじゃないの?」
額に浮かべた汗を手の甲からエプロンへ拭うリザへ、弓彦は喜色満面で頷いて見せた。
「ああ。ありがとう、リザ。君のような妻を持てたことを、生涯の誇りに思うよ」
「でしょ。日本食って中々奥が深いのね、次も何か作ったげるから、リクエストがあれば早めにお願いね」
感激した様子で答えた弓彦の忌憚なき感想に破顔して、上機嫌で皿に肉じゃがをよそいながら次回の献立を考え始める。
流れる風に冷たさが目立つようになり、木々の葉が青々したそれから紅葉し散り初めた初秋の日のこと。
久方ぶりに食した故郷の味は心身ともに彼の胸を温めてくれた。一生懸命試行錯誤してそれを作ってくれた妻に対しても、また同様に心に温もりをくれる愛情を感じる。
彼女から妻と呼称が変わり、いよいよ夫婦としての形を成し始めてから迎える秋季。
そんな穏やかな時間をしばらく過ごしてから、弓彦は妻からこんな話を聞いた。
「そういえば、私も働き口を見つけたから。まぁちょっとしたバイトみたいなものなんだけど、雀の涙程度でも収入は期待してて頂戴な」
その時、彼はそれにさしたる疑問を抱くこともなくただ首肯した。無理をするな、怪我に気を付けろとも言った記憶がある。
平気よと返したリザの笑顔は本物だった。紛うことなくそれは夫であった彼には断言できる。
だけど抜かった。彼は幸福な生活の中にあって忘れていたのだ。そして、彼女はそれを決して忘れていなかった。
その柔和に細められた瞳の奥の奥。底の底。
もはやありえるわけがないと思っていた、彼女のトラウマを生み出した元凶への憎悪。最愛の両親を殺した仇のこと。
何もかもが甘かった。
幸福を噛み締める傍らで、まさかこの娘が未だそれを追い求めていただなど。
この時ばかりは、大戦を終結に導いた功績者の片割れである彼にも知る由がなかった。